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冬嵐記  作者: 槐
第一章
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1-1 山城

 ぶちっと頭皮から髪の毛が引きちぎられる痛みに、「何て非道なことを!!」と怒りを覚えたのがそもそもの始まりだった。

 そのまま硬い地面に突き飛ばされた事よりも、折り悪くそこにあった石で額を切った事よりも、生え際がひりつくほどの量の髪を一度で奪われたことの方が重大だった。


 何という事をしてくれるのだ!!

 男の髪は、たとえ一本たりとも粗末に扱っていいものではない。貴重品も貴重品、たった一本を死守するためにどれほどの努力を……


「見よ、間抜け面よ!!」

 どっと笑う声が、怒りで震えていた彼に例えようのない違和感をもたらした。

 高い位置に立つ何者かが、大きく影になったものを振りかぶるのがわかり、本能的に頭を庇って丸くなる。

「……っ!!」

 熱湯を掛けられたのだと察したのは、腕の皮膚が熱く焼けてからだ。

 慌てて地面に転がりもがくその様子に、周囲からまたけたたましい笑い声が上がる。

「これ、千代丸。目立つところに跡をつけてはなりませんよ」

「はい、母上。ですが、父上が帰参されるまでまだ二月はあります」

「そうですねぇ」

「あっ! 土産でいただいた脇差の試し切りをしてみたいと思っていたのです」

 状況は全く分からなかったが、その場に居続けるのが危険だということは理解できた。

「逃げるな! おい、押さえつけろ」

「若、刀傷は少々まずい」

 大声でガハハと笑っていた男が、嫌な雰囲気でそう言いながら近づいてきた。逃げ出そうにも、両腕を掴まれているので身動きすることが出来ず、屈強な大人の男が脚を振り上げるのを、ただ目を見開いて見ているしかなかった。

 ぶっつりと意識がそこで途切れ、底知れぬ暗闇に意識が沈んだ。



 熱い息を吐くのも苦しく、細切れに息を吸うのも苦痛だった。

 朦朧とした意識が浮上したのは、昏倒が苦痛を紛らわす安寧とは言えなかったからだ。

 目を開けた彼は、真っ暗闇の只中に転がされていた。

 そこが布団の中だと認識できなかったのは、彼が知るいわゆるマットレスという背骨に優しいものではなく、寒々しい板間に薄い煎餅布団が一枚、隙間風を遮るものもない室内の真ん中にぽつんと置かれていただけだからだ。

 最悪ろっ骨が折れたのだろうということは、過去の経験から推測できた。あの体格のいい男の蹴りを受けるには、彼はあまりにも小さく貧弱だった。

「……マジか」

 闇に慣れた目が、震える自身の手を見上げる。

 若い頃にはそれなりにスポーツをこなし、そこそこに骨ばって逞しかったはずの腕が、正気を疑うほどに細いのだ。いや、これは細いなどというレベルではない。

「子供じゃねぇか」

 耳に届く声もまた、幼子特有の舌足らずなものだった。

「夢……か?」

 ひゅうひゅうと喉が鳴る。呼吸をするたびにあちこちに激痛が走る。


 夢であるならば、この痛みは何だ。

 頬をつねってみるまでもなく、自身が陥っているのっぴきならない状況を突きつけてくる。

 かなり深刻に精神状態を危ぶんでみるが、真っ暗闇に一人放置されているという現状が変わることはなかった。


 やがて呼吸をするたびに思考は支離滅裂なものになり、挙句にはスーパーに置かれている豆まき用の鬼の面をつけた巨人にふみ潰される幻影を見た。要するに悪夢をみてしまったわけだが、服装がやけに時代がかったものなのに、お面がプラスティックの安物だというのがシュールだ。


 はっはっと荒い己の呼吸音で目が覚めた。

 夜明けが近いのは、暗闇に慣れた目がほんのわずかに拾う明るさでわかる。

 ぴと、と冷たい何かが額に置かれた。

 心臓が飛び出すのではないかと思う程に驚いたが、鋭く息を吸い込む以上のことはできなかった。もちろん直後に激痛に見舞われ、全身に嫌な汗が浮く。

「あ……あ……あ、う」

 こういう時は、可愛い女の子に看病されるというのが定番じゃないだろうか。

 死ぬほど驚いたのは、至近距離に見た事もないほどに醜い老婆の顔があったからだ。言葉が喋れないのか、唸るように何か声を発し、歯の抜けた口をパクパクと開閉している。

「ヨネ」

 そう呼びかけたのは、無意識だった。

 自分で呼びかけておいて、自分でひどく驚いた。

 それが老婆の名前だというのは、彼女がほっとまなじりを緩めた事からわかる。

「し、心配を掛けたね? わたしは大丈夫」

 わたし?! 五十年近く生きてきたが、そうそう使うことのない一人称だ。

 それに、この可愛らしく舌足らずな口調……

 老婆は濡れた布巾で額を冷やしてくれている。しかし、ホラー映画に出てくるような顔が真っ暗闇に浮かび上がるたびに、驚きと恐怖でひゅっと喉が詰まる。

 熱が高いのだろう、布巾はすぐに熱くなり、そのたびにヨネが交換しようと顔を寄せてきた。

 度重なる心臓への負荷に、次第に意識が朦朧としはじめて……

 こんな意味が分からない状況で気を失うわけにはいかない。

 ぐるぐる回る意識を保つべく、ぎゅっと瞼を閉じて耐えた。


 いったい何がどうなっているのだろう。

 この子供は誰だ?

