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期待に満ち溢れる女性を落胆させるのは申し訳ない。……などということはこれっぽっちも思っていなかったが、まだまだな自分自身に落胆した。
僧侶たちへ垂らした釣り糸の反応を見誤っていたらしい。
ずいぶんと嬉しそうだが、御正室の目はしっかり見えているのだろうか。
仁王像の首に刀を付きつけた、豆柴のような武士がいることを。
豆柴・谷だけではない。筋骨隆々な僧侶たちのその背後には、赤と黒の勝千代側の男たちがぴったりと張り付いていた。
こういうのを気配を殺すっていうんだよ。坊さんたち。
忍び程完璧に空気に徹しているわけではないが、素人の勝千代には十分に突然の登場に感じられた。
そもそも仁王たちがいる事すら気づいていなかったので、勝千代のアンテナのポンコツぶりは推して知るべしだが。
「ち、違いますぞ! この者たちは拙僧らの護衛で」
「ならばなぜ、若君の背後から武器を持って忍び寄るような真似を?」
慌てて首を左右に振っている大福のような顔のキンキラキンに、冷めた口調でそう言ったのは谷だ。
この男、見た目は可愛らしいベビーフェイスなのだが、誰にでも遠慮なく牙をむく。
その相手は、高僧であっても構わないらしかった。
渋沢に殴られた痣が日数が経過し更に派手になっていて、さながら気性の荒い小さな闘犬だ。油断していなくてもガブリと噛んでくるタイプのヤツ。
「棚田」
勝千代が首を振りながら名前を呼ぶと、ちょび髭城代はぎゅっと背筋を伸ばして「はいっ」と、予告なく指名を受けた生徒のような返事をした。
「……残念だ」
可能なら、朝比奈家の内々で片を付けてほしかった。
だがやはり、この男では御正室の暴挙を止めることはできないのだろう。
掛川城が理性のない者の手に渡っては困る。
その状態で寒月様を討つようなことがあれば、朝比奈家どころか今川もただでは済むまい。
「そなたらに任せておけば、今川も泥をかぶる」
城を占拠してしまうのが一番手っ取り早いだろう。丁度城代も主要な者たちもここに集まっているようだし。
勝千代はわずかな己の手勢でもなんとかなるだろうと、無防備な御正室らとその背後にいる重臣たちに目を向けた。
「お、お待ちを!」
勝千代のその目線の動きだけで、察するものがあったらしい。
棚田が相変わらず汗だくで悲鳴のような声を上げた。
「もうだいぶん待った」
せめてご親族の誰かが到着するまではと思っていたが、ここまできてしまえばこうする方が被害が少ないだろう。
「逢坂」
「……はっ」
「この城をしばし預からせてもらおうかと思うておる」
「お任せください。不服を申し立てる者どもは我らが即座に首をはね……」
いや、そこまでは言っていないからね。
他家の主城なのだから、流血は最小限に。
「お待ち下され!」
喉を裂くような絶叫が、ちょび髭の口から迸った。
真っ赤に充血した目。
赤黒く染まった顔面。
今にも卒中で倒れそうだと心配になるほど形相を変え、棚田はおもむろに腰に差していた刀を抜いた。
「……おお、棚田! そうじゃ、その鬼子を切り捨てるのや!」
御正室の兄だか弟だかが、喜色を浮かべてそう声を張り、一瞬置いて、棚田の後ろにいた男たちもそれぞれに決意の表情で刀を抜き始めた。
「一人残らず殺してしまえば、誰も何も文句は言わへん……棚田?」
「な、何を」
兄弟の裏返った声に、自信満々に鼻息を荒くしていた御正室もいぶかしげな顔をした。
振り返り、これまで己が自由にしてきた者たちが、血相をかえ刀を握っている事実に戸惑う。
「おとなしく部屋にお戻りを。今回ばかりは尻を拭く者もいますまい」
「何を言う! そなた謀反を……っ」
棚田は抜き放った刀を一閃した。
夕刻の日差しを反射して、やけに美しくきらりと光ったその刃は、御正室の兄の烏帽子を跳ね飛ばし、髷ごと額まで傷をつけていた。
わざとか、手が滑ったのか。
「兄上!」
御正室が悲鳴を上げ、血しぶきを上げ倒れ伏した兄から一歩後ずさる。
哀れを誘う風情で周囲を見回したが、棚田をはじめ、これまで辛抱に辛抱を重ねてきたのだろう武士たちは、いったん抜いた刀を収めようとはしなかった。
「あ、安西! 守屋!」
そして、頼みの綱なのだろう仲間の名前を呼び、その頭の足りなさをますます露呈させる。
「安西も守屋も一族郎党すべて捕えております」
棚田はぞっとするような平坦な声でそう言って、血のりが伝う刀をまっすぐに姉弟に向けた。
「朝比奈に害を成すお方を、これ以上殿の御正室と認めるわけに参らぬ」
おお! よく言った!
これが勝千代がベストだと思っていた流れだ。
「罪人のように牢に入れられるか、殿の沙汰が下りるのを部屋で大人しくお待ちになるか……選ばれよ」
武家の男なら地下牢一択だよね。部屋に閉じ込めただけだと、また悪だくみをするから。
しかし相手は公家の御姫様。殿の御正室だという事を差し置いても、常識ある武家男子ならゆるく部屋に閉じ込める程度しかできないのだろう。
そう思っていたのだが、真っ赤な顔をして棚田に飛び掛かろうとした弟がビタンと間抜けな音をたてて床の上に両手をつき、その首筋に血が出るほど強く刀を突き付けた棚田の決意は想像の上を行った。
「どうやら大人しくはして下さらない御様子。……この方々を地下へ」
ちょび髭カッコイイ。
相変わらず今にも倒れそうな顔色だったが、さすがは掛川城の城代。腹をくくったな。
勝千代は、どうやら出番がなさそうだと脇息に腕を置き、見苦しく喚く公家の姉弟をじっくりと眺めた。




