25-1
「出陣!」
父の声に合わせ、「応!」と鬨の声が上がる。
一斉にドン! と槍の石突……穂先とは逆の方を地面に突き立て、まるで地鳴りのような音がした。
その圧倒的な物量というか、数の暴力のような情景は、どこか現実離れした、遠い出来事のようだった。
だが、父のくっきり二重の大きな目と視線が合った瞬間、ぞわり、と背中に震えが走った。
どきどきと鼓動が早まり、とっさに口を突いて出そうになったのは、「待って」という引き留めの言葉だ。
「……御武運を」
それを大人の分別で飲み込んで、結局こぼれたのは取り繕ったような一言だった。
大軍が移動するには時間がかかると言われており、確かに、まだ動き出さない部隊もある。
だがしかし、勝千代から見えている父の背中はすでに遠く、こうして見送っている間にもみるみる遠ざかっていく。
完全武装した父は、周囲よりも二回りほども体格の良い馬に騎乗していて、今回出陣する一個師団というのか? 福島家の軍を率いる総大将として、これから真冬の国境へ向かうのだ。
福島軍と一言で言っても、複数の家の集合体だ。
見ていると、各家ごとにそろいの鎧やら指物(旗)をあつらえていて、父とその側近たちが身に着けているのは紺色だ。
色とりどりの鮮やかな戦装束に囲まれているとものすごく地味だが、父らしいとも思う。
今回はかなり急な出陣要請だったのだが、もともと福島軍が駿府近辺にいたということもあって、改めて集結するのも早ければ、父が出立を判断するのも早かった。
見ていると歩兵が多いが、それなりに騎馬もいて、弓兵も槍兵もいる。
数は……バードウォッチャーではないから定かではないが、ざっくりと千人はいそうだ。
それぞれの見送りの者たちが、駿府の街はずれの丘の上から、一生懸命に手や袖を振っている。
勝千代と同じく見送り組の志郎衛門叔父によると、ここには集まることができなかった軍勢がまだ倍量ほどもいるらしく、今回はかなり大掛かりな動員なのだそうだ。
父が動かすのは、すでに国境の出城に配備されている兵力と、福島家の総力のおおよそ半分を含め、おおよそ三千ほどの戦力らしい。
ざっくり説明を受けただけなので、その数量の是非についてはよくわからない。
武田軍のほうも、未来知識からのイメージ的には強壮だという感じはするが、一概に武田軍といっても今川家の福島軍のように、総大将がでてくるような戦ではないだろう。
国境の小競り合い、というのが父の見立てで、叔父も二木らもそうだろうなと言っていた。
雪深い国境付近で、今の季節に総力戦などありえないのだそうだ。
危険がそれほどない、というのは何となくわかるのだが、だとすればどうしてこれだけの数を動員させるのか、という疑問に行き着く。
志郎衛門叔父は言葉を濁していたが、その苦い表情を見れば想像はつく。
そうやって軍を動かせば費えがかかる。
国境は遠いので、父を駿府から遠ざけてもおける。
……要するに、そういう事なのだろう。
「戻りましょう」
北風にぶるりと身震いをした勝千代を見て、志郎衛門叔父が声をかけてくる。
「……はい」
もはや豆粒ほどの大きさになってしまった父の背中を最後にもう一度見送って、名残惜しい思いを飲み込みながら、頷いた。
「そういえば父上の馬、あれは何ですか? すごく大きかったです」
沈みがちな気分を変えようと、あえて明るい口調でそう尋ねると、叔父は明らかにほっとした様子で勝千代を見下ろした。
「大陸からの商人から買い付けました。兄の体格だと乗れる軍馬は少なく、常に用立てるのに苦労します」
そんなに泣きそうな顔に見えたのかと申し訳なく思いながら、「大陸」という言葉に若干テンションが上がる。
輸入か。
今はたぶん大航海時代の真っ盛りで、ヨーロッパから世界へ多くの貿易船が出ているだろう。
鉄砲の伝来は信長の時代だから、まだまだ先だろうが、本来であれば未だ日本に入ってきていないような珍しいものを先立って仕入れる事ができるかもしれない。
砂糖とか。芋とか。コーヒーはまだ早い? 中国だと磁器?
父の行軍への掛かりの話を聞いたので、つい慣れない商売の事を考えてしまった。
思いっきり失敗しそうだから、手は出さないぞ。
……日向屋あたりにちょっと話はするかもしれないけれども。
「わたしも馬に乗ってみたいです」
あえて手が届きそうな馬の話をしてみた。
それで商人と話ができたら、面白そうだと思ったのだ。
「傍系で兄上用の馬を掛け合わせで育てようと試みているところがあります。案内しましょう」
傍系ということは、福島の親戚筋ということだな。
どのあたりにその牧場? 馬の飼育場があるのだろう。
駿府の近くなら、幸松を連れて遊びに行ってもいいかもしれない。
あの子は動物好きだから、きっと喜んでくれるはずだ。それに……
先程からずっと、周囲の大人たちから見られている。
その視線は、福島家の嫡男を量るというよりも、伺い見るような視線だった。
先だっての分家の大量処分が効いているのだろう。
勝千代が自儘をした訳ではないが、終わってしまった出来事を彼らがどう見るかはそれぞれの意見だ。
これからのためにも、彼らとは出来るだけ仲良くしておきたい。
将来が楽しみだと思ってもらえるように、多少あざとくとも優秀なお子様らしく振舞うべきだろう。
「とても楽しみです」
幸松ほど可愛くはないだろうが、四歳児なりの稚さはあるはずだ。
勝千代は、気づかわし気な叔父の顔を見上げて、にこりと微笑んだ。




