20-3
「あにうえのお庭のコイに、背中に赤と白のもようがあるものがいて……」
日ごろから、むさ苦しい男どもしか周囲にないのだ。あどけなく可愛らしい幸松の声に、心が洗われる。
小鳥のさえずりにも似たそのお喋りに、勝千代はうんうんと頷きながら耳を傾ける。
「紅白というなまえをつけたのです。手をならしたら近くにきてくれるのです」
「そうか。楽しみだな」
やはりこの子は、奥の庭に立ち入ることを許されていないのだろう。
それが身分故のことなのか、荒らされてはかなわないというお葉殿の判断かはわからないが。
「彦丸さまと川でメダカを取ってきて、池にはなってみたことがあります。なぜかよくじつには皆いなくなってしまって……」
そ、それは生餌というのでは。
「ではオタマジャクシはどうだろうと、いっしょにとりに行くやくそくをしていました」
「そうか」
たぶんそれも食われるよ。鯉は雑食だから。
奥の庭には入らないという決まり事を含め、突っ込みどころはいろいろある。
だが、彦丸兄を恋しがる幸松を見ていると、何も言えなかった。
手と手をしっかりと握りあい、庭園を並んで歩く二人の童。
はたから見たら、微笑ましい光景だろう。
会話の内容も、男の子同士らしく、ドジョウを捕まえる方法だったり、蝶やトンボを飼育する方法だったりする。
だがしかし、二人の周囲には十人近い護衛。
屋敷の奥の、最も警備が厳重な区画にもかかわらず、ピリピリとした感じが抜けない。
原因はどう考えても勝千代側にある。
幸松の護衛たちは、表面上は勝千代に敬意を払い、丁寧な対応をしてくれていた。
それをぶち壊したのが二木だ。
過剰なほどに警戒する様子が気にくわなかったのだろう。ねちねちと、幸松に置いてけぼりにされていた状況を咎め立てしたのだ。
もちろん脇腹をつねって叱っておいた。幸松には優しく穏やかな兄と思ってもらいたいのに!
まったく、大人げない奴だ。
楽しくおしゃべりをしながら、もうすぐ池にたどり着こうかというとき、「ここで何をなさっておいでですか!」と、鋭い声が掛けられた。
幸松の護衛たちはそろって体格が良いので、どこから声がしたのかもわからなかった。
幸松の側付きが六人、それに二木と土井を入れて総勢八人だ。ぴったり隙間もないほど周りを囲み、実に物々しい。
「この庭にはお入りにならないようにと、あれほど申し上げておりましたのに!」
だが、特徴的な声で相手が誰かはわかった。
家宰の戸田彦左衛門だ。
「気ままに何でも許されると思うては困ります!」
戸田は勝千代に気づいていないようだった。
気づいてこれではかなり問題だが、気づかないにしても、幸松へのその態度はいただけない。
もしかしてずっとああなのか?
嫡男ではないが、こんなにも父によく似ている幸松に?
怒鳴り付けられてビクリとした幸松を見て、顔をしかめる。
父に生き写し、ほぼミニチュアな幸松だが、幼少故か少し気が小さいところがある。もしかして父も昔はこうで、成長するにしたがって克服していったのかと思っていたが、なるほど、幸松にはそうなる理由があったという事か。
「早う出て行かれよ! ここはあなた様が来て良い場所ではない!」
あ、いまのにはカチンときたぞ。
だが、ここで怒りのままに行動するのは悪手だ。
相手は仮にも福島家の家宰。いくら陰で横領をしていようが、幼子相手にマウントを取るような下種であろうが、福島家の奥向きでそれなりの権限を握っている男には違いない。
なおもわあわあ言っている戸田に対して、護衛たちが怒りを堪えている。
勝千代は、不安そうな幸松の手を一度ぎゅっと握ってから、空いている右手で扇子を抜いた。
パチン。
うん。東雲の扇子はやはり良い音がする。
扇子の音に反応したのは土井と、半笑いのような表情をしていた二木だ。
勝千代の側付きの二人が片膝をついた。
土井の肩越しにようやく見ることができた戸田は、父の側にいた時とは違い、かなり険のある表情をしていた。
土井と、次いで二木が膝を折ったことに、最初は至極満足そうな顔をしていたのだが、ふたりが幸松の側付きではない事にようやく気づいたようだ。
ものすごくぎょっとした表情になって、ついでさあっと顔色を悪くした。
「に、二木殿?」
二木は戸田の方を一瞥もせず、無表情で地面に目を向けている。
「戸田」
努めて声を平坦に抑えて呼ぶと、戸田はこわばった表情のまま、ようやく勝千代の存在を認識した。
「穏やかではないな」
ぽかんと口を半開きにした顔を見て、もう一度扇子をパチリと開け閉めする。
「おお! 若君!!」
咎めようとしたのを察してか、大げさなほどの態度で戸田は両手を広げ、笑顔になった。
「このような寒い日に表に出られて……寝込むとまた殿が心配なさいますよ」
これは気遣われているのではなく、そういう態で虚弱なところを貶しているな。
勝千代は「ふっ」と嗤った。
……おおっと、幸松にこんな顔を見せるわけにはいかない。
何通りかの反撃を思い浮かべたが、あえて面には出さなかった。
横領の件の内偵が済むまでは、この世の春と思っていてくれたほうがいいのだ。
「なにゆえに幸松はこの庭に入れぬのだ?」
だが、黙り込んでいる幸松をこのままにしておくのが忍びなく、さも頑是ないお子様のふりをして首を傾けた。
「ここは父上の屋敷ではないのか?」
「若君にはまだお判りではないかもしれませぬが、若君と幸松様では御身分が違います」
疑う事を知らない子供に、余計な競争意識や敵愾心を植え込もうとするとは……
「父の子の幸松が駄目なら、何故そなたがここにおるのだ?」
子供、子供だ、自分は子供。
そう心の中で言い聞かせながら、幸松を真似て、にこっと無邪気な笑みをばらまいてみる。
「おおそうか。そなたは幸松より偉いのだな!」
幸松を含め、誰もがぎょっとして何も言えずにいる中、二木だけが下を向いて笑いをこらえていた。




