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「空気読めない男」早田は勝千代にその書類を渡すと、あきれるほど意気揚々と引き上げて行った。
退室の礼もその口上も、きちんと躾けられたのだろう育ちの良さが伺えるが、根本的に一本ズレている。
このズレを個性ととるのはよほどの寛大な人間だけだろう。たいていは失礼な奴だと腹を立てるのではないか。
よくこれまで上手くやれていたなと顔をしかめ、いやどうして自分がそんな心配をしなければならないのだと首を振る。
それよりも、この新しい証拠だ。
父や志郎衛門叔父には近づくことすらできなかったから、勝千代に渡しに来たのだろうが、それを非礼だと思わない鋼メンタルに感心するのと同時に、余人の手を介そうとしなかった点だけは評価してもいい。
だが、できることならもっと早く表に出してほしかった。
何故なら、もっとも新しい日付は丁度半年ほど前のもので、それまでは定期的に続いていた書付けが不意に途絶えている。
つまり、早田がこれを入手したのがその頃の可能性が高いのだ。
「半年前か」
たしかその時分だと、国境線での競り合いが味方勝利で終わり、父が大きな武功を上げたと聞いた気がする。
当時の状況を想像しようとして、ふと頭をかすめたことに背筋がひやりとした。
半年前と言えば……丁度、兄彦丸が死んだとされる時期じゃないか。
「……いや、まさかな」
とある可能性に思い至って、思わずぶるりと身震いする。
裏帳簿の紛失に気付いたから、兄が殺された? そんなことが有り得るのか?
もう一度、じっくりと冊子に目を落とす。
最後の日付は水無月、つまり六月の末だ。
兄の命日をはっきり問いただした方がいいのだろうか。
真っ先に思ったのは、「父には聞けない」だった。
勝千代にあれだけの愛情を注いでくれる父が、彦丸兄を溺愛していないはずはなく、おそらくは戦の最中に亡くなったことを知らされただろう。
父の心中を思えば、その傷に無造作に触れることはできない。
勝千代は顔を上げ、じっとこちらを見ている土井と視線を合わせた。
「叔父上にお話ししたいことがあると伝えて」
兄の死は、表向きは病死となっている。
実際の所は、興津の態度から推し量るに微妙なところなのだろうと思う。極めて濃いグレーというべきか。
叔父であれば、もっと詳しい事を知っているだろう。
勝千代は控えている糸に目を向けて、叔父が来る前に身支度を整えるようにと命じた。
今? 寝込んでいるんだから、寝着だよ。
締め付けが少ないから楽だけど、いかにも病人っぽくて、やつれて見えるから好きじゃない。
三十分ほどして、叔父が来た。
もしかしたら昨夜は寝ていないのかもしれない、目の下に隈ができている。
「宗田屋ですか」
叔父は裏帳簿に目を通してそう言ってから、しばらく無言でいた。
そして勝千代をじっと見て、何かを躊躇うような素振りで唇を引き締めた。
「……勝千代殿には謝罪せねばなりません」
「謝罪?」
勝千代は小さく首を傾げた。
裏帳簿と謝罪とがどう結びつくかすぐにはわからず、次いで、「それはない」と否定した兄の死を思い出したが、彦丸兄の死を謝罪、というのは違うだろうし。
「何故でしょうか」
「勝千代殿がお生まれになった際、桂殿が扶育することをすすめたのはわたしです」
「……え」
桂殿。
その名前が叔父の口から飛び出した時、ずきりと額の傷跡が痛んだ気がした。
「まさかあのような恥知らずな事をするとは想像もしておりませんでした」
桂殿は、赤子には母親が必要だ、温かい乳を飲ませてやらねばかわいそうだと、母性溢れる口調で言い、勝千代の扶育を名乗り出たのだそうだ。
実子ではなく孫にあたる勝千代を嫡男に、という話が出る前、すでに父には側室腹の庶子が複数いたそうだが、「事情があって今は不在」だという。
……なにその不穏なワード。
つい叔父にならって眉間にしわを刻んでしまった。
勝千代の生母、つまり父の娘が御屋形様の側室として上がったばかりの頃、「とても口にはできない事情」が勃発し、当時権勢をふるっていた側室たちとその一派が軒並み粛清されたのだという。
「……粛清?」
「正確には、大勢が詰め腹を切り、大勢が福島家から去りました」
い、いったい何があったんだ。
詳しく聞きたくてたまらなかったが、話す気はないようで、叔父は険しい表情のまま話を続ける。
今支障なく勝千代が嫡男と名乗れるのは、実父が御屋形様だという事情もあるだろうが、勝千代より先に生まれた男子たちの母親が、もみ消せないような「やらかし」をしでかし、すでに福島家内にはいないからだという。
子供には罪はないと言いたいところだが、犯罪者として家を去らざるを得ないような事をしでかした者の子が、名門福島家の嫡男に収まる事はない。
彼らは勝千代が生まれるより前に、遠国に養子にだされてしまったそうだ。
そして勝千代が生まれ、福島家の嫡男にどうかと養子を打診されたとき、事件とは無関係を貫いていた側室が、勝千代の扶育を名乗り出た。桂殿だ。
同時期に出産していた彼女には、生まれてまだ間もない女児がいて、上の子ともども兄妹のように育てますと、まるで勝千代を腕に抱くことが僥倖であるかのように言ったのだそうだ。
その桂殿の生家が、宗田屋だ。
側室の中では最も身分が低く、男子を生んではいるが、嫡男など恐れ多い、と後継争いからは一歩引いた立ち位置にいた彼女を、志郎衛門叔父を含め誰も疑いもしなかったらしい。
……まあ御存知の状況に陥って、危うく死にかけたわけだが。
勝千代は、しばらく無言で叔父の手の中にある冊子を見つめた。
ぞわぞわと込み上げてくる寒気を、叔父も感じているだろうか。
「何もおっしゃいませんように」
やがて沈黙に耐え兼ね、口を開こうとした勝千代に、志郎衛門叔父が静かな口調で言った。
裏帳簿は薄いが、書かれている内容はかなりのものだ。
戸田と宗田屋が密接につながって、福島家の資産の、銭の部分をごっそり奪っている紛れもない証拠だ。
勝千代はそれを、強欲故の横領だろうと考えていたのだが……
「兄上にはわたしの方から伝えます。江坂のほうからも何名か腕利きを配備しますので、勝千代殿はご身辺に十分御気を配り下さい」
事はどうやら、勝千代が生まれる前から仕組まれた、福島家の後継問題と密接にかかわっているようだった。




