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さなりす〜虐待された少年が女の子と音楽に出会い成長していくお話

作者: 葵栞

 校舎の窓から見える風景は、寂しかった。

 四月。中学三年生。人と話すのが苦手な僕は、教室には行けず、旧校舎の音楽室に通っていた。

 誰も来ないその場所は、静かだった。だけど誰もいない。頭上に飾られた名前も分からない肖像画は、寂しさを癒やしてはくれなかった。

 そんな時、風が通り抜けていった。それは嵐のように激しい突風だった。


「ねえ? キミが沙南さなくん? あ、私はね、高柳有理栖たかやなぎありすって名前だよ!」


「あ……、えっと」

「ねえねえ、キミって音楽が好きなの? 私も好きなんだ! よかったら一緒にバンドをやろうよ!」

「バンド?」

「うん! 私ね、音楽活動してるんだ! ほら、動画サイトにもたくさん動画あるよ!」

 突然に教室に来たその高柳有理栖という女の子は、嬉々として話しながらスマホの画面を見せた。

 スラリと長い手足、色の白い肌、長く伸びた茶色い髪。凜として僕を見つめる瞳はエネルギッシュで、でもどこか優しげだった。

「キミも音楽好きなんだよね? だって音楽室登校するくらいだもんね!」

「いや……僕は、そういうわけじゃなくて……」

「楽器は? 何弾けるの?」

「いや……だから弾けないから」

「……? だったらなんで音楽室登校なんてしてるの?」

 有理栖の声は高音が擦れるような独特のハスキーボイスだった。一度聞いたらずっと印象に残るような、そんな特徴的な声だ。

「教室に居ると、頭がおかしくなりそうだから」

「おかしく?」

「そうだよ。なんか叫びだして走りだしたくなるような、そんな感じになっちゃうんだ」

 僕の育ちかたはみんなと違う。


 三年前の三月、【東京都小平市児童虐待監禁事件】が起きた。当時、小学校五年生だった僕は、母親に大型犬用の檻に監禁され、七日間一切の食べものを与えられず、衰弱死する寸前だった。

 幸いにも、たまたま自宅を訪れた母の妹によって発見されたが、おばさんが家に来なかったら僕は死んでいた。


「知ってるよ、沙南くんのこと」

「え?」

「ごめんね、別に調べたわけじゃないんだけど、なんか、みんな知ってるから」

「いいよ、別に」

 それから入院生活を経て、去年、おばさんの家に居候しながら僕は中学生になった。二年生から始まる中学生活だった。

「僕は変だから。みんなとは一緒にいられないんだ」

 治療はしたが、しかし虐待のトラウマから来るPTSDによって、普通の社会生活が僕には難しかった。

 人とまともに話せないし、たくさんの人がいる場所に行くと、みんなが僕の悪口を言っているような気がして、心がパンクした。

「だめなんだ。僕はさ、お母さんからずっと、人と話したらいけないって言われて育ったから、普通っていうのが出来なくて」

 母は病気だった。

 強迫性障害という心の病気で、大切なものを失うことをとても恐れていた。

 物が捨てられなくなり家中がゴミだらけだった。

 発症したきっかけは娘――僕のお姉ちゃんが交通事故で死んだことだった。

 お姉ちゃんのことはまだ小さかったから僕はよく覚えていない。


――もしかしたら僕も突然に死んでしまうかもしれない。


 母はそんな風にいつも怯え、僕を徹底的に管理していた。

 学校の集団登校は危険なのでやらせない。母が毎日、車で送り迎えしていた。

 学校にいるときは、五分に一回、生存連絡をする。授業中でも関係がない。最初、先生には怒られたが、いつからか言われなくなったのは母が説得したからだと思う。

 人と話すのは禁止。人間は恐いから関わらないのが一番安全だから。目線を合わせるのもだめだった。誰とも一切、関係を持たず、いないものだと思えと言われた。


「僕はまともじゃないんだ。だからさ、きっとこれからもずっとひとりぼっちで、孤独に生きていくんだ」

「そんなことないよ」

「……?」

「だって沙南くんは、こんなにも言いたいことがあるんじゃん。初対面の私に、こんなに話したいことがあるんでしょ」

「別に話したいわけじゃない……けど」

「でもあるじゃん。沙南くんの中には、たくさんの想いがあるんじゃん」

「言ってることがよく分かんないけど」

「いいんだよ! わかんなくたって。でも、その想いっていうのは、どこかに吐きださなかったらきっと膨れあがって心が壊れちゃうよ」

「もう……壊れてるよ」

「そんなことないよ! だから音楽を使って自分の気持ちを表現しなきゃだめなんだ!」

「表現?」

「そうだよ! 言葉では上手く伝えられなくても、歌だったら伝えられることってあるよ!」

「別に伝えたいことなんて……」

「あるでしょ! 沙南くんの中にはきっとドロドロした生温かいものがいっぱいあるよ」

「かも……、しれないけど、でも」

「わかるよ! 私もそうだから! 私もね、発達障害と躁鬱病ってやつでね、躁状態の時は周りのこととか全然目に入らなくなっちゃって、好き放題やっちゃうから虐められたこともある」

