20-1
確かに、ちょっと夜更かしはしたよ?
いや、最初はぐっすり寝ていたし、冷えたせいでもよおして起きただけだから……ギリ早起きの範疇にはいるんじゃないかな。
ほら、おねしょするわけにはいかないし。
さすがにそれは恥ずかしいから。
「………」
「……ごめんなさい」
明け方、さも今まで寝ていた風に臥所に潜り込んだが、何故か即座にバレてしまった。
無言で差し出された湯呑みを受け取り、なみなみと入った液体に震え上がる。
これ、全部飲むの? 逆に腹痛起こしそうなんだけど。
顔が引きつっているのは自分でもわかるが、言い訳ひとつさせてもらえなかった。
南も段蔵も、さっさと逃げてしまうし。
土井はまったくわかっていない顔をしているし。
二木はさも今呼ばれてきましたよ、と言った雰囲気で、しれっと下座に座っている。
なんだよその目は。
細くて糸みたいだが、人の不幸を喜んでいるのはわかってるんだからな!
「残さず飲んでくださいね」
勝千代は涙目で弥太郎を見上げたが、帰ってきたのは優し気な微笑みだった。
医療従事者特有の無慈悲な笑顔だ。
……昔いっつも歯医者で見せられたやつ!
結局、かなりの時間をかけて薬湯を飲み干した。
胃がタプタプする。ゲップと一緒に吐いてしまいそうだ。
だがやり切ったぞ!
右手で湯呑みを突き返し、もう片方の手で口を押さえる。
「……状況は知っているのか?」
「はい」
ようやく絞り出した問いに、弥太郎はしれっと答えた。
誰から聞いたのだろう。
段蔵にはそんな暇はなかったから、影供でついている奴だろうな。
くそう、そいつか。告げ口したの!
「お糸殿を妾にと申し出ている男の動きを見張り、相手側が次にどう出るか待つわけですね」
「父上の側近が嫁にと申し出ている女を、妾にするわけにはいかないだろう」
あちらも父の目を盗んで悪さをしているわけだから、目立つ行動はしたくないはずだ。
まあその借金も、十中八九でっち上げだろうが。
そもそも、返す当てのない貧乏所帯に、そんな大金を貸すはずがないのだ。
実際に借りていたのだとしても、証文にあるような額ではあるまい。
将来美人になりそうなお糸ちゃんや、気が弱そうな柴垣に目をつけて、最初から食い物にするつもりで証文をかわしたのかもしれない。
おそらくは、遊郭かどこかに売る予定だったのだろうが、彼女があまりにもかわいいから、欲を出して囲い込もうとした、といったところか。
これが戸田も気づいていないあの男のスタンドプレーなら、まさに付け入る隙だ。
その隙間から、どんなルートが見えてくるだろう。
個人的には、出入りの商人から寺へ……の線が濃厚だと思うのだが。
「失礼します。糸でございます」
えええ、今来る?
確かに、柴垣に伝言を頼んだけど。今来る?
「……っぷ」
ありえないほど苦いゲップと同時に、薬湯が胃からせり上がってくる。
ああ駄目、吐きそう。
二木め、今笑っただろう。
最近蛇顔の表情が読めるようになってきたぞ。
おずおずと部屋に入ってきた糸は、数時間前に見たような隙のある姿ではなく、きっちりと髪をまとめ、さも職業婦人らしい女中のお仕着せを着ていた。
「夕べはお気遣い頂きまして、ありがとうございました。おかげさまで安心して部屋に戻ることができました。……あのう、兄から若君にご挨拶に行くようにと申し付かってまいりましたが、わたくし何か粗相を致しましたでしょうか」
粗相ね、粗相しそうなのはこっちだよ。
勝千代はしっかりと手で口を押さえた。
「……若君?」
きっとたぶん、ものすごい顔色だったのだと思う。
「まあ! ご気分が?」
糸は腰を浮かせ、こちらに手を伸ばそうとした。
反応したのは二木だ。カチリと音をたてて脇に置いていた刀を握る。
弥太郎は笑顔を顔に張り付けたまま、微動だにしなかった。微動だにしないというのは、瞬きもしないという事だ。
糸は二人の微妙な反応に即座に気づき、さっと手を下げ頭を低くした。
「も、申し訳ございませぬ」
いやいや、うちの二木が悪いね。いろいろあったから、神経質になっているんだよ。
勝千代は食道を這いあがってきたものを何とか飲み込み、力なく手を振った。
