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冬嵐記  作者: 槐
第六章

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174/308

29-5

 お互いに、話せないことがあるのは重々に理解していた。

 興如が言わないことについて掘り下げる気はなかったし、相手もそうであってくれれば非常に助かる。

 もちろん勝千代側が伏せたいのは、朝比奈殿が今朝がた御正室らを手に掛けてしまい、下手を打てばあの人まで腹を切りかねないということだ。

 幸いにも、興如は何も聞いてこなかった。

 ただ黙って、日当たりの良い庭先で、勝千代が口を開くのを待っている。


 周囲には誰も人はいない。たいそう渋られたが、勝千代の側付きや護衛たちも、声の届かない離れた位置にいる。

 念のために弥太郎も見張ってくれているので、この会話を聞いている者はいないだろう。

 それでも、なお口が重く、第一声を発するまでに時間を要した。


「篠山殿とその御兄弟が、そろって城を出奔しました」

 篠山殿とは、朝比奈の御正室のことだ。

「今棚田が捜索範囲を広げて探していますが、まだみつかりません」

「それは……」

 興如は言葉を選んで何かを言おうとして、結局口をつぐんだ。

「逃げ出したという事は罪を認めたという事。おそらくですが、このまま朝比奈殿とは離縁になるかと思います」

 今朝がたの事件が起こらなかったとしても、離縁して幽閉という結果にはなっていた可能性は高い。

「ただ、詮議もほとんどないままに出奔してしまったので、少なからず問題があります」


 朝比奈家は、今川にとって欠くべからざる有力一族だ。

 親族の数も多く、今川本家だけではなく、近隣氏族との血縁上のつながりも強い。

 しかしそれはあくまでも地方の武家の事情に過ぎず、今回の寒月様の御屋敷を夜討ちした一件を、誰も責任を取らないうちになかったことにはできないだろう。

 篠山殿がいなくなってしまった今、それらはすべて朝比奈殿が負う事になる。

 摂家のひとつに刃を向けるのは、それだけ大きな事件なのだ。


「ですが、今の状況で朝比奈家当主を失う訳に参りません」

 北から武田家、西からは西三河連合が攻めてきている。

 そのどちらの戦線でも、朝比奈家は重要な役割を担っている。

「我らは今回の一件と、西三河の蜂起が同時に起こったことを疑問視しています」

 勝千代は小さく首を傾け、じっとこちらを見ている興如と視線を合わせた。

「しかも、朝比奈殿が遠方に出陣なさっているときに起こった。……狙ったとしか思えません」

 この考察については、あくまでも「おそらくは」の憶測にすぎないもので、確証があるわけではない。

 前提に真実があるわけではないので、組み込むには不確定要素が多すぎるが、今話したいのは別方向だ。

「どちらの主導で、どうやって時を同じくしたか。……そのあたりのことは、今は置いておきます」

 勝千代程度のつたない話術で、この老獪な男が騙されてくれるだろうか。

「このまま篠山殿らが見つからなければ、一件を教唆したという証拠がなくなり、鏡如らの罪が問えなくなる可能性が出てきました」

 いや、騙すと言うのは語弊があるな。

 どういう状況なのか悟られても構わないが、それを胸におさめ、協力体制を築いてもらえるか。つまり、こちらの状況に知らぬ顔でいてくれるか否か……だ。

「鏡如らは、それを狙って方々を逃がしたのかもしれません」

 本当は違うけどね。

 首根っこを押さえつけているから、動きようがないんだけどね。


 シナリオとしてはこうだ。

 そもそも、朝比奈の御正室は、贅を求め人身売買に手を染めていた。

 その事が露見しそうになり、一連の事件を起こしたことにするのだ。

 愚かな彼女は、何もかもを失う前に、証拠をすべて消し去ってしまえばよいと鏡如らにそそのかされた。

 隠棲中の寒月様を襲い、福島家嫡男を狙い、ついでに岡部の娘や東雲も殺そうとした。

 そそのかした鏡如には西三河の息がかかっていて、わざと事を大きく、朝比奈家の瑕疵になるように動いたのだ。

 目的は、今川の権勢を削ぐこと。

 公家と今川家との反目が表沙汰になれば、これまでのように勢力拡大路線を続けることはできなくなるかもしれない。

 あるいは公家を味方につけ、今川を遠江まで押し返すことができれば、連中の中で最も権勢のある者が新しい守護……とまではいかなくとも、守護代にはなれるかもしれないと絵図を描いた。

 