「躁鬱病?」

「うん……、沙南くんは教室に来ないからわかんないかもしれないけど、私ね、一年間、学校休んでたから」

「そうなの?」

「そうだよ。今年からまた中学生になったんだ。それでキミのことをきいた。私のことのように思えたんだ。だから、なんてゆーか、言わなきゃいけないって思った」

「何を?」

「キミはまださなぎなんだ。だから私は風になってキミを空に舞い上げてあげる」

「……どういうこと?」

「そしたらきっとキミは蝶になって大空へ羽ばたける」

「……?」

「へへ……、なんて、これは私の歌の歌詞なんだけど、いい歌詞だと思わない?」

「……、さあ、僕にはそういうのはわかんないけど」

「とにかく、沙南くんは私と一緒にバンドをやろう! それが一番! てゆーか、うんっていうまで私はここに来るからね! 私はしつこいから! 躁鬱病だから! メンヘラだから!」

 三年生の春、そうして出会った高柳有理栖のことを変な女の子だと思った。

 頭のおかしい僕にわざわざ話しかけに来るなんて普通じゃないと思った。

 でも、少し嬉しかった。

 窓から見える風景が変わった気がした。



 その翌日、高柳有理栖は僕に使い古しのアコースティックギターを渡してきた。メーカー名などはわからないが、ギターは思ったよりも大きくて、思ったよりも軽かった。

「私の使い古しだけど、綺麗なやつだから。沙南くんにプレゼントするよ」

「え、いや……、いいよ、ギターなんて」

「だめだよ。沙南くんがバンドやらない限り一生付きまとうからね」

「一生って……、なんでそんなに僕なんかに」

「言ったじゃん。沙南くんのことを見てると、なんか自分のことのように思うからだよ」

 有理栖は屈託のない笑顔で笑った。



 それからの音楽室登校は今までと違うものになった。ひとりぼっちだった教室には、有理栖がいつもいるようになった。

 有理栖は授業をサボって旧校舎の音楽室に来て、僕にギターを指導した。

 入院生活の影響か、僕は背が小さく指も小さかった。女の子の有理栖よりも小柄で、思うように指が動かなかった。


「まずはね、ドレミファソラシドを覚えよっか。いい? ギターはね、一番太い六弦から、一番細い一弦まで、どこも抑えずに鳴らすと、ミラレソシミってなってるんだよ」

「へー、そうなんだ」

「そうそう。どこも抑えてないその状態を開放弦といいます」

「ふむふむ」

「そしてこの指板に枠みたいなマークが順番に並んでるでしょ?」

「この突起のこと?」

「そう。その一区切りをフレットっていってね、上から一フレット、二フレットとかって呼んでいく」

「フレット……」

「そのフレットごとに半音ずつ上がる」

 有理栖は子供をあやすような優しい口調で僕にギターを教えていった。

 僕は音楽に興味なんてなかったし、生まれてはじめての楽器に苦戦した。


 小学生のころは、授業中はずっと黙ってスマホを見ていた。

 ノートをとることもなく、誰かと話すこともなかった。

 もちろん音楽の授業で楽器を演奏したこともない。


「ここが……、ド、レ……ミファソラシド」

「そうそう! 沙南くんセンスあるよ! 物覚え早いよ!」

「そ、そっかな」

「うんうん! やっぱり沙南くんはさなぎなんだよ! これからたくさんのことを学んで、きっといつか蝶になるんだ」

 有理栖にそうやって褒めて貰えるのは嬉しかった。

 ギターの練習は楽しかった。

 空っぽな日常に、目的が出来た。新しいことを覚えていくのは刺激的だったし、なにより、誰かと一緒に日常を過ごすことが新鮮だった。

 そんな日々が、一ヶ月続いた。



3


 五月。

 一ヶ月間、ギターを練習した僕は一曲弾けるようになった。

 あいみょんの「マリーゴールド」だ。

「マリーゴールドは難しいコード出てこないし、カノン進行っていって、他の曲にもよく出てくる進行だから、初心者向けなんだ」

「へー、そうなんだ」

「って、沙南くん、全然興味なさそう」

「そんなことないよ、ただ僕は……、その感情表現に乏しいから」


 母といたころは、笑うことがなかった。

「人間は恐い。感情があるから。何をするか分からないわ」

 それは母の言葉。

 無表情な僕は復学したこの学校で、クラスに馴染めなかった。

 誰に何を聞かれても、淡々と返答するだけで人間らしくない。

 世間の話題も全然知らない。


「あいみょんって、有名な人なの?」

「有名も有名! 超有名! 中学生でそれ知らないって沙南くんヤバすぎだよ!」

「ごめん……」

「まあー、いいよ! 沙南くんは才能あるからもっと音楽やった方がいいよ!」

「才能?」

「うん! 物覚え早いもん! ギターだってもう弾けるようになったじゃん!」

「それは高柳さんが教えてくれたから……」

