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幼く戦う力など皆無な幼児が前線に出向いても、邪魔でしかないだろう。
だがしかし、年齢を理由に奥に引き下がっていることはできなかった。
勝千代は誰にともなく、身支度を手伝うようにと命じた。
素早く着替えの一式を持って側に膝をついたのは、弥太郎だ。
三浦が、寝乱れてしまった総髪を、きつくない程度に結いなおしてくれる。
その間にも遠くでは、ドーンドーンという腹に響く音が聞こえ続けていた。
逢坂老らには、敷地内に踏み込まれたら迎え討てと命じてあるが、まだ剣戟の音はしてこない。
だがそれも時間の問題だろう、この距離からでも、寄せ手の威勢の良い掛け声が聞こえてくる。
寒月様の屋敷は、広い敷地を持つ平屋で、城などとくらべると極めて防御が薄い。
屋敷をぐるりと取り囲む塀は高く、一見頑強そうに見えるが、堀も石垣もないので、長いはしごを立てられたら一発で乗り越えられてしまう。
屋敷が揺れるほどの激しい追突音が聞こえてくるのは、客間からの距離と方向を考えると、おそらく母屋に近い側の門か塀の一部だろう。
つまり、今回の狙いは寒月様だ。
どこの誰が、このような愚かな真似を?
それが今川の関係者でないことを願うしかない。
ひときわ大きくミシリと建屋がきしみ、次いでドーンと大きな音がして空気が震えた。
「裏門が破られました!」
そう報告されるまでもなく、威勢の良い寄せ手の怒声で敷地内に踏み込まれたのだとわかった。
聞こえてくる剣戟の音。
ひときわ猛々しく名乗りを上げているのは、逢坂老だ。
勝千代は自身の身支度が整ったのを確認し、決意を込めて頷いた。
「お待ちください!」
母屋の方に向かって歩きはじめると、側付きたちは押しとどめようとした。
非力な子供が行っても何の役にも立たないどころか、邪魔になるのはわかっている。
だが、勝千代の足の進みは止まらない。
「若君」
弥太郎がこちらに向かってくる人影を見ながら注意を促してきた。
勝千代は、走り寄ってきたのが万事で、その腕に小袖にくるまれた少女を抱えているのに気づいた。
特に会話はなかった。
ただすれ違いざま視線があって、万事は小さく頷いて奈津を抱えなおして駆け去っていった。
万事に抱きかかえられた奈津は、一度として顔を上げることもなく、小袖にくるまれて小さくなって震えていた。
鶸の話だとおそらく彼女は母屋で休んでいたはずで、その場所は今最も危険な場所だった。
寒月様に、こちらに下がって身を潜めているようにと言われたのだと思う。
かわいそうに。
さぞ恐ろしい思いをしているだろう。
奈津にも、寒月様にも、指一本触れさせはしない。
改めて強くそう決意しながら、勝千代は小走りに母屋の方へと進んだ。
怒声と剣戟の音が近い。
ピリピリと肌で感じるのは、命の境目にいるという独特の空気だ。
生臭い血の匂いを嗅ぎ取ると同時に、開け放たれた襖の向こう側に切り結ぶ男たちの姿が見えた。
回廊を迂回せず、部屋を突っ切って進むこと数十秒、ようやくたどり着いた乱戦の場は、寒月様の居室の前の庭先だった。
一度だけ見たことがある見事な庭園が踏み荒らされ、そこかしこに屍と鮮血が散らばっている。
怯む気持ちを押し殺し、腹の底に力を入れる。
「押し返せ!」
幼い子供の声は、大きくはなくとも、男の太い怒声ばかりの乱戦場によく響いた。
「応!」
いらえは即座に、一斉に返ってきた。
すぐ近くで、鋼が滑る音がする。
切り付けられた男の苦悶の声がする。
勝千代までの距離が近いので、敵もここまで来ようと必死だが、そうはさせじと味方の威勢も高まっていた。
素人目にも、味方側が押しているのが分かった。
今夜は満月だ。
同士討ちを避けるためにわざわざこんな明るい月夜を狙ったのだろうが、完全に逆効果だ。
福島の武士たちは、敵味方を間違うことなく、的確にその数を減らしていく。
武装は相手側のほうが厚い。胴体の部分を守る胸当てのような鎧に、頑強そうな手甲、頭には三角の黒い帽子のようなものをかぶっている。
対する味方側は、袖をたすき掛けで邪魔にならないようにしている程度で、せいぜい乗馬用の手甲ぐらいだ。
それでも、押されているのは寄せ手のほうで、勝千代との距離もじりじりと広がっていた。
「あの鬼子を殺せ!」
どこかでそう叫ぶ声が聞こえた。
声のした方に目を向けると、ひとりだけ頬当てをつけた長身の男が、こちらを見据え指さしている。
「鬼子」というフレーズに、嫌な記憶がよみがえってきた。
そう呼ばれたのはいつだったか。
そう、掛川城で、朝比奈殿の御正室が勝千代をそう呼んだのだ。
まさか、またあの人なのだろうか。
寒月様にあれほど叱責されて、なお逆らう愚を犯すだろうか。
城代がしっかり見張っていれば、難しいと思うのだが。
突撃してきた数名が、勝千代の目の前で袈裟切りにされた。
飛び散る鮮血が、足元すぐのところまで届いていた。
べちゃりと落ちた飛沫を瞬きもせず見下ろして、その時勝千代が考えていたのは、履物を持ってくるのを忘れたな……という、ひどく場違いなものだった。




