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某探偵氏だって、子供の姿のときは子供の口調で喋っている。
父の命が掛かっているからと、安易にペラペラと喋りすぎた。
四歳児が大人顔負けの言葉遣い、正確な所作をしてみせても、違和感しかないだろう。
特に、比較対象である龍王丸君が目の前にいるのだ、家臣の目にどう映るか考えると……御台さまが警戒するのもよくわかる。
嫡男より賢しく見える弟など、厄介ごとの種にしかならない。
それにおそらく、諸々の出来事は御屋形様の謀り事だ。
本意がどこにあるかまではわからないが、根底にあるのは、ご自身の健康不安だと思う。
今の段階で御屋形様に万一の事があれば、今川家は荒れると踏んだのだ。
そして、福島家の力を削ごうとした。
確かに、同じ一族に三人もの御屋形様の御子がいること自体、パワーバランスが悪すぎる。
兵庫介叔父は体のいい標的だったろう。
事がうまく運べば、時丸殿の勢力は抑え込まれ、龍王丸殿の立場はより強化されていたと思う。
どの段階で御屋形様の御意向が働き始めたのかはわからない。
それが、兄彦丸が死ぬ前からだとすれば、ちょっとどころではなく腹立たしいのだが。
武人としての父の能力は残したかった。
福島一族の勢力は削ぎたかった。
意図するところはわかる。勝千代とて、兵庫介叔父のようなタイプは可及的速やかにお引き取り願いたい。
だがしかし、御屋形様がご自身の子のうちのひとりを、その目的のためのスケープゴートにしたのだとすれば……
真っ先に考えたのは、父のことだった。
勝千代にあそこまでの子煩悩ぶりを見せる父が、このことに気づいたらどう思うだろう。
今川家の忠臣として勤めてきたこれまでを、全否定されるようなものだ。叛意をあらわにしてもおかしくない。
……ああそうか、だからこその地下牢か。
ぼたぼたぼた……
下げていた頭に、熱めの湯が滴った。
白湯を掛けられたのだと気づいたが、動かなかった。
「ああ、すまんのう……手が滑ってしもうた」
ついた手の先にあるのは、白地に金糸の豪華な打掛。
先程の鬱憤を晴らしたかったのだろうが、浅慮なことだ。
勝千代が無反応なことが面白くなかったらしく、ついでとばかりに茶碗を投げつけられ、ゴツリと音を立てて額に当たった。
「御台」
どこまでもこういう星の下に生まれついているのだな。
そんな事を考えながら、なおもじっと動かずにいると、上座から子供をいさめる口調で御屋形様が口を開いた。
「勝千代は龍王丸の弟だ。そのように無下に扱うものではない」
「あの恐ろし猪武者の子やとききました」
「そうだな、彦丸の双子の弟だ」
「どうりで……」
ふふふふ……と御台さまが笑う。
ものすごく悪女っぽい笑い方だ。
そりゃあね、夫の側室の子だから、気持ちよく付き合える相手ではないことは確かだ。
だがそれは、複数の妻を抱えることが当たり前のこの時代、正室として奥をきちんと差配できないという露呈でもある。
わかっているのだろうか。
勝千代の父を猪武者とあげつらうのは、同じ駿河の武士たちの気持ちを逆なでする行為だ。
自身の息子よりも幼い、あどけない童を虐げる様は、その悪感情をますます増長させるだろう。
「申し上げます」
「ほんに礼儀のなってない子やなぁ」
勝千代が声を上げると、即座に御台さまのお小言。
「このような有様で御前に侍るのは申し訳ございません。下がらせていただいてもかまいませんでしょうか」
「そのような見苦しい顔はこちらもみとうないわ」
「御屋形様」
そう言いながらゆっくり顔を上げると、御台さまがひゅっと息を飲み、御屋形様と桃源院様は顔をしかめる。
出血していることは分かっていた。
出来ればもっと、噴き出すほどあふれてくれたら、デモンストレーションとして見栄えがするのだが。
床にぽたりと滴った程度なので、精々頬に伝っているぐらいだろう。
「御疑いが晴れたようですので、父を引き取っても?」
先程ははぐらかされたが、しっかり言質はとらせてもらう。
これだけの重臣の面前での言葉を、なかったことにはできないはずだ。
「……いいだろう」
にこり、と勝千代が笑みをこぼす。
「申し上げます!」
ドタドタというよりも、ドドドドという足音がして、廊下を何者かが走ってきた。
気のせいでなければ土足。しかも鎧武者姿だ。
「武田が国境を割って進軍してきているとの事です!」
「なんだと!」
広間の武士たちが一斉に腰を浮かせた。
ざわめくその最中、勝千代はこちらを見ている御屋形様の目をまっすぐに見返した。
さあどうする? と言外に問う。
今川の兵は強壮だが、今の季節は冬。たいていの農民は出稼ぎに出ていたりするので、すぐに招集をかけることは難しい。
動かせるのは、国境を警備している常備兵。あるいは、演習で集めている朝比奈軍か福島軍。
朝比奈以外は、どちらも父が総大将だ。
自らが地下牢に入れた男に、武田を追い返せと命じるのか?
御屋形様は、この急使が偽情報を運んできたという可能性も、もちろん考えるだろう。
だがこの場でそれを告げるのは無意味だ。
確証もなくそんな事を言い出せば、それこそ国を守る能力に欠けると思われかねない。
そもそもこの時代、誤報は多かったと思う。情報の精度が低すぎるのだ。
故に、どれが正しい情報か判断することも大切だが、何が起ころうと備えることも重要だ。
つまり、武田軍侵攻の一報に何らかの対処をしなくてはならない。
あ、ちなみにこれは、勝千代側が仕込んだ偽情報だ。
あとから足元をすくわれないよう、調べても誤報か否かわからないよう細工はしてある。
ざわめく重臣らを尻目に、勝千代は一礼して立ち上がる。
たいていの大人の腰の高さほどの背丈しかないので、少し歩を下げただけで紛れてしまえる。
大人たちが右往左往している間に、広間の半分ほどまで退散した。
なんだか疲れたな、と思った瞬間、正面から伸びてきた手にひょいと抱えられた。
志郎衛門叔父だ。
この人が敵側だとは思いたくないが、父も兵庫介叔父もこの人にとっては等しく兄弟だ。
福島家を守るため、御屋形様への忠義のため、総合的に考えて、父や彦丸兄を切り捨てようとしてもおかしくはない。
ふと、目線の先に銀色の刃物のきらめきが映った。
幼児である勝千代には刺客の刃をかわす技能などないし、そもそも小脇にかかえられた状態では避けようもない。
ああ、死ぬのかな。
アスファルトにはじかれる雨の音。タイヤのゴムが焦げた匂い。咥内にあふれた生臭い血。
よみがえってきたそれらの記憶が、走馬灯のように脳裏によぎる。
近づいてくる刃物が、やけにゆっくりと迫ってくる。
確実に、勝千代の首の急所を狙っている。
「江坂さま!」
興津の声に、志郎衛門叔父が反応した。
勝千代が覚えているのはそこまでだ。
意識が沈むその時まで、痛みはまったく感じなかった。




