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輝かしいまでの幸松の笑顔を見ていると、ツキリと胸が痛んだ。
年齢は一歳ほどしか違わないのに、弟のように無邪気に笑えない。
仕方がない事だ。
勝千代の中の幼い子供は、すっかりいい歳をした中年男と混ざり合い、もはや子供らしさとは程遠くなってしまった。
「あにうえー!」
巨躯の牝馬にまたがり、上機嫌で手を振る弟に反射的に手を振り返す。
どうやら馬場をぐるりとまわるらしく、幸松に同乗した側付きがものすごく緊張した表情で手綱を握っている。
弟とその護衛たちが遠ざかり、楽しそうなその声が聞こえない距離になって、はじめて長い溜息がこぼれた。
「勝千代殿」
寒月様からの書簡の内容を知りたいのだろう、志郎衛門叔父が気づかわし気な視線を向けてくる。
「……心してお読みになってください」
勝千代は懐に差しこんでいた書簡を皺にならないようにそっと引き抜き、手渡した。
叔父がものすごくこわばった表情なのは、送り主が現職の権大納言だと知っているからだ。
名門福島家の嫡流男子とはいえ次男、それほどの身分の方の文を手にする機会などまずない。
御屋形様の御母上や御台様とて、公家の中では中流程度。まさに寒月様は雲の上といってもいいほどの高貴な方なのだ。
叔父は恭しく書簡を受け取り、包みを開いた。
本当であれば個室、せめて座る場所があった方がいいと思うが、これだけの護衛を引き連れていればプライバシーなどない。
下手に監視から外れて怪しまれるよりは、おてんとうさまの下で話すほうがいい。
叔父は勝千代同様、出だしの数行を読んで真っ青になった。
勝千代と違うのは、しっかり最後まで目を通し、更に数回熟読したことだ。
勝千代は、遠くで笑っている幸松に憧憬の目を向けて、ぶんぶんと大きく振られている手に片腕を上げて返事をした。
弱いと言ってくれるな。
志乃が殺され、東雲が重傷というところでその先を読めなくなってしまった。
もちろん他に重要なことが書かれていてはいけないから最後まで目は走らせたが、内容はほとんど覚えていない。
美しい寒月様の筆跡で、残酷で容赦のない現実が付きつけられた。
今はまだそれを受け止めるので精いっぱいだ。
「……御屋形様にお伝えせねばなりません。お預かりしても?」
これは、朝比奈領で起きたことだから朝比奈殿の問題だというわけでも、岡部の御息女が狙われ殺されたことから岡部家の問題だというわけでもない。
今川領内で、一条家にも縁のある公家の若者が大けがを負ったという事実だ。
しかも、刺客を送ったのが今川家の誰かの可能性が非常に高い。
対処を間違えば、朝廷幕府及び周辺諸国を敵に回す大ごとになってしまうかもしれない。
「わたしは寒月様にお会いしに行こうと思います」
「いやそれは……」
「今は朝比奈殿も出兵して領内にいません。掛川城にこの件を対処できる者がいるとは思えません」
四歳児が何を言っている。普通ならそう一蹴されてもおかしくない。
だが、事情が事情だった。
朝比奈殿も不在なら、御屋形様も病身で動けない。事情をまったく知らない他の重臣に頼む? 福島家に咎がある可能性がゼロではない限り、それは得策ではない。
「今川館のほうにも抗議の書簡が届くかと思います。ですがおそらくこちらの方が早い」
寒月様がまっさきに勝千代に知らせてきたのは、つまりそういう事なのだろう。
「行かねばなりません」
勝千代はきっぱりそう言って、ふっと息を吐き肩の力を抜いた。
「新しい馬を入手して、遠乗りに行きたいと我儘を言うだけです」
「あにうえー! あにうえもお乗りになってみてください! 桔梗はとってもおとなしくていい馬です」
ぐるりと馬場を回った幸松が、牝馬から降り、満足げにそう言いながら駆け寄ってくる。
勝千代はそれに大きく頷きを返しながら、傍らで難しい顔をしている叔父に小声で問いかけた。
「先だっての、寒月様の御屋敷が襲撃された件、今川館で話題になっていますか?」
「……いや」
「かなりお怒りで、直接御屋形様に苦情を言うとおっしゃっておられましたが」
何者かが握りつぶした可能性があった。
朝比奈殿の御正室は、御台様の姪御にあたる。おそらくそのあたりの筋ではないか。
この時代、書簡は必ず宛先に届くという確実性のあるものではない。運び手が途中で不慮の出来事にあったり、盗賊などに襲われたりして、紛失することも珍しくはなかった。
だからといって、子供でもあるまいし、「手紙など受け取っていませんが?」と白を切るなど正気を疑うが。
「それの対応もしていないのならなおさら、寒月様のお怒りを鎮めるのは容易ではないでしょう」
前回は、屋敷を襲われたことへの建前としての抗議に、相手へ身分というプレッシャーをかけるための激怒だった気がするが、今回は違う。
短い交流しかなかったが、寒月様と東雲とのごく近しい関係性を感じ取っていた。
東雲自身も、相当に身分が高いのだろうと推察できる。
「叔父上は確実にこの件を御屋形様にお知らせしてください」
それでも今川家が知らぬふりをする可能性はあるだろうか。
いや、今回の事はさすがにスルーできないはず。
勝千代はふと、自身によくにた面差しの、青白い御屋形様の顔を思い出していた。
病に伏しているというのなら、多くの職務は誰か別の者に代わってもらっているだろう。
前回の「知らぬふり」が、その誰かの手によるものだとはっきりさせれば、今川館内にいる敵勢力を削ぐことができるだろうか。
幸松にぐいぐい背中を押され馬場に足を踏み入れながら、こんなことを考えている四歳児って……と、昏く自嘲の笑みを浮かべた。