「……そなたら兄妹の事情については、柴垣から耳にしている。少し気になる事があるので、相手のその……なんといったかな」
「井坂喜佐次郎です」
「……その男に内偵を入れようと思うている」
もちろん横領の件については、話すつもりはない。
糸への信頼云々ではなく、おいそれと口に出してよい話ではないからだ。
卒なく男の名を出してきた二木も侮れない。この部屋に来てから一度として誰もその名を口にしていないのに、何故知っている。
要するに、そういうもめ事が家中で起こっていると、あらかじめ知っていたのだろう。
勝千代はあきれた目で二木を見てから、額を床すれすれの位置まで下げている少女に顔を向けた。
「そこでだ。しばらくの間、そなたを井坂から引き離したい。とはいえ、内偵の事は知られる訳にはいかないのでな……虫よけを用意しようと思う」
糸は低頭の姿勢を崩さず、黙って話を聞いている。
「井坂がおいそれと手を出せない男だ。腕も立つ。わたし……ではおかしいな、父だと後々破談にしにくいしな。……まあ、断りにくい筋から見合いを打診されたとでも言うが良い」
「おそれながら、おたずねしてもよろしいでしょうか」
「無論かまわないとも。内偵の事情以外の事ならば」
糸は顔も上げぬまま、必死の口調で言葉を絞り出した。
「兄が、ご無礼なお願いをしたのではありませぬか?」
それに対して勝千代が否定するより先に、二木が「ふん」と鼻を鳴らした。
「うぬは栄三郎ごときボンクラが若君を動かせるとでも思うておるのか」
「二木」
勝千代は、ものすごく苦くて酸っぱい自分の息に辟易しながら溜息をついた。
「あとで仕事をやるから、黙ってなさい」
「仕事はいりません」
「むしろ、てんこもりにしてやろうか?」
蛇男にこれ以上邪魔をされてはかなわない。
余計な口を挟むなら、思いつく限りの面倒な案件を振ってやる、と目で語り掛けると、二木はようやくむっつりと唇を引き結んだ。
「仮の見合い相手だから、誰でもよかったのだけど、南はどうかな。南八兵衛だ」
「南様」
「昨晩部屋まで送らせた男だよ。もし嫌なら、他にも何人か紹介できるけど」
たとえば糸に想う相手がいるとかで、どうしても南は嫌だというようなことになっては双方気まずいだろうから、今はまだただの打診である。
「ほかの候補も聞く? たとえば……二木、お前はどうだ」
二木は律儀に口を閉ざしたままでいたが、思いっきり嫌そうな顔をしやがった。
何が不服だ蛇男。お糸ちゃんはこんなに別嬪さんなのに!
「南様に不満などございませぬ」
今の素早い言い回しは本心からか、勝千代におもねっているのか、判断に難しいところだ。
十代半ばほどの若い少女が、戦場を転戦して歩く武骨者の南に似合うかと問われると、首を傾げざるを得ない。
だが、破談前提の見合い相手だしね。
「そのように気負わず、気楽に考えると良い。今は井坂に付きまとわれて困っているのだろう? 都合のいい虫よけだとでも思え」
かなり頼りになる虫よけだ。
「とんでもない! わたくしにはもったいないお話にございます」
糸は、勝千代の目には本心から言っているようにしか見えない表情で、かわいらしく片笑窪を見せて礼を言った。
「是非このお話を進めてください」
ん? 仮の見合い相手だと言ったよね?
なんだか今の彼女の言い方だと、本気の縁談みたいになってるけど。
「……じゃあ、南にも伝えておくよ」
「よろしくお願いします」
この時代、見合いというのは即結婚に結びついたものだ。
結婚するまでお互いの顔すら知らない事も珍しくはなく、親や上司や親せきのつながりで縁づくのが当たり前の時代だ。
いくら勝千代が仮だと言っても、主君の嫡男からのトップダウンの命令のように受け止めたのかもしれない。
もう一度、「断っても構わない」と言おうとしたが、糸の表情がやけにキラキラしていて、しかも頬がほんのり赤らんだりなんかしちゃってて……これはもしかして、もしかするのではないか。
ぼんやりと、そんな夢みたいなことを考えてしまった。
いや、ないな。……ないよな?




