22-6
眼前で男が吹き飛ぶ。
大きな物音をたてて回廊を転がり、更に数度打擲する殴打音とともに、手すりに激突する。
谷は呻き声ひとつ上げなかった。
吹き飛ばされた先で素早く跪坐の姿勢を取り、両膝両手をついて額を床に押しつける。
「……まあ、それぐらいで」
勝千代は目を逸らしたい気持ちをぐっとこらえ、小さな嘆息にとどめた。
「実際には何事も起こらなかったわけだし」
「そういう訳には参りません」
激怒しているのは渋沢だ。
刀を黒い鞘ごと振りかぶり、なおも谷の顔面を容赦なく殴打する。
「すぐに腹を切らせます」
おいおい、そこまではちょっと。
「この者のしたことは、到底許せることではございません」
……怒ってるなぁ。
勝千代は、たとえ男であろうと美人が激怒するとものすごく怖いのだと知った。
「渋沢」
勝千代は扇子を手元で弄りながら、静かに男の名前を呼んだ。
実際に谷は、意図的に興如たちを奥にまで招き入れており、警備担当としてそれはやってはいけない事だった。
しかし、誰も怪我などしていないし、結果的には重要な証人を連れて来てくれたわけだし、腹を切らせるほどの事ではないように思う。
「やめよ」
暗色の直垂を来た男前が、壮絶な怒りの表情のままこちらを振り返った。
その怒りがこちらに飛び火しそうで怖いが、部屋の前で流血沙汰は勘弁してほしい。
「人は死んでしまっては何の役にも立たない」
挽回するにも命があってこそだ。
「三度までの失敗は見逃してやれ」
「御冗談を」
にいっと唇を笑みの形にゆがめ、今にも刀を抜き放ちそうな勢いで柄に手を置く。
「そのような無能は我が家臣には不要。生きている価値も御座いませぬ」
「渋沢」
怖ぇぇぇぇぇぇ……
内心ものすごく引いていたが、ここは踏ん張りどころだ。
「やめよと言うたぞ」
どうしてよく知らぬ男の命乞いをしているのかわからないが、目の前で死なれるのは寝覚めが悪い。
「お前が要らぬというのであれば、ここに置いていけ。何かの役には立つだろう」
「わたしが引き取ってもいいですよ」
おどろおどろしい声、というのはこういうのを言うのだ。
他の者はどうかわからないが、勝千代は声を掛けられるまで叔父が来たことに全く気づいていなかった。
紙束を片手に、志郎衛門叔父は眉間の皺をくっきりと刻んだ状態で立っていた。
「……お早いお着きですね」
「見取り図の写しをお持ちしただけなのですがね」
甥っ子のために平面図の写しを持って戻ってきてみれば、騒ぎが起こっていたという事だろう。
ち、ちゃんと部屋にいたからね!
いい子にしていたんだからね!
内心そう言い訳をしながら咳払いをする。
「父上の所へは?」
「着いた早々呼ばれました。今兄上は生臭坊主を尋問しています」
父があの元僧侶を締め上げている様子をちらりと想像してしまったが、一瞬にして頭から振り払った。
「叔父上の所でしっかり調べてもらいたいですね。福島屋敷だとちょっと」
口封じの危険性が非常に高い、と言外に匂わせると、叔父は一文字に唇を結んで頷いた。
右に怒りおさまらぬ男前、左に険しいゴルゴ顔。
……怖いって!
「あの男が誰から頼まれたのか、大いに気になるところです」
誤魔化すようにそう言って、もう一度咳払いする。
「聞き出せる内容によっては、一気に解決まで持って行けるかもしれません」
なんだか先ほどから喉がイガイガする。やばい、風邪かもしれない。
苦い薬湯を飲まされる未来を予想して、ちょっと顔から血の気が引く。
「それは図面の写しですか?」
勝千代は叔父の手にある紙束を指し示し、さも興味深げに問いかけた。
「頂いても?」
手渡されたのは、まだ墨の匂いがする若干黄ばんだ紙だった。
先程見たのと全く同じ妙蓮寺の間取り図が、六枚の紙に別れて書き記されている。
「午後から妙蓮寺への調べが入ることになっています。図面との差異を調べて参ります」
叔父の地を這うような低音が、空恐ろしくも頼もしい。
もしあの場所に財を蓄えているのだとしたら、興如は立ち入りを認めなかっただろうから、おそらく何もないとは思う。
ただ、叔父ならば念入りに調べて、何がしかの手がかりを拾ってきてくれるだろう。
まさか本当に隠し通路があるとは思えないが、柴垣を閉じ込めていた場所などに何か残されているかもしれない。
「首尾よく財宝が見つかることを祈ります」
今さらながらにお子様っぽく、にっこりと笑ってそう言うと、叔父は少し目を大きくして、やがて小さく苦笑した。
「その件ですが……」
「志郎衛門さま!」
叔父が何かを言おうとしていた矢先、表へと続く回廊の方から大声で叔父の名を呼ぶ声がした。
「志郎衛門さま!!」
そのただ事ではない声色に、叔父だけではなく渋沢も、二木たちも、勝千代ですら腰を浮かせる。
部屋の前に転がり込んできた男の真っ青な顔を見て、ひゅっと鳩尾のあたりに冷たいものを感じた。
ああ、これはきっと良くない知らせだ。
「殿が! 殿が刺されましたあっ‼」
心づもりをする前に、男が泣きそうな声でそう叫び、一瞬にして思考が真っ白に染まった。




