3-5
寒い。
とにかく寒い。
めちゃくちゃ寒い。
現代日本でこの辺りにスキーに来たことがあるが、こんなに寒かっただろうか。
時折、確かめるように背中を撫でられるが、反応する余裕はない。
抱きかかえられての疾走は快適とは言えず……吐かずに堪えている自分を褒めてやりたい。
昔からジェットコースター系の乗り物が苦手だった。
落下するときの、ひゅん!と肝が縮む感じ。遠心力で振られるときの、宙に飛ばされそうな恐怖。
身体を固定されて、ただ乗り物に乗っているだけ……自分では制御できないあの感じが嫌なのだ。
弥太郎は十分気を使ってくれていると思う。
上り下りある山道を走っているのに、この程度の揺れで済んでいるのだから。
それでも、慣れない振動に三半規管がやられ、食道に胃液が逆流してきそうになる。
どれぐらい耐えただろう。
すでにもう全身氷のようで、見当識が失せるほど方向感も欠如し、一秒後には無我の世界に旅立ってしまいそうな、そんなボーダーラインの際にいるのがわかる。
不意に、勝千代を支える腕に力がこもった。
直後、急激な落下。
こぼれそうになった悲鳴を、奥歯を食いしばって堪える。
カキンカキンと二回、鋼が鳴る音がした。
それは、恐慌状態に陥りかけた意識を、一瞬で現実に引き戻した。
勝千代はされるがままのグロッキー状態だったが、耳だけははっきりと、複数人が戦闘状態にある音をとらえていた。
鋼が触れ合う音、弓弦が引かれる音。
「いたぞ」とか「あそこだ」とか野太い声が追ってくる。
乱暴に身体が上下し、前後左右に振り回され、予告もない唐突な急上昇に急降下。
……残りのHPは、きっとミリ以下だ。
蓑によって視界は遮られたままだったが、剣戟の音を聞いてからは更に瞼を固く閉ざし、小さく縮こまっていた。
殴り合いの喧嘩ひとつしてこなかった中の人は、この悪夢のような状況にどう対処すればいいかわからずにいたのだ。
幼い勝千代にできることなど何もない。邪魔にならないようじっとしているのが最もいいとわかっている。……そういう物理的なことではなく、感情の持って行き所、恐怖心との折り合い方が分からない。
どれぐらい戦いが続いただろう。
何度目かの小さな乱高下の後、しばらく平らなところを駆け抜けた。
弥太郎が、バックステップを踏むような動きをしたその直後、蓑越しに大量の湿ったものがビシャリと掛かる。
鼻を突いたのは、嗅ぎなれた匂いだった。
アスファルトを打つ雨の音と密接に結びついた、今わの際の記憶。
じんわりと染み込んでくるのは、生臭い、湯気が出るほどに熱い人間の血だった。
……弥太郎が切られたのか?
みぞおちのあたりに、大きな恐怖の塊をねじ込まれたような気がした。
嫌だ。そんなのは駄目だ。
キーンと鼓膜が鳴る。
まってくれ。夢なんだろう? 質の悪い悪夢なんだろう?
ひくり、と嗚咽がこぼれる。
勝千代は、やみくもな恐怖で冷静さを失っていて、弥太郎がその場で動きを止めていることも、いつの間にか剣戟が止んでいることにも気づいていなかった。
背中を支える腕に力がこもる。
ぎゅっと、力強く。
弥太郎は切られたのではないのか、無事なのか、怪我をしているなら……
そんな混乱状態が続いたのは、おそらく数十秒ほどだったと思う。
周囲の物音もシャットアウトし、耳鳴りと自身の鼓動だけしか聞こえていなかった聴覚に、ざわざわと雑音のような人の声が紛れ込んできた。
「……名を名乗れ!」
「そちらこそ何者かっ!」
「こちらは福島上総介さまの軍勢だ!」
その名前は、ものすごく明瞭に意識を貫いた。
父だ。父が来てくれた!
まるで本物の幼子のように、安堵があふれ出し頬を濡らす。
ちなみに、「上総介」が父の名前だという事を、中の人は知らなかった。
それなのに何故か父だと認識していて、そのことについて疑問にも感じていなかった。
勝千代の視界は完全にふさがれていたし、動転していて耳もよく機能していなかったので、その前後の話はわからない。
どうやら段蔵たちを除いて複数のグループが対峙し、お互いに誰何しあっている状態だというのはかろうじて知れた。
ここは街中でも街道沿いでもない。国境付近の雪深い山奥、通常であれば誰かと行きかう可能などない場所だ。
勝千代を追っていた連中は、なんと言い訳するつもりなのだろう。
ぽんぽんと背中を撫でさすられて、次第に気持ちが落ち着いてくる。
少なくとも弥太郎は生きている。
追っ手も父が何とかしてくれる。
その安心感が、一気に身体に負荷をかけた。
どうなったかというと……
そのあとの数日間の記憶が、すっぽり抜け落ちている。