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めちゃくちゃ可愛らしい声で、お糸ちゃんが笑っている。
寄り添って歩いているのは、頭ひとつ分は背が高い南だ。父や段蔵に比べるから大柄に見えないのであって、小柄なお糸ちゃんと並ぶとかなりゴツイ。
二人がまんざらでもない表情で言葉を交わし、何か冗談でも言ったのか、またお糸ちゃんが笑う。
……見ているだけでこそばゆいんだが。
「では覗き見しなければいいのでは」
うるさいよ二木。こういうのは物影からこっそり見るのが楽しいのだ。
それにしても、糸の周囲に井坂が沸かなくなったのはよかった。
南との縁談話が出て以来、ぴたりと襲来が止んだそうだ。
夜に呼び出されることはもちろん、昼間に側に寄ってくることもなくなった。
それも、柴垣ががんばったからだけど。
まだ噂が本格的に広がってもいない翌々日、柴垣は井坂に呼び出され、どういうことなのかと問いただされたそうだ。
その際、柴垣は大号泣しながら、それはもう見事なほどの土下座を披露してくれたらしい。
ちなみに場所は、彼らの職場の廊下の角。
人はあまり通らない場所だが、すぐ隣の部屋では同僚たちが日々の職務に励んでいた。
何事かと周りが寄ってくるほどの大声で、「一生涯かけて必ず返済するから、糸を妾にという話はなかったことにしてくれ!」と、叫んだのだという。
こちらの思惑以上の謝罪っぷりだ。周囲の目がこれでもかとあったのがよかった。
お陰で、柴垣家にはかなりの借金があることが露呈してしまったが、同時に兄妹への同情と、井坂への非難の声も高くなった。
井坂、結婚しているんだよね。しかも婿養子。
奥さんがかなりお怒りで、家を追い出される寸前らしい。
そういう理由もあって、井坂は兄妹の前に姿を見せなくなった。
そりゃあ脛に傷持つ身としては、少なくとも表立っては手を引かざるを得ないだろう。
悪党どもがこのまま引っ込むとは思えないので、ほとぼりが冷めるのを待っているだけだろうが。
「それにしてもあの二人、いい感じじゃないか?」
「完全に仕事を忘れて舞い上がってますね」
「お前も本当は糸の見合い相手に立候補したかったんだろう」
「そんなことはありません」
やけに早い返答に、勝千代はにやりと笑う。
二木も適齢期だ。こういう奴だから、嫁を見つけるのに苦労しそうだ。
まずはその、性格の悪さが全身からにじみ出ている雰囲気にも動じない、包容力のある女性を探さないと。
「余計な事を考えないでください。それよりも」
二木がそれとなく示した場所には、二人の男。
南と糸の微笑ましい逢瀬を、表情のない顔でじっと見ている。
早速餌に喰いついたようだ。
ここから先は段蔵の仕事だ。
勝千代はもう一度糸に目を向けた。
守れよ。南。
こちらに向いたがっちりとした背中に心の中で語り掛け、邪魔にならないようにその場を去った。
南と糸が会っていたのは、福島屋敷の敷地内にある一番南側にある庭園だ。
奥まった勝千代の部屋からは最も遠く、身分が低い者でも出入りを許された庭だが、本来若い男女がデートで使うような場所ではない。
このまま二人には外に出かけてもらって、親睦を深める……もとい、囮役を務めてもらわなければならない。
二人の様子をうかがっていた男たちの身元調査と、その後の行動の把握、懐具合や対人関係を含めた全面調査が入る事になる。
これからしばらくは段蔵たちが忙しいので、できるだけ部屋にこもっているようにとお願いされていた。
駿府の街を散歩したいと思っていたが、それはすべてが終わってからでいい。
護衛対象が身勝手に動くのは、護衛される方はもちろんする方にとっても危険なのだ。
勝千代や父を狙ってきた風魔忍びの刺客が、完全に手を引いたとは思えないし、周辺が手薄になっているのなら、なおのことおとなしくしておくべきだ。
勝千代は土井と二木を引き連れて、北棟に続く回廊まで戻って来た。
階段の縁に腰を下ろすと、草履を脱がすために土井が片膝をつく。
「あにうえ!」
可愛らしい声が少し遠くの方から聞こえた。
顔を上げると、真っ赤な頬をして一生懸命こちらに駆けてくる幼い子供の姿が見えた。
「幸松」
最初、その後ろから小走りに追いかけてくる男たちを見て、追われているのかとぎょっとしたが、護衛だった。六人もいる。
「幸松さまは活発な方で、四六時中外を走り回ってるそうです」
「危なくはないのか?」
二木は肩をすくめた。
勝千代が狙われているのは、御屋形様の実子だという理由が大きいという事だろう。
「わたしより体格が良い。間違って狙われることはないのか?」
「間違えようがないでしょう」
これだけ容姿が違えば、刺客が惑う事はないのだろう。
だが、幸松側の護衛がどう思うかは別の話だ。
「あにうえもお外であそんでいらしたのですか?」
真っ赤なほっぺを笑みで崩しながら、幸松がぎゅっと勝千代の袖を握る。
こうやって並んで立っていると、ますます体格差が際立つ。
大きいなぁ、と感心して見上げていると、追いついてきた護衛たちの微妙な視線に気づいた。
微妙というか、警戒していると言うか。
ああ、糸は二木の視線をこんな風に感じたのだろう。
誰かに動きをつぶさに観察され、怪しまれている。
「気分転換に外の空気を吸いに出たんだよ」
「おげんきになられましたか?」
「そうだね、だいぶ良くなった」
笑顔でそう言うと、幸松も笑顔を返してくる。やさしい子だ。
そうだよ。人間はこうやって、思いやる気持ちで向き合うべきなんだ。
殺すとか、殺されるとか、そういうのはうんざりだ。
「ではごいっしょに、池のコイを見にいきましょう」
「いいとも」
「勝千代さま」
部屋にこもるのではなかったのかと、二木が取り繕う事もなく顔をしかめる。
この男に名前を呼ばれたのは初めてかもしれない。
いつも「若君」とか「若」とか、たいして重くもない口調で呼ばれていた。
ここには二人の「若君」がいるので、わかりやすく名前で呼んだだけなのだろうが。
「少しだけだ。すぐそこだしね」
この男が表情を険しくすると、威嚇しているか激怒しているかの二択に見える。
初見ではないが、二木とはなじみが薄い幸松が、少し怯えたように目を見開いた。




