21-5
碁盤を前に眉間にしわが寄る。
好きとも得意とも言えないが、ルールは知っている。
誘われて、ふたりで碁盤に向かい合ったのだが、このひとめちゃくちゃ強い。
「ちょっと待ってください」
「いくらでも」
興如は楽しそうに含み笑い、眦を垂らせた。
勝千代はしきりに顎をこすり、首を傾げる。
打っても打っても逃げ場がない。
この時代にも囲碁はあったのだというひそかな喜びよりも、現代で言うプロとアマチュアの腕の差のごとく、まったく歯が立たないのが悔しい。
「……少しは手加減してくださっても」
「いやいや、その御年にしてはなかなかお強いですよ」
「勝ち筋が見えません」
「そりゃあねぇ、年季が違いますから」
勝千代は「むむむぅ」と唸る。ギブアップはしたくない。このまま逃げ切れるなら逃げ切りたい。
気が付けば結構な長い時間向かい合っていた。
肝心な話はしていない。
だがしかし、お互いの事が少しは理解できたかと思う。
「御坊はもう少し子供に対する思いやりを持った方がよろしいかと思います」
唇を尖らせて憤ると、「あははは」と明朗な笑い声が帰ってくる。
「まだまだ童子に負けてはいられません」
「こういう場合は負けても良いのですよ」
「そうですか?」
「ええ、子供の顔を立ててください」
難しい相手だ。
碁を指しただけでたいしたことは分からないが、この人は清濁併せ呑むタイプのまっすぐな人のような気がする。
こういう人が一度決めたことを覆すのは難しいだろう。
たとえば対立姿勢を決めたなら、なかなか厳しい戦いになると思う。
だが、まったく話が通じない相手ではない。
惨敗続きの囲碁の後、何杯目かのお茶のお代わりを待つ間に、一枚の折りたたんだ紙を差し出した。弥太郎が例の牢の前で書きつけた自白状だ。
「如章どのから直接聞き取りをした内容です」
興如はにこやかな表情のまま軽く頭を下げて、紙を広げた。
「もはやご存じの事かと思いますが」
案の定、さっと目を通しただけで表情も変えなかった。
すでにもう情報として知っている内容なのだろう。
「知人が巻き込まれていたことと、父と私の身にかかわる事ですので、なかったことにはしたくありません」
勝千代は興如の視線を追って、美しく造られた庭園に目を向けた。
「ですが、むやみに騒ぎを大きくしたいわけではない」
しばらく黙って、この人には回りくどい事を言う方が良くないだろうと判断した。
「我が福島家から、かなりの領民が流れているようです。取り戻したいと思います。ご協力いただけないでしょうか」
顔を戻すと、興如の丸い目がこちらを見ていた。瞬きもしない、しっかりと強い視線だ。
その目だけを見ていると、薄汚れた身なりがひどく似つかわしくない。
この人の敵にはなりたくないなと、無意識のうちに考えてしまう人柄だった。
つかみどころがなく、どことなく空恐ろしいのだ。
「ひとつお聞きしてもよろしいか?」
「わたしでお答えできることでしたら」
「否やとお答えしたらどうなさる?」
碁盤を取り除けば、もはや親子、あるいは祖父と孫のような近い距離で顔を見合わせ、興如の目が興味深げに勝千代を見ている。
その背後で、二木や土井が刀に手を伸ばそうとしている事など気づいているだろうに。
さすがに渋沢は黙って様子を見守っているが、お世辞にも穏やかな顔付きではない。
「わたしは子供ですので」
そんな男たちの様子をちらりと見てから、勝千代はひっそりと唇をほころばせた。
「子供は大人に頼るものです」
「御父上か。大層お強いそうですね」
「幸いにも、知己を得ました御方もおられます故に」
脇に置いていた扇子を手に取り、そっと握る。
「そうですね、残念な結果になってしまいましたら、ご宗派の方々には領内から出ていただくことになるでしょう。いつまた子供が攫われないとも限りませんから」
「御仏の敵になりなさるか?」
「御仏は、幼子を親元から攫って遠方に、若い女子であれば遊郭に売りはらったその銭で、懐を肥やせと仰っているのですか?」
先の世での大多数の日本人は、正月も盆もクリスマスもイベントとしてこなす。除夜の鐘を鳴らしに寺に行った直後に、神社に初詣に行くことに違和感を覚えない。
古くからある八百万の神、要するに万物に神は宿り、ブッダもキリストもアッラーもそのうちのひとつの概念にすぎないと考える、ごくごくおおらかな宗教観の国民性なのだ。
勝千代もまた、その大多数のうちのひとりだった。
八百万のうちのひとつに仏敵だと言われても、さほどのダメージはない。
それよりも、仏の名を掲げて力なきものを虐げ、私腹を肥やす者への嫌悪感の方が強い。
「興如さま」
勝千代は親しみを込めてにっこりと笑った。
「真っ白な餅にもカビが生えます」
腐ったリンゴや箱詰めされたミカンの話をしても通じないかと思い、餅にしてみた。
「隣り合った餅にもカビは移ります」
餅の代わりではないけれども、脇に避けた碁盤から白い石を取り目の高さに掲げた。
丁度部分的に黒い斑点があって、それがまるで汚れのように見えたのだ。
「裏返して見えなくしても、カビは増えていくばかりですよ」
現代の碁石のように、まったく同じ色形はしておらず、ひとつづつ微妙に大きさも色も違う。
白石は特に、部分的に茶色がかっていたり、マーブル模様だったり、黒いシミのようなものがあったりもする。
だがさすがは福島屋敷に置いてある道具だ、どの石も手触りよく磨かれていて、光沢もあり、見た目も美しかった。
それをひとつ僧侶に差し出し、節くれだった手のひらの上に乗せた。
「悪いところは思い切って取り除くほうが、御仏のお心に沿うのでは?」
さあそろそろタイムオーバーだ。
あちらの話し合いはとうに終わっているだろうし、興如がここにいる事も、そろそろ父の耳に入っている頃だ。
「妙蓮寺に柴垣という若い者が捕らわれています。うちの方にもいろいろありまして、一概にそちらだけが悪いというつもりもないのですが、外への伝手としてつながっていることは確実かと思います」
遠くで勝千代の名前を呼ぶ父の声が聞こえた。
ふっと唇に笑みが昇る。
「父はいささか血の気が多い人ですので、表に出てしまえば、それこそ大ごとになってしまいます」
ばたばたと荒い足音。
「当方としては、こちらの鼠を捕まえるために出口を塞ぎたい」
「……お勝!」
バシャン! と派手に何かが倒れる音がした。
勝千代の部屋は二間続きなので、もう片方の部屋に突撃した父がすだれを剥ぎ落したのだろう。
「協力しあえるところはいろいろとあるかと思いますよ」
部屋境の襖が勢いよく開かれた。
ほぼ蹴り破るほどの勢いだった。
「お勝! 無事か!!」
「父上。襖が壊れてしまいます」
勝千代はあっという間に父の懐に抱え上げられ、部屋から連れ出されてしまった。
大勢の武士たちが興如を取り囲んで、いささか物騒なことになっているが、当の本人はにこりと人懐っこい笑みを浮かべて勝千代を見送った。
渋沢が止めに入っているから、おそらくは大事には至らないだろう。
結局返答は聞けなかったが……結果はすぐにわかるはずだ。




