3-1 謀略
「勝千代どの!」
十日ほど寝込んで、ようやく床上げの赦しが出たころ、やたらと大きな声の客が来た。
以前はあんなにも恐ろしかった三白眼を、にこにこと笑みの形にほころばせ、大声で勝千代を呼ぶのは岡部二郎だ。
「御台さまより預かって参りました!」
差し出されたのは、薄い上物の紙につつまれた書簡。
また……? と内心思ったが、口にはしなかった。
「お身の回りの道具類も、色々と持ってまいりましたぞ! もうご不自由は掛けません」
今回も、岡部は大所帯で山を登ってきていた。
違うのは、武装しているものの殺伐とはしておらず、荷馬に引かせた台車がいくつもあることだ。
武士たちが無頓着に荷物を庄屋に運び入れ、どんどんと長持ちを積み上げていく。
中身は千代丸が着ていたような上等の着物類や、塗り物の茶碗や箸。脇息や衝立まである。
中の人的には平安時代風にも見える、高級そうな品々ばかりだ。
どうだ!と、こちらが喜ぶと信じ切った表情の岡部に、勝千代は如才なく微笑む。
多少引きつっていたかもしれないが、気づかれてはいないと思う。
……察してほしいが、無理だろうな。
村人たちが遠巻きにこちらを見ている。
その視線があきれたように見えるのは、気のせいではないだろう。
どこぞの嫁入りでもあるまいし、豪華な道具類など不要だった。
庄屋はそれほど広くはないので、荷物の置き場に困るからだ。
はっきり言って迷惑としか思えなかったが、それを悟らせるわけにはいかない。
おそらくは大身の正室なのだろう「御台さま」にとって、このぐらいは賄賂でも施しでもないのかもしれないが、純粋な好意だと言い切れるほど相手のことを知らないのだ。
故に今回も、勝千代ができるのは、渡された書簡を読み返礼を書くことだけだった。
「前回の書簡に、ずいぶんと感心なさっておられましたよ。本当に勝千代殿か書いたのかと、何度も聞かれ申した!」
普段この家はとても静かなのだが、岡部は声も大きければ足音も大きい。慣れないその大声はわんわんと頭蓋に響き、眩暈がしそうだ。
昔の武士は、声が大きいことが必須だったと聞いた事がある。戦場では必要なスキルかもしれないが、自分には無理だと中の人は思った。
「そういえば、書き物の道具もどこかに……」
早速返書を書くので、少し下がらせてもらうと言うと、岡部は思い出したように顎を撫でた。
「透かしの入った京物の紙がどうとか、筆がどうとか。祐筆用の硯ではなく、御台さまがいつか使おうと誂えていたものを」
「どの長持ちか」
食い気味に尋ねると、岡部は楽しそうに笑った。
「少々お待ちを」
小さめの長持ちをいくつか開けて、そのうちのひとつに目的のものが入っていた。
初めて見せた勝千代の子供らしい様子に、岡部だけではなく弥太郎もまた嬉しそうに目を細めている。
段蔵にその長持ちを持ってもらい、いそいそと下がる勝千代の背中を、村の大人たちはいくらかほっとしたように見ていた。
勝千代はそれに気づいてたが、知らぬふりをした。
この村の人々は、ヨネを失いふさぎ込む彼を、ただ黙って見守ってくれた。
少しでも浮上したところを見せて、安心してもらいたい。
「若君」
段蔵の声に含まれる雰囲気に、訳もなく心臓の鼓動が増すのを感じた。
「ひとつだけ、よろしいでしょうか」
うきうきと上等な墨を磨っていた勝千代は、常に低いその声の、常ならぬ不穏さを感じ取って手を止めた。
「言質を取られるようなことは、避けるのが肝要かと存じます」
御台さまとは、それほど気を付けなければならない相手なのか?
