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戸田は続く何とも言えない空気に耐えかねたように、適当な事をいって逃げるように退散していった。
これだけの人数、特に二木ら父の側近を前にして、さすがにマズイと感じたらしい。
退散の仕方が鼠みたいだなと、狐顔の家宰に向かってひそかに鼻を鳴らす。
残念ながら、口だけの威圧に委縮するにはちょっと色々と経験しすぎた。
そもそもこれだけの護衛を前に、何かができるような男には見えない。
「よいか幸松」
戸田が見えなくなって、あからさまにほっとした様子の幸松の手を、更にぎゅっと握る。
「あれは狐だ」
「……きつね」
きょとんとした弟に笑いかけ、「そうだ狐だ」と言い聞かせる。
「虎の威を借る狐だ」
さすがに難しかったようで、首を傾げている。
「父上はお強いだろう?」
「はい」
「あれは父上の強さを己がもののごとく振舞っているだけだ。……幸松は父が怖いか?」
ぶるぶると首が左右に振られる。
「では狐如きに怯えずともよい」
たとえ家臣であれ無視できないほどの権勢を持つ場合はあるが、そこは福島家、当主は父だ。何かあれば力づくで解決し、大概の事はそれで納得されてしまう家風なのだ。
まあ今の年から理解しろというのは無理かもしれないが。
「ところで、紅白はどこにいるのだ?」
すぐそばに池が見えていたので、話をそらすために幸松の注意を引く。
「冬だが姿を隠してはいないのか?」
「日が照っているにっちゅうは、よくあさいところでじっとしています」
「ああ、本当だ。背中に赤と白の模様がある」
錦鯉をイメージしていたが、背中の一部に薄く色がついただけの、ほとんど見た目フナである。
「手をたたくと寄ってくるのです!」
寸前のことなど忘れたように、幸松の顔にパッと笑顔が浮かんだ。
一生懸命手をたたき、寒さのせいで動きの鈍い鯉たちを呼び寄せようとはしゃぐ姿は、時代など関係なく、どこにでもいる無垢無邪気な子供だった。
「亀がいません」
「寒いから春まで土の中で眠っているのだ」
「亀も眠るのですか?」
「そなたは寝ないのか?」
「寝ます」
「ならば亀も寝るだろう」
幸松の疑問に答える感じで話をしているうちに、ものすごく尊敬の目で見られるようになった。
これでも理科の先生なんだよ。
生き物については詳しいから何でも聞くと良いよ。
やはり子供はかわいいものだ。
何にでも興味を持ち、素直に笑い、素直に拗ね、てらいなくわからないことを聞いてくる。
まだ三歳ぐらいか。
何ものにも毒されていない、一番可愛らしい時期だ。
わかっている。この子を巻き込むわけにはいかない。
ほの暗い敵意を秘めた目で見てくるのは、井坂を見張っていた男だ。
幸松の側付きのようだが、そちらこそ目立った動きをして敵を刺激してくれるなよ。
お互い会話もなかったし、おそらく勝千代の内心など知らないだろうが、早田とかいう男が幸松を見る目は柔らかい。
彼ならきっと、何があろうと幸松を守り抜いてくれるだろう。
しばらくは会えないと言ったら、幸松は傷つくだろうか。
だが、四六時中命を狙われていて、この屋敷の中でも事件に巻き込まれている現状、幸松を側に近づけるのは危険だ。
「あにうえ!」
紅白の鯉が寄ってきたと、満面の笑顔になる幸松。
その笑顔に、反射的に笑みを返そうとして……
「若君」
その低い声が誰を呼んだのか、とっさに判断ができなかった。
この場で最も多い側付きの主人は幸松で、彼らは一斉にその幼い身を守るべく身体を動かした。
具体的には、幸松と新たなる登場者との間に、肉の壁のごとく立ちふさがったのだ。
間違った行動ではない。
彼らは幸松の護衛なのだから、本能的にそう動くのは正解だ。
ただし、小柄な勝千代が弾き飛ばされる形になって転びそうになった。
真横に池があるんだよ。柵なんかないから危ないんだよ。
危うく池にダイブする寸前、ギリギリのところで腕を掴まれた。
ありがとう土井!
護衛が多すぎるのも、動きにくくて大変なのだとわかった。
かなりひやっとした。
声を掛けてきたのは、まったく見覚えのない男だった。
とにかくめちゃくちゃ男前だ。どれぐらいかというと、ジャニーズの大御所が大河ドラマの主役を演じているレベルだ。
このクラスの男前になると、もはや羨望よりも感心が先に立つ。
言っちゃあなんだが、糸が熱い目で見ていた南などジャガイモだ。
二木などその辺の蛇だ。
勝千代だって、地べたの石ころだ。
まったくもって、見たこともないほどの美男子だが、その低い枯れたような声には聞き覚えがあった。
ヒントは、ほぼ全身黒に近い墨色の装束だということだ。
ファッションなのか、ポリシーがあるのか、はたまた何か事情があるのか知らないが、この男以外がしていたら間違いなく「おかしな奴」だと後ろ指をさされそうな色の取り合わせだった。
「もうしわけござらぬ。殿にお赦しを頂き、若君にご挨拶と謝罪をと思うて参りました」
間違いない、兵庫介叔父に乗せられて軍を挙げた者たちのひとり、黒い鎧装束の渋沢だ。
ちょっと二木! 謝罪しに来た人をさりげなく蹴ろうとしない!
渋沢も慣れているのか、ひょいと避けているが。
「……どの面下げて!」
ここまで顔面格差があると、二木の怒りがただの嫉妬に見える。
二木本人にもそれが分かっているのだろう、ますます腹立たし気に渋沢に敵意を向ける。
渋沢は手に持っていた刀を地面に置き、その場に膝をついた。
「殿にもお叱りを受け申した。我らももう少し頭を冷やすべきでした。取り返しのつかない事になる前に、止めてくださって感謝しています」
「立ってください」
というかやめて、こんなところで土下座するの。
幸松の教育上良くないから!
……もちろんそれだけではなくて、渋沢は福島家の武将クラスの上級武士だ。
かなりの地位身代を持つ、もしかしたら城を預けられているほどの武士なのだ。
幼い童に向かって軽々しく、しかもこんな大勢の前で頭を下げてよい男ではない。
「渋沢殿」
宥めるように名前を読んでみるが、土下座の姿勢で動こうとしない。
美男子は土下座まで絵になるな……などと、現実逃避気味にそんな事を考えながら、冷えた土の上で「ザ・謝罪」の姿勢を崩さない男にため息をつく。
そもそもそんなに怒ってはいないし、むしろ今の今まで思い出しもしなかった。
しかし考えてみれば、あやうく父に対して謀反ともとれる行動をとるところだったのだ。
方々からの、色々な意味を含んだ凝視を感じる。
謝罪を受け入れたというよりも、この状況に辟易として、渋沢までの数メートルの距離を縮めた。
「わたしに謝罪の必要はありません」
そっと、その広い肩に手を置く。
「父がお赦しになられたのであれば、何も言う事はありません」
だからやめて。お願いだから土下座やめて。
先程から、幸松たちだけではない、仕事中の女中たちまでちらほらこちらを伺っている。
これじゃあまるでパワハラ上司の図じゃないか!
数え六つにして、すでに暴君の気質ありなどと、変な噂が立ったらどうしてくれる!!
「……場所を変えましょうか」
仕方がない。
横領の件が片付くまでは、誰にも会わず部屋に閉じこもっている予定だったのだが。
勝千代は、楽しい幸松との散策を泣く泣く諦め、美男子だがむさ苦しい男と話をつけることにした。




