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「お勝」
呼ばれて振り返ると、普段通りの地味な色味の狩衣を着た寒月様が立っていた。
勝千代が挨拶をしようとする前に、逢坂老をはじめとする大人たちが素早くその場で膝をついて頭を下げる。
自分もそうした方がいいのかと思ったが、寒月様が煩わし気に扇子を振ったので、丁寧に会釈をするにとどめた。
夕べの騒ぎなどまったく後を引いた風のない寒月様は、改めて支度をされた福島家自慢の騎馬たちを見回し、感心した風に頷いた。
「えらい物々しいな」
「少し出かけて参ります」
もともとこちらへ到着したばかりだったので、改めて荷造りなどは必要なく、掛川へ向かう支度はあらかた済んでいた。
あとは挨拶を済ませてから、すぐにも出立する予定だった。
寒月様はまじまじと勝千代を見下ろして、ため息交じりに首を振る。
「……やはり掛川か」
「申し訳ございません」
「そなたが謝る事やない」
手にしていた暗色の扇子をパチリと鳴らして、再び騎馬たちへと視線を向けた。
「今から出たら着くのは夕刻か?」
「そこまで掛からず到着するでしょう。時を置いても良い事はありませんので、手早く済ませて参ります」
「その数で足りるか?」
「戦を仕掛けに行くわけではありませんので」
まあ、似たようなものではあるが。
「掛川におる兄妹のことは、こちらも注意して見ておった。これ以上の恥さらしな行動は、中御門だけやのうて公家全体にとってもええことやないのでな」
中御門というのは確か御台様の御実家……つまり、朝比奈殿の御正室の御実家でもある。
「城代は厳重にあの小娘を封じ込めとるようやったが」
城代はしっかり御正室を監視していた? ……いや、抑え込もうとしていても上手くいかなかったから、夜討ちなどという事態になったのではないか。
寒月様の意図がよく理解できず、首筋をかしげると、仕方がないなという風にため息をつかれた。
「……今掛川の城には客人が来とる」
その事は報告をうけている。
興如とはまた別の、本願寺派の高僧が如章を取り調べにきているそうだ。
「例の坊主を引き取りに来よったついでに、大きい顔して城で賓客扱いされとるようや」
真っ先に想像したのは、きんきらきんの集団だった。
父に親書を持参した本願寺派の使者たちは、まるでミラーボールのようにまばゆい袈裟を身にまとい、当初はかなり高圧的な態度だった。
アレをここでもやっているのか。
勝千代がうんざりした顔をしたのに気づいたのだろう、寒月が扇子を口元に押し当てながら低い声で囁いた。
「敵は武家だけやとは限らぬ」
そこまで示唆されて、ようやくはっと思い至った。
敵が掛川に逃げ込んだから、前科のある朝比奈殿の御正室がこのような大それた真似をしたのだろうと思い込んでいた。
寒月様は、本願寺派が糸を引いている可能性を示唆しているのだ。
そんなことがあるだろうか?
「……客として滞在している僧侶が城の兵士を動かすのは難しいはずです」
「あの者たちは口がうまいのや」
つまり、口車に乗せられたと?
勝千代はぎゅっと眉間にしわを寄せた。
だとしても、掛川の兵が使われたことに違いはなく、その責任は朝比奈家が負う事になるだろう。
「見極めて参ります」
「ともにいかずとも良いのか?」
「いいえ。寒月様の御身に万が一にも障りがあってはなりません」
すでに朝敵だと責められて当然の状況なのだ。
今最も気がかりなのは、これから先の騒動ではなく、襲撃者側が再度兵を集めて寒月様を襲いはしないかということだった。
寒月様の手勢は少なく、勝千代らが不在になれば、身を守るには危うい。
「そなたこそ気をつけるのやぞ。怪我でもしようものなら父御が大人しゅうしとらんやろう」
まあ、今のこの状況でも、激怒しそうだとは思う。
何故か幾分心楽し気に含み笑う寒月様に胡乱な目を向けると、じっと勝千代を見下ろし、側にいる者にしか聞こえない程度の声で囁かれた。
「怒り狂った臥龍が天を食らおうとするんやないか」
それはどういう意味だ。大暴れするという事ならそうかもしれないが、天を食らうとは、あの父が御屋形様に反旗を翻すとでもいうのか?
一笑に付そうとして、ふと、周囲が異様に静まり返っていることに気づいた。
……皆どうしてそんな顔をしているのかな。
特に逢坂老。顔全体に物騒なことが書いてあるから、すぐふき取るように。
寒月様が背後に控える侍従に視線をやり、心得た風に差し出された書簡を受け取る。
「これを持って行くがよい」
勝千代は、手に押し込まれるように渡された折封に首を傾けた。
差出人も宛先も書かれていない、無地の書簡だ。
「この度の一件、御上の御耳に入れざるを得ぬ。中御門にも、孫らの不始末を厳重に抗議した。頭の足りぬ小娘らにそなたの手から渡してほしい」
つまり、朝比奈殿の御正室に引導を渡せと?
思い出すのは、大勢の前で勝千代を「鬼子」と罵倒した、気が強そうな公家の御姫様だ。
寒月様にこぶしを振り上げておいて、臆面もなく自らの正当性を言い立て、叱責されてもなお不服そうだった。
ものすごくプライドが高そうなあの人が、勝千代のいう事に耳を傾けるだろうか。
いや、確実に激高して手に負えないことになる。
「殊勝に振舞うなら、幽閉程度で済むやろう」
「そうはならないと分っておいででしょうに」
意図的に爆発させるつもりで、勝千代に伝達役を任せるのだ。
あまり気の進む役割ではないが、もともとの目的とも合致しているので、ありがたく使わせて頂くことにする。
「京からのご返答がないうちに咎め立てして、後に厄介な事にはなりませぬか」
「あの小娘、東宮様のお側に上がりたい言うて、ずいぶんはしたのう言い寄ってきたらしゅうてな」
東宮というのは、親王宣下を受けられた今の天皇の後嗣、つまりは現代で言う皇太子殿下のことだ。
「御上も名を聞くだけでお顔を顰めなさるほどやから、ここよりもっと遠方に追いやることに否やとは仰らぬよ」
そして御上とは、今の天皇陛下のことだ。
御一家のプライベートなことまで御存知ということは、それなりに気心の知れた関係なのだろう。
改めて、目の前にいるのが極めて高貴な御身分の方だという事を認識する。
掛川にいる連中も、よくこの人を敵に回そうと考えたものだ。
「東雲様にもよろしくお伝えください。お奈津殿のことも、今しばらく御手をわずらわせますが……」
別れの挨拶をしている最中に、ぬっと大きな手が伸びてきて、勝千代の頭を撫でた。
「気いつけてな」
父とは違う、そっと包み込むような丁寧な撫で方で、この方なりの親しみとか気安さとかが伝わってくる。
勝千代はきらきらとした白銀の髪の公家を見上げ、改めて、この人を守れてよかったと思った。
そして、おそらくはまだ諦めていないだろう敵を、完膚なきまでに潰しておかなければ……と。