「有理栖! でしょ。高柳さんじゃなくて。言ったじゃん、そういう風に呼んでって」

「ご、ごめん」

「まあいいけど、沙南くんってさ、歌も声高くて上手いし、めっちゃ才能あるよ」

「そ、そうかな」

「うん! きっと音楽の才能あるよ。それに自己表現する理由もたくさんあるし、沙南くんは生粋のアーティストだよ」

「あ、うわ……、あり、ありがとう」

「うん!」


 僕は一四歳になっても声が女の子のように高い。喉仏はあるから、声変わりはしたはずだけど、変わったような気もしない。

 今の親代わり――母の妹の和光綾子わこうあやこさんに言わせたら、

「ずっと話してこなかったから声帯が成長しなかったのかもしれないわね」

 なんて笑っていた。


「やっぱり沙南くんと一緒に音楽やることにしてよかった! キミは私の運命の人だよ」

「そ、そんな……」

「ううん。ねえねえ、次はこの曲やろうよ。ピアノ中心の曲なんだけど、めっちゃ流行っててかっこいい曲なんだ」

 と有理栖がスマホで動画サイトを開いた。

 色あせた感じのプロモーションビデオがかっこいい。

「Official……? ひげ? なんて読むの?」

「はぁー、沙南くんはほんと何も知らないなぁ」

 僕は英語も漢字も何も知らない。

 偏差値はきっと十くらいだ。

 でもいいんだ。

 音楽をやるのに偏差値なんていらないから。



 六月。

 また一ヶ月が過ぎた。

 音楽室で僕は得意な「マリーゴールド」を弾き語りした。

 有理栖はその演奏をスマホで録画していた。


「あー、沙南くん上手! すっごいかわいかった!」

「か、かわいいって……、僕、男だよ」

「え? だって沙南くんはどう見てもかわいい系だよ! 背ちっちゃくて童顔で、声高くて、なんかさー、女装とか興味ない?」

「な、ないよ!」

「えへへ、なんか、沙南くん変わったよね」

「変わった?」

「うん! なんかぁ、相変わらず無愛想だけど、でもちょっと感情が見えるようになった」

「ぼ、僕は別に、前から普通してるだけだよ」

「でも無表情な沙南くんは沙南くんで、かわいかったからなぁ。なんかいじめたくなる感じで」

「い、いじめないでよ!」

「えへへ、なんかほんと変わった。音楽の力ってやっぱり素晴らしいんだね」


 僕にはよく分からない。

 でも有理栖が言うように歌を歌うと心が晴れるような気がした。

 心の中に貯まっているものが腐ってドロドロになる前に、歌になって外に吐きだされていく。

 歌を歌うということはすごく気持ちがよかった。


「ねえ、沙南くん、そろそろ教室に戻ってこない?」

「え?」

「今の沙南くんだったら、きっと教室に来ても大丈夫だよ。ちょっと無愛想だけど、でも困ったらギター弾けばみんなの輪に絶対は入れるから!」


 有理栖は元気よく僕の手を握った。温かくて僕より大きい手のひらは普通の女の子と変わらない。

 でも左の薬指と小指は輪の字に曲がったまま、全く動いていない。骨が変形していて、動かせないのである。


「ね! 私も一緒にいたげるから! 私が沙南くんを助けてあげるから。ね? 一緒に教室行こうよ」

「でも……」


 有理栖は小さいころ親に虐待されていた。

 虐待には大きく分けて五つの種類がある。精神的虐待、身体的虐待、経済的虐待、性的虐待、そして、育児放棄ネグレクトである。

 有理栖は親に暴力を受け、指を骨折したものの治療を受けさせてもらえなかった。

 結果、指が曲がったまま骨が成長していき、湾曲した指になってしまった。


「大丈夫だよ! みんなそんなに冷たくないよ。私だってこんな指だし、躁鬱病だけど、でも大丈夫だよ! 元気にしてたら大丈夫だって」

「でも、僕は有理栖みたいには……、出来ないよ」

「いいんだよ。沙南くんは変わらなくたっていい。今のままでいいの。私と一緒に今ここいる、沙南くんでいればいいんだよ」

「なんか難しいよ……、言ってることが」

「簡単だよ。沙南くんは、私にくっついてればいいってことだよ

「くっついてる?」

「うん。とりあえず私とずっと一緒にいればいいよ。そしたらそのうち、きっとみんなにも慣れていくから」

「ずっとって言ったって、無理だよ。有理栖は女子だし、トイレとか体育の着替えとかあるし……」

「いいじゃん、一緒に来れば」

「えー! 何言ってるの! だめだよ! 僕は男だし」

「大丈夫だよ。かわいいから。それに沙南くんってさ、多分、なんていうかその……、Pornhub? 的な興味とか全くなさそうだし」

「え? なに? ポルン? なに?」

「いや、知らないならいいんだけど」

「えー、何言ったの? 僕英語とか全然分かんないから教えてよ」

「いや、英語とかそういう問題じゃなくて……、なんだったら私がそれ知ってることの方が問題だったりするんだけど、ま、いいや。知らないならやっぱり、大丈夫そうじゃん!」