 名前は?

 古い記憶を呼び起こすように、記憶の中をさらってみる。

 そうすると、あるはずのない、覚えのない情景が断片的に頭に浮かんだ。


 お勝と呼ばれた記憶がある。お勝? 女の子か?

 うっすら覚えている父親らしき大男が、「お勝」と呼びながら頭を撫でてくれた。

 嫡男だと言われた。嫡男というと後継ぎの男子のはず。

 大切な頭髪に暴虐の限りを尽くしてくれた悪ガキは……ああ、異母兄か。

 兄なのに嫡男ではない? 

 つらつらと記憶をたどっているうちに、なんとはなしに状況が飲み込めてきた。


 今の彼は子供だ。

 しかも、虐待されている子供。

 父は戦のために城にはほとんどおらず、父の側室である桂殿とその子供たちが幅を利かせている。

 嫡男であるお勝……勝千代のことが目障りでならないのだろう。

 名前は憶えていないが勝千代を蹴りつけてくれた大男は、父の弟。つまりは叔父だ。父が不在の間の城代だが、哀れな甥を守る気はなく、同じ甥でも異母兄側についている。


 戦、側室、嫡男、城、脇差し……

 異母兄千代丸は鮮やかな黄緑色の、ひと目でお偉いさんの子供とわかるような身ぎれいな恰好をしていた。知識はそれほどないが……大河ドラマの戦国時代の服装に近いと思う。

 

 ようやく眩暈が収まり始め、肋骨に負担をかけないように細く長く息を吐きだす。

 タイムスリップ?

 憑依?

 転生?

 ……馬鹿らしい。


 一笑に付したいところだが、息をするたび脂汗が滲むほどの痛みにさいなまれ、現実逃避もままならない。

 ひりひりと肌を焼く火傷も痛むが、石で切れた額の傷も地味に痛かった。

 なにより大問題は……抜けてしまった生え際の髪だ。

 きっとまた生えてくるはず! こんな時なのに、四十路男としての不安がこみあげてくる。

 恐る恐る束で抜かれたところに触れてみて、そこだけ明らかに毛がないことがわかって泣けてきた。


 許すまじ、異母兄。


 目を開ければリアルホラーの登場人物を見てしまうので、ぎゅっと瞼を閉ざしたまま、心の中で復讐を誓った。

 絶対に許さない。あの小生意気なサラサラ総髪を全部むしってやるんだからな!


 そのあともかなりの高熱にうなされていたのだと思う。

 夢の中で彼は四十代後半の既婚者で、結婚していて、高校教師として多忙な日々を過ごしていた。

 子供はいなかった。夫婦ともに望んでいたが、恵まれなかった。

 近所の子を見るたびに胸が苦しく、物悲しい気持ちになったのを覚えている。


 とある雨の夜。

 彼は何故か濡れた道路に仰向けに寝転がっていて、点滅する信号機をじっと見ていた。

 妻と認識している女性が、わんわんと泣きながらしがみついてくる。


 ごめん。うん、ごめんね。

 号泣する妻にただひたすら謝り続けていて。


 目を覚ました時、まともに息すら吸えない激痛の中「ああ……」と涙交じりのため息を吐いた。

 置いてきてしまった妻の名前が思い出せない。

 泣いていた顔も記憶から消えている。


 高校教師だった自分は、あの交差点で事故に遭ったのだ。

 すとんと納得できてしまった。


 であるなら、現状はどういう事だ?

 事故に遭い、意識不明の状態で夢を見ているのか? それとも、転生だとか憑依だとか、荒唐無稽な夢物語が実際に起こっているのか?

 

 もはやどちらが現実で、どちらが夢なのかわからなかった。

 ただ、日にち薬ではなかなか解決しない痛みが、こちらの悪夢しか選べないのだと告げていた。

 

 延々ひと月以上寝込んで、身体を起こせるまでに快復できたのは初雪が降るころだった。

 もとより病弱な質なので、そのまま死んでいてもおかしくなかった。


 勝千代の身体はあまりにも華奢で、明らかに栄養状態が悪い。

 体のサイズから考えるに、おおよそ三~四歳。行っていても五歳程度だろう。

 肌の色は青白く、総髪の髪はパサついている。爪に縦皺が出来ていることに気づいた時には、まだ子供なのにと悲しくなった。

 城主の嫡子だというのに、ろくなものを食べさせてはもらえず、着ているものも下人でも着ないような薄汚れた小袖。

 これからもっと寒くなるのに、ずっとこの一枚で過ごすのだろうか。


 ヨネが丁寧に清拭してくれる。そのしわしわの手がぬぐう身体は、骨と皮だけでできている。

 この年頃のふくふくしい丸みも、若枝のような瑞々しさもない。

 櫛を通すたびに髪が抜けていくのは、ひどく堪えた。

 本気で何とかしなければ……

 

 父は相変わらず戦場に詰めっきりで、帰ってこない。

 ヨネはよくやってくれていると思うが、彼女は足腰が不自由で、利き手の指も半分ない。


 頼れるものは、誰もいなかった。

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福島勝千代一代記
「冬嵐記3」
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2月21日発売です

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― 新着の感想 ―
[一言] 毎日更新はありがたいけど、話全く進まずテンポ悪くてもったいなあと思いました。
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