23-2
誰も勝千代が来たことに気づかない。
それほどまでに戸田の怒声はひどいもので、子供の声もキーンと耳に痛い。
勝千代はひそかに深呼吸して気持ちを整えた。
今から対するのは、これまでずっと福島屋敷を差配してきた男だ。かなりのやり手だろうし、油断しているときっと責任逃れをされて終わりだ。
そしておそらく、今回父に刺客を送り込んできた張本人。
あわよくば死んでくれればいいと考えてはいるだろうが、それよりも、状況の混乱を望んでいるのだと思う。
勝千代はまっすぐに段蔵の元へと近づいた。
手足をばたつかせ叫んでいる子供は、がっちりと関節を極められ、おそらくは相当に痛いのではないか。
その手元に落ちているのは、分厚い冊子になった紙束。
拾い上げたのは土井だ。
子供はそれを取り返そうとしたが、さらに強く押さえつけられ「あああっ」と甲高い悲鳴を上げた。
勝千代は、情けをあおるような子供のようすに目を向けた。
これまでであれば、子供が泣いていたら顔をしかめていただろう。悲痛な声にかわいそうだと思ったはずだ。
土井が差し出した冊子を受け取り、ぱらぱらとめくって、そこにあるのが、領内の村々から寄せられた年貢を書き連ねたものだと把握した。
勝千代は、少年の傍らにしゃがんで、ものすごい声量で痛みを訴えているその子に顔を寄せた。
「咎め立てされたくなければ、これをどうしようとしたのか言う事だ」
涙でぐちゃぐちゃになっている顔がこちらを向いて、そう言葉を掛けたのが幼い童子だと見てとったのだろう、一瞬その目の奥が驚きに染まる。
勝千代は少年の大げさすぎる悲鳴を、やはり大人の憐憫を煽るためのものなのだろうと判断した。
「このままだと、連座で罪に問われるぞ」
押さえつけている男が特に力を緩めたようには見えなかったが、少年はぴたりと泣くのを止めた。
まだひっくひっくと嗚咽をしながら、冊子に目を通している勝千代を食い入るように見上げる。
「……誰」
勝千代は、少年の小さな問いかけを拾い上げ、再びその涙で汚れた顔を見下ろした。
身なりからいって、小姓なのだろう。比較的裕福だとわかる武士階級の子供だ。
「お前を死罪に問える者だ」
少年の顔がさっとこわばった。
「これをどうしようとした?」
少年は視線をきょろきょろと周囲に揺らし、誰も助けてくれないどころか、冷ややかな目で見られていることに気づいたのだろう、寸前まではあれほど甲高い声で叫んでいたのに、急に黙り込んでしまう。
「勝千代さま!」
段蔵に腕をひねり上げられ、書き物机の上に上半身を押し付けられていた戸田が、勝千代らの存在に気づいた。
その目が間違いなく冊子の方に向く。
「これは一体どういうことですか!」
普通の子供であれば、委縮してしまいそうな頭ごなしの口調だ。
冊子の事には特に言及せず、赤黒い顔をして勝千代を、段蔵たちを睨んでいる。
「いくら御嫡男といえど、このような無法は許せませぬぞ!」
「……ほう」
幸松であれば怯んだかもしれないが、勝千代はちらりと薄い笑みを唇に浮かべた。
「わたしはずいぶんと寛容に振舞っていると思うが」
「……はっ?」
勝千代は立ち上がり、はくはくと口を開閉している狐顔に近づいた。
「勘定方の者たちには横領の嫌疑がかかっている。ずいぶんと好き勝手してくれたようだな?」
「な、なにを証拠にそのような」
「証拠か」
勝千代は、卓上の筆を手に取り、段蔵が乱暴したせいで際で落ちそうな硯に筆先をつけた。
「気づかれぬと思うているのが不思議だ」
まあ実際、父のところまで話が通ったのは最近のことだ。
だが、勘定方のほとんどがこの事実に気づいていたこともまた事実。
露見するのは時間の問題だった。
それは本人もわかっていたはずだ。
勝千代は小筆を片手に戸田を見て、その憤慨した様子を冷静に見定めた。
こういうときが来るとわかっていたなら、備えていたはずだ。
それとも、たかが子供ひとり、なんとでも言い含められると思っているのだろうか。
筆先を慣らした感じから、いかにも粗悪な墨だと筆を置く。もしかしたら屋敷内の備品にも手をつけていて、ランクを落としたものを納品させているのかもしれない。
「まあそういう事だから、勘定方の者はすべて捕縛する。心当たりがある者は早めに申し出るがよい。心当たりがないのであれば、何も恐れることはない、静かに詮議を待て」
「お、お待ちください!」
勝千代は抗議する戸田から顔をそむけた。唾を飛ばすなよ。
「誓ってそのようなことは御座いません! これは何かの陰謀! 言い掛かりに御座います!」
「陰謀であれ言いがかりであれ、横領は事実で、そのほうはここの責任者だ。身に覚えがなくとも責任者は責任を取る者だろう」
「な、なにを」
「戸田、そのほうの家宰としての任を解く。たった今より、そなたを含め、勘定方すべての者は書き物類だけではなく、周囲の物品には何ひとつとして手を触れることは許さぬ。ここにあるものはすべて接収する。詮議がすむまで監視がつく故に、心して振舞え」
「栄吉郎!」
勝千代がそう言い放つとほぼ同時に、詰め所の入り口の所から大きな声がした。
この場所が水を打ったように静まり返っていたから、その声はやけに大きく聞こえた。
部屋に駆け込んできたのは、幸松の側付きで、勝千代を睨んでいた男だ。
戸田の配下であり、夕べ勝千代を襲った井坂をひそかに見張っていた者でもある。
「これは……」
早田は部屋中にいる物々しい男たちに怯んだ様子だったが、床に押し付けられている少年に改めて駆け寄ろうとした。
渋沢の配下のひとりがそれを制止する。
早田はカッとした表情で何か言い返そうとして、勝千代の存在に気づいた。
目が合った。
その奥に瞬いた感情は、まぎれもない強い敵愾心だった。