ゆっくりと息を吐き、舞い上がっていた気持ちを落ち着かせる。
最初の書簡には、兄が死んだ事と、双子の弟である勝千代に会いたいという事が、切実な調子で書かれていた。
しばらく思いを巡らせ、ふと過った嫌な予感に顔をしかめる。
「……兄上はなぜ亡くなられた?」
書簡には病死とあった。こんな時代だから、子供の死亡率も高いだろうし、ないとは言えない。しかし……
「梅雨に入るころ、ひどい風邪を召されて臥せっておられるとは聞きました。もともと身体が丈夫ではないと」
勝千代はそっと墨を置いた。
そして、斜め後ろに控える段蔵の方に、身体ごと向き直る。
「まさか……」
殺されたのか? と直接的な質問をすることはできなかった。
段蔵は静かに首を左右に振り、しばらく言葉を探すように黙り込む。
はっきりしないその態度が、何より明瞭に不穏さを告げていた。
「知っていることを申せ」
「あくまでも噂の話だとお知りおきください」
段蔵はそう前置いて、話し始めた。
御台さま……つまりご正室は、嫡男含め男子二人を生んでいる。
側室にも男子がおり、その子は教育係の僧侶が感心するほどに、とても利発で優秀な子だという。
大きな家であれば、何人もの奥方がいるのは普通だが、彼女たちが穏便な関係でいるかといえば、多くは否だ。
ありがちなことだが、御台さまと側室との間は険悪で、前々から勝千代の兄を挟んで揉めていたのだという。
勝千代の兄は御台さまに可愛がられてはいたが実子ではない。側室の優秀なお子と同い年だというのも、比べられる要因だった。
御台さまが兄をかばえばかばうほど、嫌がらせのひどさは増し、挙句の果てには毒を盛ったのではないか。そう囁かれているのだ。
「そのご側室とは……どのような方だ?」
「いろいろと良くない噂の多い方です。若君に彦五郎の名をねだり、御台さまのご不興を買ったというのは有名な話です」
その名前には覚えがあった。御台さまの書簡で、兄は「彦」と呼ばれていた。側室がねだるほど意味のある一文字を、養い子につけたというのだろうか。
不意に、ぞわりと背筋に悪寒が走った。
まさかとは思う。
兄は身代わりの羊……スケープゴートだったのもしれない。
御台様は実子に危害を加えられる前に、わざとつつきやすそうな獲物を敵の前に置いた……可能性が全くないとは言えない。
実にいやな気分だった。
美しい紙や書道具を前に浮き立っていた気持ちが、あっという間に萎んでいく。
現代の日本でも、きれいごとだけで社会が動いていたわけではない。
いじめや犯罪事件は多発していたし、世界のどこかでは戦争が起こっていた。
しかし、こんな風に子供が矢面に立ち、それを口実に争いが起こるなどあり得なかった。
戦国時代では、血肉を分けた親兄弟が殺しあう事も珍しくなかったという。
それを遠い過去の出来事として聞くのと、実兄がその只中にいたと聞くのとでは、まったく意味合いが違った。
勝千代は黙って硯に向きなおった。
磨った墨を真新しい筆に含ませ、丁寧に余分を落とす。
真実はわからない。
噂通りご側室が毒を盛ったのかもしれないし、御台さまがわざとそんな立場に兄を置いたのかもしれないし、本当にただ病気で亡くなっただけなのかもしれない。
知りたい気持ちはあったが、下手に動くと、兄だけではなく勝千代の身にも危険が及ぶだろう。
返書には無難に、道具類を贈ってくれたことへの礼を書くだけにする。
それから、体調がすぐれないことを強調して、会うのはやはり避けたほうが良い。
「ご側室のお名前はお江与さま。松原殿とも呼ばれておられます」
筆の先を整え、現代の審美眼的にも美しいと感じる紙に手を添える。
書き出しはまず時候の挨拶から……と、筆を手に真剣になっていたので、段蔵の言葉がためらうように途切れたことに気づかなかった。
「松原殿は……福島兵庫介助春殿、叔父君のご息女です」
ぽたり、と白い紙に墨が落ちた。