 ……どうだろう。

 すべてが絵空事でないだけに、ありえなくはないと考える者は多そうだ。

 実際のところは、そんなに壮大なたくらみではなく、この筋書きよりももっと小さな視点で物事が動き、それが連動したのだと思う。

 たとえ多少なりと狙った者がいたとしても、せいぜい、朝比奈殿が遠方にいる間に、不仲な奥方の尻をつついて暴発させよう、と狙った程度のことだろう。

 鏡如を送り込んだのが西三河だったのか、ということも怪しい。そもそも鏡如は今川に近しい血筋の人間で、敵勢力に肩入れする理由がないからだ。

 だが、あの男が時を選んで朝比奈を破滅の道へ導こうとしたことは確かで、実際に寒月様や勝千代を葬ろうとしていた。

 まあ、乗せられやすそうな男だったから、朝比奈の御正室と同様、甘言をならべ立てた何者かに操られていた可能性もないわけではない。


「あ奴らを早々に始末したいとおっしゃる?」

「いえ、まさか!」

 わざとだろう、興如は露悪的な口調でそう言って、勝千代の反応をうかがっている。

 それをきっぱりと、彼が長年狙い続けていた獲物を横から奪いはしないと首を振る。

「言い逃れができないよう、西三河と密約を交わしていたことを証言で取りたいのです。自白以外にも、何か物証があればなおよい」

 要するに、早急に事を上記の概要で収めたいという申し出だ。

 そのほかに余計な話が出てきたとしても、不都合な事には触れず、脇道にもそれず、筋書き通りに断罪したい。

 そう、朝比奈家が罪を負う事になろうとも、それと同等に、悪徳坊主と結託した悪妻にお家を引っ掻き回された被害者だと言わせたいのだ。

 周囲からだけではない。

 朝比奈殿本人もそう思ってくれれば言う事はない。


「物証を偽造するのは簡単ですが、そういう事を仰っているわけではなさそうですな」

 興如が、至極まっとうな聖職者の表情で、考え深げに禿げ頭をさすった。

「朝比奈の殿を御救いしたいと?」

「先ほども申し上げましたが、今の状況であの方を失うのは痛いのです」

「今川には、例えばあなた様の御父上のように、他にも有能な武将はいらっしゃるでしょう」

 そうだな。たとえば朝比奈家の中にも、当主の責務を全うできる人材はいるだろう。

 戦線の維持も、大敗とまではいかずなんとかなると思う。

 だが、そういう問題ではないのだ。


「人は、失ってしまえば二度ともどってはこない」

 この時代の人間の命の感覚と、勝千代の倫理観には大きな隔たりがある。

「あの方を諦めれば、朝比奈一門の心は今川から離れていくでしょう」

 戦で無辜の民が死んでいくことに胸が痛むのと同様に、死ぬほどの罪を犯したわけでもない知人が自らの命を粗末にするのは見るに堪えない。

 わかっている。

 これは戦国武士の思考回路ではない。

 甘い現代日本人の、犯罪者にすら人権があると考えられていた時代の感覚の残滓だ。

「……今川ね」

 興如は、何か含みありげにそう言って、勝千代の頭にそっと大きな手を乗せた。

 ごつごつとした、節高い手だ。

 遠くで、勝千代の関係者たちが身構えるのが見えたが、興如は撫でる手をどけようとはしなかったし、勝千代もそれを甘受した。


「……よろしいでしょう」

 しばらくして、興如が言った。

「この度の事は、我ら本願寺派がかぶりましょう」

「御坊」

「鏡如めが悪事に手を染め、やんごとなき方を抹殺しようとしたのは事実ですからな」

 想像以上の返答だった。

 何が興如をそうさせたのだろうと、あっけに取られていると、ぐっと顔を寄せられ皺首が視界いっぱいに広がる。

「お任せを。特大級の罪科を背負わせ、御仏の前に付き出して見せます」

 いや、それは逆にかなり怖い。

 見返りに何を求められるのだろう。

 人買いの追求を手控えろとかなら、非常に困るのだが。

「……それは、御坊に迷惑がかかるのでは」

「鏡如や如章のような輩がいることこそ、迷惑千万」

 近い距離にある顔の、その恐ろしく強い目力に圧倒されて、すぐに言葉にならない。

 勝千代のそんな様子に、ふっと興如の目元が緩んだ。

「その代わりに、お願いが」

 来るぞ。なんだ。何を条件に出される?

 身構えた勝千代の頭を、再び興如の皺指が撫でた。

「また拙僧と碁の勝負をして下され」

「……え」

「いや、なかなか白熱した勝負で楽しゅうて」

 はっはっはと柔らかく喉を鳴らすような笑い方に、勝千代は唖然とした表情を取り繕うこともできず、ただ緩く口を開け続けた。

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― 新着の感想 ―
[一言] さて、これを解決したとして、朝比奈は勿論、岡部の忠誠は誰に向くのやら
[一言] これは大きな借りになりましたねぇ。 しかし、鏡如は今川に近いとなると、これは福島だけでなく、朝比奈も弱体化させる気だった、という可能性もありそうな。 でも遠江朝比奈はもともと駿河の出だし、今…
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