24-7
「千代丸!」
桂殿がすさまじい音量で悲鳴を上げた。
畳を血まみれにして転がりまわる幼い息子に、必死の形相で駆け寄ろうとする。そんな母親の行く手を遮るのは非情ではないか?
場の空気がそういう方向に動いたとしても無理はない。
幾人かは手を伸ばし道を塞ごうとしたが、半数ほどは躊躇った。
それが彼女が踏みとどまることのできる「最後のライン」だった。
「あっ」
そう声を上げたのは誰だったのだろう。
千代丸に縋りつくかに見えた彼女の手には、絶叫する息子が手放した子供用の刀が握られていた。
子供用とはいえ、しっかりとしたつくりの本物の刀だ。
一般的な刀よりは短いが、小太刀よりは長く……勝千代はふと、育ててくれた亡き老女ヨネが愛用していた長めの小太刀も、もしかしたら子供用の刀だったのかもしれないと、ひどく場違いな事を考えていた。
まだ柄を握り締めていた息子の手を投げ捨て、桂殿自身の羽織をも血で染めながら、その殺意は明瞭に勝千代の方を向いていた。
とっさに身をよじったのは、腕に幸松を抱いていたからだ。
お葉殿がその身を挺して覆いかぶさってきたのも、彼女自身の子を守ろうとしたのだろう。
もちろん、それなりに距離はあったし、刀など握ったこともないであろう女の身で、立ちふさがる分厚い守りを突破できるわけはない。
「死ねぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」
そう絶叫しながら振りかぶったのも遠い位置からだし、子供用の刀ですら彼女には重そうに見えた。
位置的な問題で、その場にいる誰もが、立ち上がった渋沢か険しい蛇顔の二木のどちらかが止めるのだろう、と思っていた。
当の二人もそのつもりだったろう。
「ああっ」
だがしかし、勝千代へ向かう最短距離を突っ切ろうとした桂殿は、その三分の二ほどの位置で勢いよくつんのめった。
千代丸の血でぬるついていたのか、彼女の手から刀がすっぽ抜け、こちらに向かって飛んでくる。
一瞬ヒヤリとしたが、届く距離ではない。
桂殿の殺意か怨念か、刀は畳の上をくるくると回りながら近づいてきたが、仁王立ちの二木が足で踏んで止めた。
「ああああああああっ」
勢いよく顔を畳にぶつけた桂殿は、腕を切り飛ばされて泣き叫ぶ息子よりも大きな声で悲鳴を上げた。
「おのれ、おのれぇぇぇぇぇぇっ」
見間違いでなければ、彼女の打掛の裾を踏んでいるのは早田だ。
二木が動き、渋沢も動き、同時に、やけに白みの面積が多い田所も動いた。
それにより、勝千代の視界は完全にふさがれ、耳に優しくない絶叫のダブルコンボを繰り出している母子の様子は完全に見えなくなった。
顔をしかめ、そっとお葉殿の肩を押す。
「……あにうえ?」
勝千代よりも体格は大きいが、ふるふると震えている幸松はまだ稚い幼子だ。
部屋に充満した血臭はやむを得ないが、異母兄の惨状をこの子には見せたくなかった。
……ああ、そうか。
視界を塞ぐ大人たちが、同じように勝千代に見せまいとしていることに気づいた。
ありがたいが、そうもいっていられないのだ。
事態の収拾を図るべく、声を発しようとして……
「お勝!」
珍しく、ドタドタという足音がしなかった。
聞こえなかっただけかもしれないが、そう声を掛けられるまで、父がすぐそこに来ていることに気づいていなかった。
ただ、とてつもない安堵とともに、「父上」と呼ぶ声が若干裏返ったかもしれない。
いったん咳払いをして、回廊側ではなく、襖を開けて入ってきた父を振り返る。
そして父が供も連れず、ひとりでいることに気づいて顔をしかめた。
「……おひとりですか?」
刺されたばかりだというのに、周囲は何をしているのだ。
もとより、自身の腕に覚えがありすぎて、周囲を置き去りにしがちな人なのだ。
小言を言われそうだと察したのだろう、父は「いや!」と大きく否定した。
「殿! おひとりで行かれるのは……」
見覚えのある父の側付きが、ゼイゼイと荒い息を継ぎながらようやく追いついてくる。
やっぱり護衛を置いて単身で走ってきたんじゃないか。
「殿! 我が殿!」
その声で父の存在を察知した桂殿が、狂乱した表情のまま父に助けを求めた。
「どうかお助け下さいませ! 千代丸殿が死んでしまいます!! そこな者が狼藉をっ」
寸前まで不予がどうのと言っていた口で、素晴らしい変わり身だ。
さすがに我が子の無残な姿に何か言うだろうと思ったのだが、父は泣き叫ぶ千代丸を見ても、少し眉を寄せただけだった。
「止血を」
そう命じる声は、勝千代がちょっと意外に感じるほど冷静なものだ。
事情はともかくとして、もっと慌てて千代丸に駆け寄るかと思っていたのだが。
命令を受けて頭を下げたのは弥太郎だ。
……その顔がうっすら笑ってるように見えるのは気のせいか? 内心どう思っていようとも、重傷を負ったのは小さな子供だぞ。
「父上」
勝千代は、しがみつく幸松の腕の力がぎゅうと強まったのに気づいた。
よほど怖かったのだろう、かわいそうにと思いながらその丸い頭を撫で、難しい顔をしている父を見上げる。
「あちらはどうなりましたか?」
田所は全員捕縛したというようなことを言っていたが、そんなに簡単にできることだろうか。
分家筋はともかくとして、兵庫介叔父は時丸君の祖父なので、容易く手を出せる相手ではないはずだ。
「知らん」
父はものすごく渋い表情になって、むっつりと髭で覆われた口元を引き締めた。
知らんって。
あまりにも端的な返答に、勝千代もまた表情を渋くする。
おそらくは志郎衛門叔父が対応しているのだろうが、大丈夫だろうか。
下手をすると福島家を割る事態になりかねないから、慎重にしてほしいのだが……
うちの人間は基本的に脳筋なのだ。
最悪の事態になったら、力業でなんとかなると考えていそうで怖い。
力業というのはつまり、戦になるということだ。
御家の力を削ぐだけだから、それだけは回避したかった。




