29-3
暗い階段を小柄な四歳児に下らせるのは不安だったようで、再び叔父の腕に抱き上げられた。
足元を照らされてもなお薄暗い石階段を、叔父は一歩ずつ慎重に下り始める。
叫び声と破壊音はずっと聞こえていて、近づくにつれ、反響音より実際の音源がはっきりと聞こえるようになってきた。
「……殿!」
「御鎮まりを! 殿っ!!」
棚田と、あともう一人誰か男の声がする。
そして鼻先を突くのは、独特の生理的嫌悪感をもよおす臭気だった。
はっきりと血臭だとわかる生臭さに混じって、より強く感じるのは、垂れ流された糞尿の臭いだ。掃除の行き届いていない公衆トイレの臭いと言えばわかりやすいだろうか。
空気の通りが悪いので、長年の臭いの蓄積が抜けないのかもしれない。
声ははっきりと聞こえるが、行く先の闇の中には、まだ何も見えてこない。
逢坂老が掲げる松明に浮かび上がるのは、より深みへ続く階段の踊り場だ。
この地下牢は、逃亡を徹底的に防ぐためだろうか、かなり深い位置にあるようだった。
長い階段を降り続けると、やがて太い木枠の格子戸が見えてきて、ようやく終着点にたどり着いたのが分かる。
「殿!」
ずっと聞こえ続けていた棚田の絶叫と同時に、ばしゃばしゃと何か液体が撒かれるような音がした。
「殿っ!!」
新しい匂いが漂ってくる。
それは普段から馴染みのある、灯明の油の香ばしい匂いだった。
「……急げ!」
そう険しい声色で叫んだのは叔父だ。
大人が横並びに歩くには狭い通路だが、叔父の側付きたちが先だって追い越していった。
階段を降り切ると、その先には若干の広間があった。
松明の明かりがその場所を照らし出すと同時に、一気に強くなったのは血臭だ。
炎に浮かび上がる血の色は、赤くはなく黒かった。
暗い石の床のどこまでが血で、どこまでがそうでないかわからない。
文字通り、周囲一面が血の海だった。
「朝比奈殿!」
叔父が呼びかける声は、果たしてその耳に届いただろうか。
松明の明かりに朝比奈殿の姿が浮かび上がったのは一瞬だ。
それでも、まるで写真か映像で切り抜かれたように、その場の惨状がはっきりと脳裏に焼き付いた。
勝千代は、格子戸を入ったところで降ろされた。
躊躇なく踏み込んでいく大人たちとは違い、勝千代はその場で肩を押さえられ、先には行けないように止められた。
子供が正視するような状況ではない、という事もある。
だが理由はそれだけではなく、床に広がっているのは鮮血だけではないのだ。
血まみれで凄惨な姿の朝比奈殿が、思いっきり振り上げ叩きつけたのは油の壺だった。
松明の火花が飛び移れば、その場にいる者たちも無事では済まないだろう。
松明が遠ざけられ、いくらか暗がりに慣れてきた目に、朝比奈殿が数人がかりで押さえ込まれる様子が見えてきた。
まず握り締めていた刀を奪われ、錯乱したように暴れる四肢を拘束されている。
暗いので誰がどこにいるのかも定かではない有様だったが、朝比奈殿の美しい直毛の髪だけははっきりと判別できた。
床に転がる『盛り上がった黒い物体』は三つ。男性ふたりに女性一人だ。
間違いなく御正室とその兄弟たちだろう。
近くに寄って確かめる気にはなれなかった。
松明に照らされた一瞬で、その首があらぬ方向に飛んでいるのは見てとれていて、すでに生きてなどいないことは確かだったからだ。
「出ましょう。ここにいらしては邪魔になります」
背後にいる逢坂老が小声でそう囁く。
勝千代は、朝比奈殿が意識を失いぐったりとするのを確認してから、小さく頷いた。
地下牢への出入り口はひとつだけなので、確かにここにいては朝比奈殿を連れ出すことができないだろう。
「……ご遺体は燃やせ」
「よろしいのですか?」
松明を誰かに預けた逢坂老の顔は、暗くてはっきりとは見えない。ただ、その鷹の目のような鋭い眼光が、非情な指示を出す勝千代の表情を確かめるように見下ろしてきた。
「首と胴体が切り離されたご遺体を人目にさらすわけにはいかない。朝比奈殿の詮議を恐れ、何者かの手を借りて城を出奔したということに」
厳戒態勢の城から簡単に逃げ出せるわけがないし、何があったのか勘付く者もいるだろう。
だが、肝心のご遺体がなければ、ただの流言妄言にしかならない。
あとはこの場の者が口をつぐみ、それを朝比奈殿に納得させるだけだ。
後始末は素早く行われた。
気絶した朝比奈殿から、油と血で汚れた着物を剥ぎ取り、それも燃やすと言っていたから、徹底的にやっているのだろう。
明け方、空が白み始めるころ、三の丸の一角でボヤ騒ぎが起こった。
幸いにも延焼することはなく、建屋の壁が一部焦げただけのようで、怪我人も出なかったそうだ。
勝千代は、昏々と眠り続けている朝比奈殿の枕もとで、遠くからずっと聞こえている騒ぎに耳を傾けた。
棚田の指揮で、出奔した御正室らを探しているのだ。
見つかるわけがないとは思わず、真剣に探せとアドバイスしてある。
生真面目な棚田は、その指示通りに、かなりの兵を動かし探索にあたっているらしい。
城代の精神状態のバロメーターであるチョビ髭が、またかなりひどい事になっているのが気がかりだった。主君の状態が心配なのだろう。
だが、彼が付き添うわけにはいかない。
表面上は、朝比奈殿の帰還は伏せられているからだ。
赦しなく前線を離れたと知られては、とがめられるのは確実だし、むしろこちらの方が重要だが、御台様の姪御にあたる御正室の出奔との関連を疑われるわけにはいかない。
城主が休むには狭く小さな部屋に、朝比奈殿と勝千代、そして興津に叔父がそろって待機している。
もともと興津の連れてきた兵が倉庫として使っていた部屋のひとつで、人目に付きにくく薄暗い。
空が白んでいるのはわかるが、太陽は相当高くならないと見えないような、一日の大半が影になっている部屋だ。
「失礼いたします」
静かに襖をあけて入ってきたのは逢坂老だ。
丁寧に頭を下げてから、勝千代の視線を受けて頷く。
「馬の用意を致しました。うちの者を共に出します故に、乗りつぶさずとも五日で前線にお戻り頂けるでしょう」
すでにもう、伝令兵を装うための衣装も用意している。
西三河の侵攻を知らせる急使として、密書を届けるという手はずだ。
あとはただ……朝比奈殿本人が目を覚ますのを待つだけだった。