「……? 何言ってるか全然分かんない」

「いいから来い! ってことだよ!」

「わ! ちょ、ちょっとあ、有理栖――」

 有理栖は曲がったままの左手で僕をぎゅっと握って走りだした。


 5


 それから一ヶ月が過ぎた。

 七月。

 有理栖に連れられてきた教室は、恐かった。人がたくさんいるという環境は、僕には難しかった。

 けれど有理栖はそんな僕を助けてくれた。いつも側にいてくれて、みんなの輪に入れない僕を連れ歩いた。

 逃げだそうとする僕の手を握りしめて、どこに行くのも一緒だった。

 さすがに更衣室やトイレは別だったけど……。

 変わらず人と話すことが出来ない僕を、みんなの輪に入れようとしてくれる有理栖に申し訳なさを感じて、僕も頑張らなきゃいけないと思った。

「ぼ、僕は……、その……、歌が、好き、です」

 言葉で感情を表現するのが苦手な僕は、教室でギターを弾いた。

 マリーゴールドやプリテンダーを、休み時間や放課後に弾いた。

 みんなを集めてくれたのは有理栖だった。有理栖は明るくて裏表がなくて、みんなの人気者だった。

 僕も有理栖みたいになりたい。

 自分の気持ちを表現したい。

 つらい過去があってもそれを受けいれて、明るく生きていきたい。

 そんな強い人に、なりたい。

「わー、沙南くんって歌上手ー! びっくりしたー!」

 覚えたてのギターで行った初めての自己表現は緊張した。

 でもそのおかげか、少しずつ、みんなとの距離が縮まっていった。

「自分を表現したらね、相手のことも恐くなくなるんだ。だって自分のことを、みんなはもう知ってるから。恐いものなしだよ」

 その通りだと思った。

「ねえねえ、沙南くん。私たちのバンド名さー、決めた」

「え?」

「さなりす、ってどうかな? 有理栖と沙南で、さなりす。ねえねえ、よくない?」

「いいね」

 僕は有理栖とバンドを組むことにした。

 もっともっと自分を表現したい。

 オリジナル曲を作ろうと思った。



 夏休みになった。

 僕は有理栖と二人で軽音同好会を作った。有理栖の人徳か、あるいは僕に同情してか、先生たちは練習場所として旧校舎の音楽室を提供してくれた。

 毎日、学校へ行ってはギターの練習に励んだ。

 そんな日常は、生まれて初めてだった。窓からさしこんでくる光は、肌の奥を焦がすほどに熱い。でも、そんな毎日は、すごく楽しかった。


「作曲ってね、色々やり方があるんだよ。歌詞から先に作って歌にしていく方法だったり、メロディを作ってからコードや歌詞をはめたりね」

「なんだか難しそう……」

「でもね、私たちなんて所詮素人じゃん! だから、難しいことを考えずに、言いたいことをストレートに曲にしちゃうのが一番いいよ」

「ストレートに……」

「そう! そういう時に役に立つのが即興演奏だよ」

「即興?」

「うん! とりあえずギターを弾いて、その場で出てきたフレーズを歌うんだ! 感情のままに! それがきっと今、沙南くんが表現したい気持ちだから」

「難しそう……」

「とりあえずやってみようよ!」

 オリジナル曲の作曲作業はそうして始まった。


 有理栖に言われるがまま、僕はギターを弾き、なんとなくのコード進行とリズム感で音を奏で、思いつきで歌を歌った。


「ひとりぼっちの教室に風が吹いて嵐が来た。さなぎだった今日は風に誘われて蝶に変わっていく。君は風。君がいるから僕は空に羽ばたける」


 マリーゴールドと同じDの音階をキーにした、カノン進行。

 八ビートで少しゆったりしたリズム感。

 でもそんなもの適当だった。

 ただの思いつき。今ここにある気持ちを歌にしただけだった。


