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数日間昼夜を徹して馬を飛ばしてきた為だろう。
朝比奈殿は太陽が中天に昇る時刻を過ぎても眠り続けていた。
その間中ずっと皆が一か所にあつまっているのはあまりにも目立つので、すでに隠居しているという老臣の篠山と、その妻であり朝比奈殿の乳母だという御婦人だけが付き添い、勝千代を含め残りは目が覚めるまで席を外した。
もちろん、彼らだけにしておいたわけではない。
朝比奈殿自身があの場で油をかぶっていたことからもわかるように、おそらくは御正室を手に掛けた際に自裁するつもりでいたのだろう。
放置すればまた腹に刀を突き立てかねないので、周囲から刃物は排除し、目覚めたらすぐ知らせが届くよう見張りもつけておいた。
それでも不安があった。
人間、死のうと思えばどうやってでも死ねるからだ。
例えば今ここでは諦めても、前線に戻り戦死するような行動に出るとも考えられる。
思い出すのは逢坂らの事だ。
ほんの少し前まではあの連中も、今にも死んでしまいそうな、命の手綱を手放す寸前の有様だった。
武士としては、恥をさらして生きていくのはつらい事なのだろう。
潔く散るという道を選ばせないためには、それ以上に、生へと駆り立てる何かが必要だった。
逢坂家の場合は、盤面の駒にされたことへの憎悪を煽った。
朝比奈殿には、何が必要だろう。
御正室への愛情故に、同じく罪を背負うというのであれば止めようがない。
だが、朝比奈家の名に傷をつけ、微塵も顧みなかったあの女の事を、そこまで近しく思うだろうか。
勝千代は、卓上に置いた寒月様の書簡を前に、思案した。
一度御正室らに読み聞かせたので、内容はわかっている。
今すぐ罪を認め、真摯に謝罪し、身を慎み沙汰を待てとある。京の実家にも連絡を入れ、身分を剥奪するなどの厳しい罰を与えるつもりだと。
通称ではなく、官位付きの本名で書き記された書簡は正式なもので、寒月様の怒りと本気度が伝わってくる。
今朝がたの件がなくとも、いずれ離縁していた可能性は高いと思う。
確かに御台様の御身内だが、むしろあの方の足を引っ張るほどの不祥事なのだ。
だが、今現在朝比奈殿の御正室であることには違いなく、夫に責任が皆無かと問われると否というしかない。
やはり、これしかないだろう。
勝千代は、卓上に置いていた書簡を再び丁寧に文箱に戻した。
「弥太郎」
「はい」
人払いをしていたはずだが、呼べば即座に返事が返ってきた。
顔を上げると、無人のはずの部屋の片隅に、医師か薬師かの服装をした弥太郎が、まるでずっとそこにいたかのように控えていた。
今さらながらだが、忍びってものすごい特殊技能職だよな。
内心は唐突な出現に驚いていたが、それを表情には出さず、勝千代はさも当たり前のような顔をして口を開いた。
「御坊はどちらに?」
「普段であれば取り調べに同席されている刻限ですが、今はお連れの方々を連れて厨のほうに」
状況が状況だけに、鏡如らからの聞き取りも中断しているのだろう。
それはいいのだが……厨? 台所に何の用事が?
訝しく思いはしたが、改めて場所を選んでいる時間はない。
「お会いしたいゆえに、いらっしゃる場所に連れて行ってほしい」
呼びつけるのではなく、訪問の先ぶれをするのでもなく、直接会いに行く。
それほど急を要し、そして相手の協力も必要な事だった。
「御坊」
呼びかけると、釜の前でたすき掛けをした興如がうずくまったまま振り返った。
同じような僧形の、けっこう年齢層が高い男たちが、同じような服装で台所仕事をしている。
大根を切っている者もいれば、里芋の皮をむいている者もいる。
興如は米を焚いていたのか、釜の火加減の調整をしているようだった。
「おや」
振り返ったその表情は明るい。
「どうされましたか」
まるで長年の悩みが解消されたとでも言いたげな、晴れやかで楽し気な顔だった。
まあ、にっくき鏡如を捕まえたからね。
確実に罪に問える状況、しかも、誰も庇えないほどの重罪だ。
どれぐらい待ち続けたのかはわからないが、ようやく積年の荷を降ろせた気分でいるのだろう。
できればそれに水を差したくはないのだが……
「少しお時間をよろしいでしょうか」
ふっとその楽し気な表情に影が差した。
「……何かございましたか?」
今朝がたの騒ぎに、まったく気づいていないという事はないだろう。
こういう事は、いくら緘口令を敷いてもどこからか漏れてしまうものだ。
ただ、朝比奈殿の帰還は気づかれていたとしても、その御正室がどうなったかまでは知らないはずだった。
相変わらず、まっすぐに突き刺さってくる視線は強い。
勝千代自身にやましい事はなくとも、つい何か間違ったことをしているのではないかと、省みたくなる。
「ご相談したいことが」
勝千代は、外見の幼さが最大限効果を発揮するように、こてりと首を傾けた。
今さらだが、この人と対峙するには武装がたりない。
物理的なものではなく、経験値とか、心のありようとか、そういうものだ。
準備なしに対抗するのは難しいだろう。
ではどうするか。
敵対しなければよい。
相手の協力を得れるように、お互いウィンウィンの関係を目指せばよい。
立ち上がった興如に、側の僧侶が手ぬぐいを渡す。
その場にいる誰もが相応に年齢を重ね、長い年月を経て築いた信頼関係があるのが見て取れる。
もしかしたら、彼らは元武家かもしれない。
そんな事を考えながら、気づかわし気な表情をして近づいてくる興如を見つめ、さてどう話を持って行こうかと思案した。




