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「あにうえ!!」
元気な声でそう呼ばれ、振り返ると、満面の笑みの幸松が駆け寄ってきた。
まぶしい。
かわいい。
やはり小さな子は笑顔でないと。
「ああ、もう熱は下がったか?」
「はいっ!」
二人で並んで、池の底で揺らいでいる鯉を眺める。
あの後、幸松は勝千代にしがみついたまま眠り、その夜高熱を出したそうだ。
幼い子供には酷な状況だったと思う。
殴られたのなど初めてだろうに、よく泣くのを我慢した。
さすがは父の子だ。
よく見れば頬にはまだ傷跡が残っているが、にこにこと笑うその表情ですべてが何でもないように思える。
まだ一連の事件は完全には片づいていないが、屋敷の中の掃除はあらかた済んだと段蔵らは言う。
本当にそうであればいいのだが。
「……もうすぐですね」
鯉を見つめながら、幸松はぽつりと言った。
「そうだな」
以前、武田が国境を越えたとフェイクの情報を流したのを覚えているだろうか。
今川館は恥知らずにも、父にその対処を指示してきた。
要するに、国境付近の警備を厳重にするように、必要であれば敵を追い返すようにと、福島家に命じてきたのだ。
勝千代的にはダミーの情報だったのだが、どうやら完全に何もないわけではなかったようで、朝比奈殿ひとりでは国境すべてをカバーするのは難しいとのことだった。
季節はいまだ冬だ。
如月が近づき、寒さはなお一層増しているように思う。
武田と言えば甲斐だろうか。
今川とは敵対国関係のようだが、その詳しい実情は知らないし、そもそも四歳の子供にそんな事を話す大人はいない。
つくづく、日本史を勉強してこなかった過去が悔やまれる。
詳細な年表などは無理にしても、この時代に起こった主要な出来事を覚えさえしていれば、これほど心配することもなかっただろうに。
「ちちうえがすんぷから出陣なさるのははじめてです」
「しゅつじん」のところが「しゅちゅじん」と聞こえ、こっそりと笑みを深めた。
幸松はいい子だ。
素直で、元気で、なにより健康そのものだ。
熱を一日で追い払ったことといい、寝込んだ直後だというのに元気いっぱいの所といい、まだ咳が完全には引かない自分とはえらい違いだ。
一年以上の月齢差があるにもかかわらず、その差が逆転して見える体格の良さも、ぱっと華やかな笑顔も。
虚弱体質で、どちらかというと物静かな気質の勝千代とは、真逆と言っても良い。
あの後、千代丸たちがどうなったかは聞かされていない。
千代丸の腕と福島家での身分を失ったことが、二人への罰になるのだと説明を受けたが、実際その先どうしているのかは教えてもらえなかった。
寺に行ったとも養子に出したとも幽閉したとも言われなかったから、もしかしたら、それよりもっと重い処罰を言い渡されたのかもしれない。
桂殿はともかくとして、千代丸はまだ十歳にも至らぬ子供だ。
されたことは許しがたいが、更生の余地すら断たれてしまう事に、改めてこの時代の厳しさを感じずにはいられない。
戸田を含め、勘定方で悪さをしていた面々も、厳重に処分されたようだ。
こちらは家門の断絶含め、詰め腹を切る、あるいは処刑されるなどの、軽くはない処罰が命じられた。
勝千代の感覚だと、本人以外にその罪咎が及ぶ事に抵抗があるのだが、こちらの常識では親族がそれを背負うのは当たり前の事なのだ。
父が危篤だと思い込んで、屋敷を制圧できる人数を引き連れやってきた分家の者たちは、その身分を剥奪され、本人は自裁、分家そのものも潰された。
彼らは勝千代を今川家へ返し、福島の家督は嫡流である兵庫介叔父が引き継ぐべきだと言い放ったらしい。
たった一度のその放言を、父は許さなかった。
勝千代であれば、聞き流していた可能性が高い。
そういう甘さは、この時代には不要なものなのだろう。
兵庫介叔父? 叔父は……時丸君の家老職に正式に着任した。
要するに、今川館側から口をだされ、罪には問えなかった。
だがしかし、あの人の福島家における発言力はもはやほとんどないし、おそらくだが叔父の方へ流れていく銭のルートはつぶせたので、多少は大人しくなってくれるだろう。
もちろん今後とも、要注意人物だ。
「あっ、紅白です」
幸松が赤と白の鯉を見つけ、身を乗り出す。
落ちるのではと心配になったので腕を伸ばすと、ぎゅっと手を握られた。
「あにうえ、あにうえ、見てください!」
「はしゃぐと落ちるよ」
無邪気に笑う弟は可愛い。
この子を見ていると、どうしても、五年前はきっと同じように無邪気だったに違いない異母兄千代丸の事を考えてしまう。
身分故の自尊心がああいう子供を作ってしまうのだろうか。
幸松には絶対にそうならないでほしい。
「勝千代さま」
土井がそろそろ寒くなってきたから部屋に戻るようにと声をかけてくる。弥太郎と散歩の時間を四半刻と約束しているのだ。
残念そうな幸松の頭をそっと撫でて、「またな」と笑みを返す。
別れて少し歩き、振り返ると、相変わらず大勢の護衛に囲まれた幸松の後ろ姿が見えた。
その中に早田の姿はない。
実はあの男は、千代丸の手首を切り飛ばした件を問われ、正式に幸松付きを外された。
嫡男の座も弟に譲ることになり、家門からも放逐された。
早田姓を名乗ることは許されたが、身分的には下級武士相当なのだそうだ。
そして兵卒として、父とともに国境へ行く。
まああの男なら、誰もが呆れるほどの鋼メンタルで、図太く生き延びるだろう。
おそらく勝千代は、まだ本当の意味での戦国の世を知らない。
明日父が向かう先で何が起こるのかは、ただ想像するだけだ。
父は、単に国境付近の砦を拠点に巡回するだけだという。
志郎衛門叔父も、二木らも、それほどの危険はないという。
だが、敏感になってしまっているからか、嫌な予感が拭えない。
「お戻りなさいませ」
部屋の前で出迎えてくれるのは、糸と弥太郎と、新しくつけられた勝千代の側付きの二人だ。
父と叔父が厳選した青年たちで、一年ほど父とともに国境に赴任していたこともあるそうだ。
「白湯はいかがですか?」
糸がニコニコと笑いながら、問いかけてくる。
「もらうよ」
一見至極穏やかな日々のように見える。
だがしかし、最初にこの屋敷に来た頃よりも警備の人数が増えている。
勝千代が座る最上座の位置からは、以前と変わらぬ美しい庭園の風景が見えるだけだが、厠に行く際や今のように散歩に出かけた際には、頻繁に武装した歩哨らを見かけるようになった。
父が何を警戒しているのかはわかっている。
自身の不在時、勝千代が狙われることを恐れているのだ。
正直なところ、父がいないというだけで守りの壁はおおいに薄くなると思う。
それは勝千代だけではなく、敵もそう思うということだ。
まだ終わっていない。
改めて気を引き締めて、糸が差し出す湯呑みを受け取った。




