3-2
中の人が知る勝千代の叔父とは、桂殿と結託していたあの叔父しかいない。
父に対しては誠実な弟を装い、影では嫡男である勝千代を虐待する。その二面性はおぞましく、いつか父にも牙をむくのではと危ぶんでいた相手だ。
もちろん他にも叔父はいるのかもしれない。
しかし、段蔵の言葉は強烈なフラッシュバックとなって、笑いながら蹴飛ばしてくれたあの瞬間を思い出させた。
「……あの人か」
「はい」
段蔵がはっきりと肯定したところを見ると、やはり脳裏に浮かんでいる男で間違いないのだろう。
まっさらな紙の上に落ちた墨に目を落とす。
筆の先端が、ふるふると震えている。
……怖いか?
幼い勝千代に問いかけてみる。
しばらく胸の内に耳を澄ませたが、自身の感情以外は伝わってこない。
しかし無意識に揺れる筆先が、久々にずきりと痛むあばらの骨が、物心つく前から続く虐待の爪痕としてそこにあった。
その時点で、ご側室の側につきたくないと感じてしまうのは無理もないだろう。
では御台さまに味方するのかというと……それも気が進まない。
わざわざご側室の従兄弟を選び、養い子として寵愛した。そこに何らかの思惑があるのは確かで、近づくのは危ういと感じるのだ。
「藪をつつく気などないのに、蛇が出てきた場合はどうすればいい?」
勝千代は筆を置き、汚れてしまった紙を脇に避けた。
いつの間にか手にも墨がついていて、美しい薄紙の和紙に黒い汚れがつく。
真相を知りたい気持ちはもちろんあるが、中の人にとっての最優先事項は、幼い勝千代を生き延びさせることだった。
できる限り藪を避けて通るのは、保身として正しい道だろう。
「排除しますか?」
「物騒なことを言う」
舌足らずな口調でそう言って、黒くなった手を段蔵の方に向ける。
この男は、父が雇っている忍びだ。
命を助けられ、ヨネの事でも世話になり、大恩があると言ってもいい。
だがしかし、本当に信じられるのかと問われれば、確信はない。
仲間の命も掛かっているのだから、より分があるほうに付いて当然なのだ。
いい年をした大人である中の人は冷静にそう分析していたが、そんな風に考えてしまうのを恥じてもいた。
そして自身がすでに九割がた彼を信じ、残りの一割、たとえ裏切られたとしても、それはそれで仕方がないと思っている事にも気づく。
手ぬぐいで墨を拭ってもらう間、近い位置にある黒い目をじっと見た。
単純に救われたというだけで、信じてしまうのは危険だ。
それでも、平和な時代が育てた価値観は、今さら変えようがない。
「毒蛇がいたとしても……知らぬ振りが良い」
内緒話をするように、自身に言い聞かせるように囁く。
裏切られる可能性を許容するべきではないが、幼い子供には保護してくれる大人が必要なことも確かだった。
勝千代はきれいになった手で筆を取り、新しい紙に向かった。
適当な時候の挨拶を書き、まずは気遣いへの礼を、お会いして兄のことを聞きたいと思うが体調がすぐれず、誰かに移しても申し訳ないので遠慮すると綴り……
少し手を止めて、茶色い土壁を見上げた。
「段蔵」
じっとこちらを見ている男に、静かに語りかける。
「与平らは村から出したほうが良い」
それは、かねてからの懸念だった。
改めて今日、自身の思いのほか危うい立ち位置を知り、懸念は確信へと変わった。
忍びの隠し里なのだろうこの村は、すでにもう知られてしまった。
勝千代さえ匿わなければ、どこにでもある農村を装いこれからも続いていったのだろう。
しかし、どうやってか岡部らに探し当てられてしまった。
忍びの者たちが住むと気づかれてしまっては、もはや隠し里とは言えず、安全ではない。
「ほかに身を寄せるあてはあるか?」
段蔵は答えなかった。
この男にしては珍しいと首だけ巡らせて振り返ると、両手を床について深く頭を下げていた。
「……段蔵?」
「ご配慮に感謝いたします」
普段の平坦な低い声ではなく、若干くぐもって聞こえた。
「いや、迷惑をかけているのはこちらの方だ。御台さまからいただいたものだが、いくらか間引いて売れば当座の費えになるだろう」
住まいに収まりきらない調度品など、あっても手に余る。しまい込むにしても場所を取るだけだし、気づかれない程度に売りはらって金銭に替えるのはアリだと思う。
できた金のいくらかを取り分としてもらい、そこで改めて街までの護衛を依頼しようか……などと皮算用していると、段蔵がようやく頭を上げた。
「子らは別の村に移します。山をひとつまたいだ、信濃との国境にある村です」
幼子相手とはいえ、別の隠し里のありかを漏らしてはダメだろう。
言外に聞かなかったことにしようと首を傾けて見せたが、段蔵はしっかりとこちらの目を見て言葉を続けた。
「その村から、入れ替わりで何名か呼び寄せます」
「これまでもずいぶん世話になった。礼を言っても言い尽くせないほどだ。私はこの村に残るが、護衛の人数は最低限でよい」
「いいえ」
あわよくば金を握って街へ逃げようと思っている勝千代は、大柄な忍びにじっと見据えられてたじろいだ。
「……それが我らの仕事です」
「そ、そうか」
「必ずお守りいたします」
まるで、逃がさない……と言われたような気がした。