「わー! いい! 素敵! めちゃくちゃいいじゃん!」

「そ、そっかなぁ?」

「うん! 沙南くんの優しくて儚い声がぴったり合ってるよ! めちゃくちゃ優しい歌! 沙南くんらしいよ!」

「あ、ありが、……とう」

「なんか私、告白された気分だもん!」

「え? こ、告白?」

「うん! だって今の歌って私のことを歌った歌でしょ? めっちゃ心に響いたよ! なんか、キュンってした!」

「え、あわ……、いや、あの」

「えへへ、私も沙南くんのために歌作らなきゃだね」

「え、ええ?」

「告白の返事を歌で返さないとだね」

「い、いや返事なんて、そんな」

「いいじゃん! 歌で愛の交換なんてアーティストっぽいじゃん! はぁー、どんな歌にしよっかなー」

「ちょ、ちょっと有理栖-」

「あ、ところで、この歌の曲名は?」

「曲名?」

「うん! せっかく作ったんだから曲名つけないと」

「曲名……、なんて……どうつけたらいいんだろう」

「フィーリングでつけるんだよ!」

「そ、そうだよね……、フィーリングで……」


 僕は目を閉じてしばし心と対話をした。

 この歌の意味。

 何も考えず、ただ音に合わせて言葉を連ねた歌。

 有理栖のことを思って歌った歌というわけではない。でもきっと、僕の心の中には有理栖がいっぱいだった。

 この歌は僕と有理栖の歌。

 僕の世界に現れた嵐みたいな女の子の歌だ。


「ひとりぼっちの教室」


 ぽつりと言葉が出た。

 有理栖は間髪入れず言った。

「いいじゃん!」

「うん」

「でも、僕は有理栖が大好き、とかでもよかったのに」

「え、ええ?」

「ま、いっか。ひとりぼっちの教室で」

「ちょ、ちょっと有理栖」

「えへへ」

 君と出会って春がやってきた。

 君が新しい季節を連れてきた。



 九月。

 新学期が来た。僕はギターバッグを肩に担いで学校へ行った。通学路の途中で有理栖に会った。茶色い長い髪が風になびいて綺麗だった。心が軽くなった。世界が煌めいていく。

「ねえねえ、沙南くん! ライブ、やろーよ!」

「うん!」

 夏休み中にオリジナル曲は何曲か出来た。地元の百人規模のライブハウスで、年内には僕らのバンド「さなりす」の初ライブをやりたいと思っている。

「宣伝活動頑張ろうね!」

「うん!」

 無名バンドの僕らがライブハウスを借りるには、チケットを全て先に買わなければならない。一枚、千円として、百人分なら十万円費用がかかる。なので、クラスのみんなにチケットを買ってもらいたいのである。

 僕は社交能力がないが、しかし有理栖に任せきりというわけにもいかない。

 新学期は頑張ろうと思った。

 そんな話をしながら校門へ近づいたとき


――――「さーくん!」 


 と女の人が声をかけてきた。

 よく知っている顔。よく知っている声。よく知っている優しい雰囲気。

 閃光が走った。

 煌めいた世界が暗転する。


――「さーくん! 会いたかった! 会いたかった!」


 と女の人は僕に勢いよく抱きついてきた。


「さーくーん! お母さんは寂しくて死にそうだったよぉー、うわぁーーん」


「さ、沙南くんのお母さん?」

 女の人――お母さんは僕を胸いっぱいに抱きしめた。花の香りがする。

「お母さんね、もう病気がよくなったからまたさーくんと一緒に暮らせるようになったんだ!」

「そ、……、そうなんだ」

「うん! さーくんのためにお母さん頑張ったの! さーくんも寂しかったよね。ごめんね、お母さん、さーくんを一人にしちゃって」

「あ、……、いや、僕は」

「これからまたお母さんと一緒に暮らそうね! もう寂しくないからね! ね!」

 

