19-5
勝千代とその側付きの登場に、ふくよかな男はぎょっとした表情になった。
少女の方は酷く怯えた様子で、飛びのくようにして男から距離を取り、回廊の隅の方に両膝をつく。
「厠の帰りだ、気にするな」
勝千代は誰にともなくそう言って、二人との距離を詰めた。
「ほら間違いないぞ、絶対にこっちだ」
「違います」
無邪気を装い正面を指さすと、南が控えめな口調で答える。
正直者のこの男は、ちょっとした小芝居をするのも苦手なのだ。
「まっすぐ歩いてきたのだから、まっすぐ戻ればいいだけじゃないか」
すいませんね、息をするように装える質で。
勝千代は、近くまで来て初めて気づいた風に男を見上げ、次いで少女を見下ろした。
あからさまなその視線に、男がじりじりと後ずさる。
「このような時刻に奇遇だな、そなたらも厠か?」
「……はっ、はい」
「寒い故に早く戻る事だ」
勝千代は、大慌てで逃げていくふくよかな男が、懐に何か紙のようなものをねじ込むのを見たが、咎めたてはしなかった。
「灯明皿を持ってあんな風に歩いて、危なくないのか?」
「危ないですね」
専用の道具のようなもので火だねを持ち運ぶ女中は見たことがあるが、あの男は直接小さな皿を二枚重ねたものを手のひらに乗せていたのだ。
「屋敷が火事になりそうだ」
「殿に叱られるでしょうね」
叱られるだけではすむまい。下手をしたら家族まで連座で物理的に首が飛ぶ。
今川館に火をつけたくせに、と呆れた目で見られたが、知らないよ。
四歳の子供がそんな事するわけないじゃないか。
ちなみに今川館の火事は、けっこう甚大な被害が出たようだ。
想定していたより広範囲に燃え広がり、人工池の向かい側の建物は全焼してしまったそうだ。
……お子様には関係ない事だけど。
「娘、そなたも早う戻れ。風邪をひく」
勝千代は、両手両膝をついて丸くなっている少女に目を向けた。
「ところで、萩の間はあちらだよね?」
「違います」
「そのほうには聞いておらぬ」
子供らしく拗ねた口調でそう言い、口を尖らせると、少女はおずおずといった風に顔を上げた。
「……ひとつ前の渡り回廊を右に御座います」
「ほら、女中殿もそう言っているじゃないですか」
「ええー、本当に?」
幾分青ざめていた少女の顔に、小さく笑みが昇る。
片頬に笑窪がある可愛らしい顔立ちをしていて、現代で言う中学生ぐらいの年齢だろうか。まだ子供っぽさを残しているが、数年後にはかなりの美人になるだろう。
「南、その者を部屋まで送ってやるが良い」
「とんでもございません!」
少女は慌てて首を振り、再び顔を伏せてしまう。
「だが先ほどは絡まれていただろう?」
びくりと揺れた背中を見下ろして、勝千代は南に頷きかけた。
「こちらは段蔵がいるから大丈夫だ。ではな」
少々強引に話を切り、踵を返す。
しばらく無言で歩き、渡り廊下を過ぎて、娘が言っていた通り右に曲がって……ようやく重い口を開いた。
「あれは夜這いか? 恐喝か?」
いくら年齢に開きがあろうとも、自由恋愛であれば口を挟む気はない。だが少女は明らかに嫌がっていたのに、このような人気のない場所で男と会っていたのだ。
それに、懐に隠された書付けのようなものも気になる。
恋文とかそういう類のものであれば、頑張れよと生温かい目で見守ることもできるのだが……。
「調べますか?」
一人で歩いている気がするほどに気配も足音もない段蔵が、真後ろから問う。
勝千代は「ふう」と息を吐き、首を振った。
ただでさえ段蔵たちはオーバーワークだ。これ以上の仕事は酷だろう。
「南がそれとなく聞くだろう」
南の感触次第だな。本当に調べる必要があるなら、何がしかの情報を持って帰ってくるはず。
実はもう一つ気になる事があって、そちらの方が優先順位が高い。
段蔵はもちろん気づいているだろうが、揉めている2人を遠くから見ている男がいたのだ。
勝千代が近づくとさっと姿を隠したが、丁度進行方向にいたのでその姿ははっきり見えていた。
冷やかしの覗きといった感じではなく、まるで監視しているかのような雰囲気だった。
しかも、見たことがある顔だ。
昼間謝罪に訪れたお葉殿の側にいた男……正確には、幸松の側付きだと思う。
「……どう思う?」
「早田様が監視していたのは、男のほうです」
逃げるように去っていったふくよかな男を、気づかれないよう追いかけて行ったそうだ。
勝千代は段蔵の答えを吟味しながら、更に歩を進める。
やがて見知った景色になって、福島屋敷のもっとも奥まった建物に帰り着く。
「色々とややこしいことになっているな」
お葉殿はおそらくそう悪い人ではないと思うのだが、一度会っただけだし、敵味方の色をはっきりつける前にもう少し様子を見たい。
その周囲の者の事は、余計に判断が難しい。
ひとつだけはっきりしているのは、怪しげな動きが幸松の周辺にまで及ぼうとしているという事だ。
弟の身の安全は何よりも優先したい。
やがて右手に美しく整備された中庭園が現れ、元いた部屋が見えてくる。
この屋敷でも最も美しく、もっとも広い庭園に面した、もしかすると父の居室よりいい部屋かもしれない。
何しろ南向きで、冷たい風も吹きこまず、最高に庭の眺めも良いのだ。
庭の池では鯉と亀を飼っているのだと幸松から聞いた。ちなみに、彦丸兄が滞在中にしか足を踏み入れることは許されていなかったそうだ。
部屋に戻り、段蔵が開けた襖から中に入ると、ほのかに空気が暖かかった。
火鉢は室温を上げるには火力が弱いのだが、それでもないよりはましだ。
それほど長く待たず、南が戻って来た。
かなり難しい表情をしていた。




