19-1
目を開けると、見知らぬ天井があった。
ここがどこだと考えるより先に、嗅ぎなれた薬草の匂いに弥太郎が側にいる事を察した。
苦い薬湯は嫌だな……などと考えながら視線を巡らせると、びっくりするほどのニコニコ顔の弥太郎が枕元に座っていた。
「お目覚めですか」
なんだか副音声で、「いい度胸だな糞ガキ」と言われたような気がした。
きっと気のせいだな、うん。
起き上がろうとすると、制された。
体調はそれほど悪い気がしないので、不服の表情で弥太郎を見ると、またも満面の笑顔。
「……怒ってる?」
身構えながらそう問いかけると、「まさか、とんでもございません」と被せるように答えられる。
「薬湯をご用意いたしますので、残さず全部お飲みくださいね」
吸い口で流し込まれた薬湯は、ありえないほど苦かった。
やっぱり怒ってるじゃないか!
周囲は明るかった。
しかも総畳張りの部屋だった。
襖は開け放たれ、外光が差し込む二方向にはすだれ。それでも室内はさほど冷え込んではいない。すだれに外気を遮り室温を保つ効果があるとは思えないのだが。
「お目覚めになられたら、殿をお呼びするようにと申し使っております。お身体の方はいかがでしょうか」
こめかみに血管浮かせて無理にやさし気に喋らないでください。怖い。
「……うん」
ここは頭が痛いとか喉が痛いとか言うべきか? それとも、不調はないと言うべきか?
「どこか痛む所が?」
無意識のうちに、あて布をされた喉をさすっていると、急に心配そうな顔をされた。把握できていないところに異常があるのかと心配したのだろう。
「少しヒリヒリするだけだよ」
「もう一度傷口をきれいにしておきましょう。膿んではいけません」
慌ててたいしたことはないと手を振って見せると、なおのこと表情が厳しくなる。
「傷そのものは浅かったのですが、神経毒を抜くために少し傷口を広げました。予断はできません」
やはり毒があったのか。
そういえば、あの刀で切られた志郎衛門叔父はどうなったのだろう。
「叔父上は?」
「兵庫介さまですか?」
「いや……」
「わたしならここに」
不意に、すだれの向こうから声がした。志郎衛門叔父の声だ。
すだれを押し上げ入ってきた彼は、片方の手を三角巾で吊っている以外は、顔色も悪くはなく元気そうだ。
「薬師殿の薬湯はよく効きます」
めちゃくちゃ苦いけどね。
「そろそろ今川館に戻らなければならない。予備の薬をもらいに来たのだが……」
「ご用意できていますよ」
弥太郎がごそごそと薬箱を開けている間に、叔父は勝千代の枕元に座り、身体を横たえたままの勝千代に几帳面に頭を下げた。
「申し訳ありません。怪我をさせるつもりはなかったのですが」
「やめてください。叔父上が切り付けたわけではないでしょう」
「だが予測はしていました。広間に刺客が潜り込んでいるとは思わず、油断しました」
まさか御屋形様や重臣方の目前で実行に移すとは思っていなかったのだろう。
勝千代は苦笑しながら頷き、叔父の手を借りて身体を起こした。
「体調は?」
「薬湯の苦さにやられそうになっていただけです」
「良薬は口に苦いものです」
いや、お子様の口には厳しいものがある。
渋い顔をした勝千代を見下ろして、叔父がうっすらと微笑んだ。
相変わらずの眉間の皺だし、笑ったのかどうかも微妙なところだが、表情が緩んだのは確かだ。
「あとで口直しの干菓子でも届けさせます。……それから」
叔父はすだれの向こうにちらりと視線を向けて、若干長めにため息をついた。
「入ってきなさい」
しばらくして、すだれの向こうに小さな人影が動いた。
ひょっこりと覗いたのは……
「おじうえ」
勝千代とそれほど年まわりの変わらない、しかし頭ひとつ分は大柄な童だった。
その子は勝千代をおずおずと見て、視線が合った瞬間に目を真ん丸に見開いたかと思うと、そのつぶらな目にみるみる間に涙が浮いた。
「彦丸さま」
「違う、勝千代殿だ」
その子の顔立ちを見るだけで、ここが福島屋敷と呼ばれる父の駿府での拠点だと察した。そしてウルウルの目でこちらを見ているのは、勝千代の異母兄か異母弟だろう。
ひと目でそうと察しが付くぐらいには、その子は父によく似た面差しをしていた。
父には今現在正室はいないはずだ。つまりこの子も庶子のひとりだろう。だが、これほど体格に恵まれ、父に似た雰囲気を持っていれば、知恵遅れとも噂されていた勝千代が家来衆からよく思われていなかったのもうなずける。
「幸松です」
志郎衛門叔父よ、いくら面倒でも名前だけ紹介するのはちょっと端折りすぎではないか? それでは兄なのか弟なのかわからない。
体格はみるからに負けているが、年は同じぐらいか少し下に感じる。
「幸松殿か」
勝千代は敷居の所でまごついている幸松に向かって、にこりと微笑みかけた。
「こちらへおいで」
手招くと、すがりつくような眼で見つめられ、やがて「わっ」と声を出して泣かれた。
「彦丸さまだ、彦丸さま……」
あの父ありてこの子あり。めちゃくちゃ声が大きい。
びええええん! と声を張り上げて泣き始めた童の声を聞きつけて、廊下をばたばたと走ってくる足音。
「お勝うぅぅぅぅっ!」
父の大音声が遠くから次第に近くになってくる。それはまるで、交差点に突っ込む救急車のサイレンのように、微妙に音が歪んで聞こえた。
やがて敷居の縁に届くほど大きな影が走ってきて、がしゃり、とすだれが乱暴に斜めに垂れた。鴨居から外れたようだ。
「お、お、お勝ぅ」
父は半身を起こしている勝千代を見て、よろよろと部屋に入ってきた。
「お勝!」
「そこまでです兄上。勝千代殿は病み上がりです。乱暴な扱いはしないでください」
突進してきそうになった父に向かって、短時間で状況を把握した叔父が冷静に言う。
父は勝千代の枕元までおぼつかない足取りでやってきて、まじまじと勝千代を見下ろし、やおらぶわっと涙をあふれさせた。
ボロボロと涙をこぼす父。
びええええん! と声を限りに号泣する異母弟。
……収拾がつかない気がしてきたぞ。
勝千代は頼みの綱の叔父をすがるように見上げたが、しれっと視線を逸らされた。