 8


 三年前――。小平市児童虐待監禁事件が起きたあと、お母さん――和光妙子は逮捕された。監禁罪、殺人未遂等、様々な罪に問われたが、持病の強迫性障害により責任能力がなかったとして刑務所へは送られず、病院に入院することになった。

 それからお母さんとは会っていなかった。


「さーくん! お母さんはね、もう病気はよくなったんだよ。さーくんとまた一緒に暮らしたくてね、頑張ったんだよ」

「そ、そうなんだ……」

「うん! お母さんはさーくんが大好きだから、さーくんのためだから頑張れたんだよ」

「僕の……ため」

「だってさーくんに寂しい思いさせられないもん。綾子のところじゃ寂しかったよね。ごめんね。さーくん」

「いや……僕は」


 病気が治ったからお母さんは病院を退院し、僕とまた一緒に過ごすことが出来るようになったらしかった。

 綾子おばさんが関係機関に問い合わせたところ法律的には問題がないようだった。

 僕はお母さんの勢いに気圧されるがまま、小平市の家に戻ることになった。

 有理栖にお別れも言えないままに。

 お母さんに手を引っぱられ、この街から去った。



 9



 お母さんが運転する車に乗って、小平市の実家に戻った。

 生まれ育った家。懐かしい思い出が溢れる一方で、監禁部屋が脳裏に浮かび吐き気を催した。


「わー、またさーくんと一緒に暮らせるんだね! お母さん嬉しくてさーくんにちゅーしたくなっちゃった! ちゅっ、ちゅっ、ちゅっー!」


 お母さんはニコニコしながら僕に密着しキスをする。まだ三十代前半。

 ルックスがよく、胸が大きく、明るい性格で昔から異性にモテモテだったと綾子おばさんからきいた。


「ちゅうー、ちゅー、ちゅー」

「お、お母さん……、ちょ、ちょっと」

「ん? どうしたの? お母さんのちゅーだよ? あ、もしかしてさーくん恥ずかしいの? わー、あははー、さーくんも思春期になったんだね! かわいいー!」


 昔一緒に住んでたころは、お母さんはいつも密着していた。

「いつどこに消えてしまうかわからないもん。こうしてれば安心だもん」

 なんてお母さんは言っていた。

 食事も、お風呂も、トイレも、寝る場所も、いつも一緒。

 僕が一人になるのは、学校にいるときだけだった。


「はー、そっかぁ。さーくんももう、そんな年頃かぁ。そうだよね? お母さん美人だから、ちゅーされたらもしかして興奮しちゃう? うふふ、そっかそっかぁ」

「え……、あ」

「でもお母さんに欲情したらぁ、本当はいけないんだよ。近親相姦、ってものになっちゃうの。あ、でも、さーくんはいいんだよ。だってお母さんはうれしいもん!」

「いや……あ」

「はーい、ちゅうぅぅー」

「んっ……、んちゅ……、ん、……」


 四年生になったあたりから学校には行けなくなった。元より、外は危険。家にいるのが一番安心。と言っていたお母さんが、僕を学校に行かせなくなるのは当然だった。

 それからは、毎日、お母さんと一緒。

 お母さんは仕事をしていなくて、いつも家に居た。

 生活費をどこから捻出していたのかは不明。

 お母さんが買い物に行くときや、病院に行くときは、僕は監禁部屋に入り、犬小屋の中で過ごした。

 僕を一人にしたら、何をするか分からないから、だ。


「じゃ、さーくん。はい」

「あ……」

「はい! うふふ、さーくんのためにね、お母さんちゃーんと買ってきたんだよ。どう? かわいいでしょ、ピンク色で、さーくんにぴったりだよ」


 家に入ると、お母さんは僕に首輪を見せた。

 大型犬用の首輪だ。

 お母さんはニコニコと楽しそうにしている。


「これをつけてたらさーくんは安心だもんね。どこにも行かないし、いなくなっちゃうこともないし、幸せだもんね」

「あ、う……」

「ね? ね?」


 一緒に暮らしてたころ、家では首輪をつけていた。首輪からリードを繋げられていた。

 監禁されるときは僕はリードを堅く檻に縛られて、逃げられないようになっていた。

 お母さんは僕のことが心配なのだ。

 いなくなってしまうことが心配。お姉ちゃんみたいに、突然に不慮の事故で死んでしまうかもしれない。お母さんの虐待行為は、みんな僕への愛情。

 それは分かっている。

