4-1 雪の城
「お勝、お勝」
意識が戻り切る前から、執拗にそう呼びかけられていたのは覚えている。
後で知ったのだが、勝千代の容態はとても危うく、何日にもわたって命の瀬戸際をさまよっていたらしい。
常に戦場にいるイメージしかない父が、連日枕もとに付きっ切りでいたのは、かなり状態が悪い……つまり危篤とみなされていたからだ。
この時代、幼い子供ほど病気で死ぬことが多かった。ペニシリンなどの抗生物質も、ステロイド系の薬品もないのだ、現代の医学に比べると、取れる手段も限られている。
どんなに効くとされている薬草でも、ピンポイントで効果が出るようなものではなく、結局は自己治癒能力の高さが生存を左右する。
もともと病弱な勝千代には、その下地がまったくなかった。
赤子のころから、ろくに栄養を取れていなかった……それが最も大きな原因だと思う。
やせ細り、体のあちこちに残る傷跡を見て、医師はまず第一に、勝千代は本当に父の嫡男なのか、と聞いてきたらしい。
あちこちの骨が折られた痕跡と、広範囲にみられる傷跡に言及し、どう見ても虐待されて育った貧民の子だ、と言ったという。
もちろん本気でそう思ったわけではないだろう。
働いたことのないきれいな手や、長距離を歩いたことのない足の裏を見れば、おおよその育ちはわかるものだ。
それと対比して、明らかに成長の遅れた体つきや、その痩せ方、全身に及ぶ傷跡などがミスマッチに見えたのだと思う。
「お勝、お勝……」
父の声はずっと聞こえていて、うつろな意識をわずかなりと現世に引き止めてくれていたが、次第にそれが涙交じりのものになり、しまいには号泣されると、同じオジサン世代として非常に居たたまれない。
勝千代が意識を取り戻すまでに三日、明確に峠を越したと言われるまでには更に二日ほど必要だった。
これでも頑張ったほうだ。
むさ苦しい男泣きを延々聞かされ、ゆっくり寝ていられなかった。
ひげ面の大男が背中を丸め、耳元でわんわんと号泣するものだから、たぶん勝千代だけではなく、付き添っていた医師たちも辟易していただろう。
「済まぬ、お勝、済まぬぅぅぅぅ」
ほっそりとした勝千代の手を握り締め、頬ずりする。
「何も知らなんだ父を許してくれぇぇぇ」
剛毛のヒゲに涙が絡まり、手の甲に当たる。
勝千代は幾分引きつっているに違いない表情で、父親に微笑み返した。
「……ご心配をおかけしました」
「よいのだ、お勝が無事であれば、それだけでワシは」
ずびびびび、と鼻をすすり、再びボロボロと涙をこぼす。
「あと一歩遅ければ、そなたを失っておったやもしれぬ。間に合ってよかった、本当によかった」
勝千代は、身もふたもなく号泣する父親を見上げ、いくらか安心した気持ちでいた。
少なくとも父は、この子を愛してくれている。
中の人になって以来、勝千代に愛情を注いでくれるのは他人ばかりだった。
それはそれでありがたいことなのだが、子供にとって親の愛情は何にも代えがたいものなのだ。
「父上」
「うん、なんじゃお勝、なんでも言うてみよ。この父がなんでも叶えてやる」
甘やかして子供を駄目にしそうなタイプだ。
勝千代は、きらきらした目でこちらを見下ろしている父に、困ったな……と眦を下げた。
「一日も早く本復してみせますので、ご安心ください」
「お勝ぅぅぅぅ」
その二重の大きな目から、再び滂沱と涙がしたたり落ちる。
お願いだから、鼻水はつけないでくださいよ。
そんなことを思いながらも、ぎゅっとその大きな手を握り続けた。
ここも安全ではないかもしれない。
そう思うようになったのは、それからさらに数日後だった。
床上げはまだだが、身体を起こせるようにはなっており、消化の良いお粥(しかも白米!)を出されるのにも慣れてきた。
お粥ごときでテンションを上げる勝千代に、父が悲しそうな顔をしたが、それは気にしないことにする。
舌に残る余計な固さのない米は、現代日本を思い起こさせる懐かしい味だ。
たとえおかずが梅干しだけでも、十分にごちそうだった。
そんな勝千代を、感情の含まない目でじっと見ている男がいる。
いやむしろ、険のある眼差しと言ってもいい。
男は本来父の側付きなのだが、勝千代が意識を取り戻して以来、ずっと部屋の隅のほうで黙って控えていた。
名目は護衛なのだろうが、見張られているようにしか感じない。
かなりのホラーである。
しばらくは、いつ急変するかわからない容体が続いていたので、部屋には彼だけではなく、常に複数の大人が詰めていた。
なので身の危険があるとまでは思わなかったが、その目つきがまるで蛇のように見えてしまって、狙われている小動物のように危機感が拭えず、要注意人物だと認識してしまっても仕方があるまい。
段蔵たちの無事を確認したとき、父の視線が微妙に逸れたことも気になっていた。
嘘をついているとまでは思わないが、正直に話していない印象を受けた。
まさか段蔵や弥太郎の身になにかあったのだろうか。
続けて尋ねようとして、背中に視線を強く感じた。それは例の武士からのもので、中の人に警戒心を抱かせるに十分な不穏さを含んでいた。
勝千代は慎重に口を閉ざした。
これ以上は黙っておくべきだと、大人としての分別でそう思ったのだ。
勝千代は夜、周囲が真っ暗になってからひそかに考える。
見張られている、という直感は間違っていないと思う。
父に相談するか? いやしかし、あの武士は父の直属の配下だ。根拠のないこの直感に、耳を傾けてくれるだろうか。
体調はゆっくりと回復してきているが、それは同時に、父の出陣が近づいているという意味でもあった。
父は勇猛果敢で知られる侍大将で、常に最前線に立っている。たいていは砦や出城に布陣し、国境を守っているという。
今の季節は雪深い冬なので、敵が攻めてくることはまずないというが、侍大将が長く前線から離れているわけにはいかない。
今日明日ということではなくとも、雪解け前には戻らなくてはならないだろう。
勝千代は、こちらをうかがい見る不躾な視線を感じつつ、暗闇の中目を閉じた。
最大の守りである父から引き離される前に、なんとかして段蔵と連絡を取りたい。
その手段を、ひたすら考え続けた。