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室内は清潔に保たれている。
この時代、湿度のことを気にする医者はまだいないと思うが、定期的に運ばれてくる湯が長火鉢のそばに置かれ、縁には湿らせた手ぬぐいが何枚かかけられている。
湿度のおかげで室温が上がっても、人が出入りするたびに外の冷気が入って来る。気密性の低い部屋で、温度を保つのは難しいのだ。
板間に敷かれた寝具には、やせ細った小さな老女が横たわっていた。
髪は真っ白、しわとシミだらけの顔は骸骨のようだ。
「……ヨネ」
眠っている彼女を起こす気はない。
しかし、生きているのか不安を感じるほどに、その顔に生気はない。
そっと呼び掛けて、やつれた頬に手を伸ばす。触れる前に、かろうじて胸が上下しているのに気づき、結局その手は膝の上に戻した。
ヨネが何歳なのかわからないが、かなりの高齢なのは確かだ。
特に彼女には前歯と舌がなく、食事の面でも常人並みとはいかない。
いったん体調を崩してしまえば、回復が難しくなるのは仕方がなかった。
肌で感じ取れるほどに、死の気配が近い。
そしてそれは、勝千代にはどうしようもないものだった。
中の人に未来の知識があっても、医者ではない。薬もない。そもそもどんな病気で、どういう治療が必要かすらわからない。
勝千代はじっと病床の老婆を見つめてから、向かいに座る弥太郎にすがるような目を向けた。
弥太郎は少し眉尻を下げ、困ったように微笑む。
この厳しい時代の中で、長く生きたほうなのだろう。
特に晩年は、勝千代の事で大変な苦労をさせてしまった。
申し訳なさに鼻の奥がツンとする。
「……あとどれぐらい?」
「夜は越せないでしょう」
「……っ」
言いかけた言葉を飲み込む。
弥太郎を責めても仕方がないことはわかっている。
実際彼はよくやってくれた。縁もゆかりもない、しかもひと目で下人か端とわかる老婆を、親身になって世話してくれた。
起き上がれなくなった彼女に食事をとらせ、身体を清潔に保ち、排せつなどの面倒も見る必要があっただろう。
「そうか」
勝千代は、静かにそう言った。
それだけしか言えなかった。
渡された深皿には少量の水。
水を含ませた小さな布が添えてある。
まだヨネは死んでいない。しかし、それは末期の水だ。
促され、ささくれだった唇を湿らせる。
手が震えた。
鼻の奥も目の奥も痛んだが、涙は出なかった。
そしてその薄い瞼は二度と開くことなく、夜が白み始めるころ、彼女は静かに黄泉平坂を下って行った。
勝千代は無言で板間に正座したまま、細い息が途絶える最期の瞬間まで見守った。
冷えた体が熱っぽく、体調が悪いのは自覚していたが、頑としてその場を離れなかった。
それが、彼にできる唯一の恩返しで、唯一の孝行だった。
「ヨネからこれを預かっております」
もはや目を開くことのない彼女の顔をじっとみていると、ずっと背後に控えていた段蔵が黄ばんだ紙で包まれた書簡を差し出してきた。
それは、ヨネからの初めての、そして最後の手紙だった。
そもそも利き手の指が半分以上かけている彼女に、字が書けるはずはない。
読むまでは代筆を頼んだのだろうと思っていたが、半ばまで目を通すころには違うとわかった。
かつて彼女は、とある御家に仕える武家の妻女だったそうだ。
戦で主家を失い、夫は戦死、子供とも生き別れになった。
乳飲み子を失ったヨネには、母のいない勝千代が自身の子のように思えたと書いてあった。
時折文字が歪み、滲みも多いが、欠けた指で一生懸命書いたのだろう、丁寧な書体であり文面だった。
「若君に文字をお教えになったのはこの方なのですね」
弥太郎がしみじみとつぶやいた。
勝千代は否定することなく、最後まで読み進める。
そこには下級武士の妻女と書かれていたが、違うだろう。
仮名だけではなく、漢字も混じった書体は、男性並みの教養がなければ書けないものだ。
そういえば、ヨネの愛用の小太刀は、彼女の見た目に似つかわしくないしっかりとした造りをしていた。
いいところの武士の妻だったのに、晩年は厳しい端の暮らしを強いられていたのか。
戦国の世とは無情なものだ。
体力のない勝千代は、その後の埋葬を見届けることができず、しばらく寝込んでしまった。
途中、歯がないはずのヨネが、笑顔でおにぎりを頬張る夢を見た。
黄泉の国で、彼女は腹いっぱい食べているだろうか。死別した夫と、再会できただろうか。生き別れたという子供とともに、親子で仲良く暮らせていると良い。
「坊」
何日か後の夕暮れ、一仕事を終えた与平が見舞いに来てくれた。
遠慮するなと言っても、汚れているからと言って部屋には上がらない。
彼が持ってきてくれたのは、きれいに洗われた小芋だった。一つ二つではない、十個以上ある。
あの日、中途半端に終わった芋ほりの戦利品だろう。
これを食べて欲しかったヨネは、もうこの世にいない。彼女のことを思い出すと、喪失感と寂しさで胸がつぶれそうになる。
与平は離れた位置から勝千代の顔をじっと見て、何かを納得したように頷いた。
「床上げしたら墓に参ろうな」
「……うん」
今の時代、人の命は軽い。
たかが世話役の端ひとり。死んだところで気にする必要はないと言われてもおかしくなかったが、誰もそんなことは口にしなかった。
命が軽く扱われる世界だからこそ、身内を失う悲しみを知っているのだろう。
手を振って帰っていく少年の後ろ姿を見送る。
そう遠くない未来、忍びとして生きてくのだろう彼が、ひどい怪我をしたりつらい境遇に遭わないと良い。
代々それで食いつないできたのだろう彼らに、忍び働きはやめろなどという権利はない。
ただ友人として、若い彼の行く末に幸あれと願うだけだった。