 あのころは世の中のことを知らなかったから、これが普通だって思っていた。でも、今はこういう行為は犯罪なんだっていうことも分かっている。

 お母さんに監禁されたらギターも弾けなくなる。有理栖と約束したライブも出来ない。学校も行かせてもらえない。


「さーくん、お返事は?」

「あ、……」

「お母さんが言ったことには、はい、って答えるんだよね? さーくんはいいこだからちゃんと出来るよね? ね?」

「あ、は……、はい」

「うんうん! いいこいいこ! さーくんはやっぱりいいこだよね! ね! かわいいかわいい私のさーくん! ほら、じゃあこっちに来て、首輪をつけようね」

「は、はい……」

 僕はお母さんの白い手のひらによって首輪をはめられた。

 恐かったんだ。

 頭の中が硬直したみたいに何も考えられなくなって、体が勝手に動いた。

 心的外傷後ストレス障害(PTSD)における解離状態である。

 あの事件の後、病院で治療を受け、僕の心の病気について知識はある。

 心の傷の象徴たるお母さんを目の前にしたら、僕の心は停止してしまう。

 僕はお母さんの前ではロボットだ。

 お母さんのペット。

 何も考えず存在だけする人形。お母さんの傀儡だ。

「ごめん……、有理栖。やっぱり……、僕には無理だった」

 小声で呟いた。

 誰にも届かない。

「え? さーくん何か言った? それより、お母さんと久しぶりにお風呂入ろー! お母さんと会ってないあいだに、たくさんの人とさーくんは会ったでしょ? 人間にはね、ウイルスっていうのがいっぱいついてるから、ちゃんと洗って綺麗に落とさないといけないんだよ」

「は、はい……」

 有理栖みたいに自分を表現することは僕には出来なかった。

 僕はお母さんのペットに戻った。



10



 秋。

 それから二ヶ月が過ぎた。

 僕はあれから一度も外に出ていない。

 中学校は勿論行っていない。スマホは没収されて有理栖とは連絡も取れていない。

 ギターもない。荷物は何一つ持ってきていない。あんなにも一生懸命に作った曲も、もう弾けない。

 有理栖と一緒に過ごした日々は、全部、泡沫の夢だった。

 僕の居場所は世界の外側にはない。

 ただ、ここにあるだけ。

 お母さんの籠の中。


――「だから! あの……、私、沙南くんの友達で、会いたいんです」


「さーくんは病弱で人と会えないの。病気をもらっちゃったら死んじゃうもの。それにさーくんも誰にも会いたくないって言ってるから、帰って下さい」


――「そんなわけないです。沙南くんは、私と一緒にバンドを組んだんです。これから一緒に夢を追っていくんです。会いたくないなんてこと、絶対あり得ないんです」


「なにそれ? 頭おかしいのかしら? ともかく、さーくんは誰にも会わないので帰って下さい」


――「帰らない! 沙南くん! 沙南くーん! いるんでしょ! 私だよ! 有理栖だよ! 有理栖!」


「ちょ、ちょっと警察呼びますよ……」

「呼んだらいいでしょ! 沙南……、沙南くん!」

 玄関の方からもみ合った音がした。

「有理栖……」

 一瞬、玄関の方へ向かう気持ちになったが、首にはめられた首輪と、テーブルにつながれたリードを見てとても行けないと思った。

 こんな姿、有理栖には見せられない。

 恥ずかしい。

 そう思ったときだった。激しい足音がした。

「ちょ、ちょっと! あなた! 戻りなさい!」

 バーン、と勢いよくリビングのドアが開いた。

 突風が吹いた。

 茶色い髪がかき乱れて僕を見つめる瞳はどこまでも真っ直ぐだった。


「はぁはぁ……、沙南……、くん!」


「あ、……有理栖」

「バンド! ライブ決まったよ! 十一月十日! 来週だよ! みんな私たちのライブ楽しみにしてる! チケットも百枚売れたんだ!」

「う、嘘……、でしょ」

「私ね、沙南くんと出会って楽しかったんだ! 自分の殻にこもった沙南くんが、ちょっとずつ固い殻を破って羽が生えていく。そんな沙南くんを見ているとね、私も元気をもらえた! 私だって同じだから! 私だって恐いんだ。こんな指で、病気で、留年だってしてる。おかしい人だから。でも……、沙南くんも頑張ってるから、私も頑張ろうって思えた!」

