拙者の走馬灯
先日、父上が討ち死にましたと先方から報告がありました。武士が羨むほどの立派な死に様だったそうです。そして死に際に、遺言として父はこのようにおっしゃっていたそうです。
「我が人生に一片の悔いなし」
とありふれた短い一言を残して逝ってしまったそうです。それを聞かされた母様は大粒の涙を流しながら、
「ご立派です! わたくしたちも心から嬉しく存じます!」
と涙に似合わぬそのお言葉に、僕はお腹が痛くなりました。何故悲しいのに嬉しいというのか理解に苦しみました。なので、その者が去ってから母様に
「どうして悲しいのに嬉しいと言うのです?」
と不安げに訊いたら母様は、裾で顔を隠しながら答えました。
「当たり前でしょう! 武士として誇り高いことです! だから嬉しくて泣いてるのです!」
母様は嬉しそうには見えませんでした。只々父上に会えないから悲しんでいるようにしか捉えられなかったのです。母様の泣きじゃくった姿を見ていると胸がチクチクして熱くて痛くなりました。自然と目がショボショボして涙が溢れてきました。呼吸もしづらくなって過呼吸みたいな発作が起きました。母様と同じ涙がたくさん流れました。
一年後、母様は重い病で亡くなりました。一人息子の僕を残してです。父上が亡くなられたと聞いたあの日から母様は瘦せ細っていきました。気がついたら母様は布団から起き上がれないくらい身のない骨になってしまいました。毎日努めて母様の飯を作って食べさせていたのですが、食っては吐き、食っては吐きの繰り返しです。毎日のように母様は布団をかぶって泣きじゃくっていました。僕も隠れてシクシク泣きました。そして亡くなる二日前に、母様は顔を赤黒くして汗だくになりました。母様がとても苦しそうに見えたので、離れのお医者様を呼んで診てもらったのですが、お医者様は母様を見て、
「ダメりゃこりゃあ。もうじき逝くだろうよ」
と嫌なものでも見たかのようにすぐにこの場から去っていきました。僕は母様の汗まみれの寝具と寝着を取り換えて清潔にしました。そのとき母様は最期にこう言い残しました。
「いっちゃん、ごめんねぇ。こんな情けない母様で」
苦しげの笑顔を見せながら、僕に昔の時のようなやさしい声調で言いました。僕は思わず、首を横にぶるぶる振ることしかできませんでした。
「ねぇいっちゃん、ありがとうねぇ、愛してるよぉ」
言い切って、母様は目を瞑って安らかに眠りにつきました。二日後、母様は父上のところへ逝ってしまいました。
六年後、僕は父上と同じ武士になりました。武士といってもまだ見習いみたいなものですが日々の稽古に努めています。一度父上について知りたくて、同じ所属だった者に父上の活躍なり何なり訊いてみたのですが、皆さん適当に話を流したり、「あいつかぇ」と言って鼻で笑った挙句、「覚えてらんのう」とおちょくった目つきで胡麻化されました。父上のことがよく分からなくなりました。
十六才の秋の終わりの、風が肌寒くなった日に、初陣を果たしました。ようやく武士として一人前になれました。 戦はいいものではないと感じました。
二度目の戦では、何とか生きながらえました。 戦というものはつらいものです。
二十二で妻の子を授かりました。男でありました。さぞ喜びました。背負う厚みが増した気がしました。
三度目の出陣で逃げてしまいました。 まだ死にたくなかったからです。
二十四で二人目の子を授かりました。おなごでありました。恥じぬように生きていかねばならないです。
二十七で四度目の出陣です。生き残れました。周りの者から意気地なしと罵られるようになりました。 戦というものは怖いものです。
三十のとき、八才の坊が父上みたいな立派な武士になりたいと言いだしました。心の底から喜びが込み上がりました。生きてきてよかったと初めて思いました。しかし、罪悪感も纏っておりました。
五度目の出陣のとき、妻は何か悲しげな目で見送りました。少し目が赤くなっていました。思わず抱きしめてしまいました。 戦というものは、誰かが死ぬものです。
最期は、想い人たちの顔がふわっと浮かびました。だから大きな声で一言、遺言を残しました。
「我が人生に一片の悔いなし」
と。