「あ、有理栖……」

「沙南くん! 私と一緒に行こう! 沙南くんの居場所はここじゃない! ステージの上だよ! 沙南くんはアーティストなんだ! 私の相棒!」

「う、うん!」

「待って! 今、そのリード外すから!」

 有理栖はいつもみたいに嵐のような勢いだった。僕に近付いてテーブルに固く結ばれたリードをとろうとする。

 でも何重にも結ばれていてすぐにはとれない。

 するとお母さんがドアの向こうからやってきた。

「さーくん? どうしたの? なにやってるの?」

「お、お母さん……」

「何って、決まってるじゃないですか! 沙南くんはこんなところにいる人じゃないんです! 私と一緒にバンドをやって、スーパースターになるんです!」

「……? 何を言ってるのかな? バンド? さーくんはどこにも行かないし、さーくんの居場所はここよ。でしょ? さーくん」

「う……、あ」

「沙南くん!」

「あ……」

「でしょ? さーくん。さーくんの居場所は、ここだよね? ね?」

「あ……、は……はい」

「ほらぁ、さーくんだってこう言ってるじゃない。おかしいことを言ってるのはあなたよ」

「違う! 沙南くん! 待って。私が今助けてあげるから! 私は風なんだ。沙南くんを空に羽ばたかせる風になるから!」

「あ、……有理栖」

「……? 意味の分からない事を言って困らせないで。ここは私の家なんだから、早く出ていって」

「はい。でも沙南くんも一緒に行きます」

「行かないわ。ね? さーくん」

「……あ、……」

「ね? お返事は?」

「あ……、う」

「さーくん、お返事は?」

「う……、お、お母さん……、僕は、音楽をやりたい」

「さーくん!」

「僕は、……、有理栖と出会って変わったんだ。憂鬱なものだって思っていた世界が、有理栖と一緒だったら違うものに変わったんだ。だから僕は、有理栖と一緒に行きたい」

「沙南くん! 私と一緒に行こう!」

「うん……、お母さん、僕、ギターを弾けるんだ。有理栖に教えてもらった。自分の曲だって作った。音楽を通して、友達も出来た。今度、ライブもやるんだ」

「さーくーん、悪ふざけはやめてちゃんといいこになって」

「ふざけてなんかないよ。僕は……、やっぱりもう、お母さんのペットではいられない。ごめん……、お母さん」

「さーくん……、頭がおかしくなっちゃったの? あー、その女が悪いのね。その女がさーくんに悪い病気をうつしたのね」

「違うよ。僕は元からおかしいんだ。お母さんも、僕も、変なんだ。でもそんな変な僕でも、音楽っていう武器があったら外の世界でも生きていける気がするんだ」

「あー、さーくん。待ってて。今、その女を殺すから。殺したらさーくんも元に戻るわよね? ね?」

 お母さんはニコニコと笑いながらキッチンに歩いていった。

 引き出しから包丁を取り出すとぎゅっと握ってこっちに向かってきた。

「お母さん……、ごめん。お母さんはやっぱり病気なんだ。ちゃんと病院で治療を受けて、元気になったらまた、一緒に暮らそ」

「とれた!」

「だからごめんね。ごめん、お母さん」

 縛られたリードが解けた。

 僕は包丁を持ったお母さんに向かって突進し押し倒した。



11



 頭を打ったお母さんは昏倒し、気を失った。

 僕は警察と綾子おばさんに連絡をした。警察はすぐに来た。僕はこれまでのいきさつをゆっくりと話した。

 少し経って綾子おばさんが来たころには事情は全て話し終えていた。

 お母さんは監禁罪で逮捕された。過去にも同様の前科があり、精神疾患もあることから警察の動きは迅速だった。

 児童相談所にも通告された。以前の事件後、虐待をしたお母さんから、綾子おばさんに親権が移されていたため、お母さんには誘拐罪もついた。

 裁判を受ける前にお母さんは病院に入院することになった。

 僕は綾子おばさんの家に戻り中学校に復帰した。

 学校に帰ると、みんなが声をかけてくれた。そんなことは予想してなくて、僕は驚きのあまりに涙がでた。

 そんなことは生まれて初めてだった。

 あっという間に一週間が過ぎて、ほとんど練習時間がとれないままにライブ当日を迎えてしまった。

 夕方。

 学校から帰った僕は有理栖と家の前で待ち合わせをした。

 大きなギターバッグを担いだ。出発前に弦交換をし、綺麗に清掃をした。

「お母さんが元気になったら、僕らの歌を聴いて欲しいなぁ」

「うん! きっと届くよ! 沙南くんのその想いは!」

「有理栖……、ありがとう」

「伝えなかったら何も届かないから。だから私たちは歌を歌うんでしょ」

「うん」

「じゃ行こ!」

 音楽は武器だ。

 音楽という兵器があれば僕らみたいな変な人間でも自分を表現することが出来る。

 そうしたらこの世界でもきっと生きていける。

 夕暮れの風が吹いた。

 羽ばたこう。

 キミとならきっとこの世界のどこへでも行ける。

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