第332話
いつもありがとうございます!
私に残された道はない。
「春雨」の男に言われた通り、全力で「ネバーランドプラン」を阻止せねばならない。
それができなければ翠湖ちゃんを珠璃のもとに返してあげられない。
何があっても必ずやり遂げてみせると、今までのどの任務より真剣な覚悟で今回の作戦に臨んだ私は、
「「八咫烏」を招集しろ。」
後に「フォールアウト」と呼ばれる戦闘特化アンドロイド、ひいては「メルヘンプロジェクト」の前身となる「八咫烏」を使うことにした。
その時までは完全な自立型の戦闘用アンドロイドは完成できなかったが、人間を使った強化人間ならとっくに昔から運営していて、私はその分野に関して軍から相当の権限を委任されていた。
だから秘密厳守という理由でいくつか軍にも黙って独自の判断で進んでいた研究があって、その一つが私兵として使う予定であった「八咫烏」であった。
私が指揮権を握っていた第7科学歩兵連隊、通称「両面宿儺」から選び抜いた数は少なかったがいかなる任務も完璧にこなしてみせる百戦錬磨の陸軍最強の兵隊。
おそらく上層部も私になにか裏があるということには勘づいたはずだが、「ネバーランドプラン」において私という存在は欠かせなかったため、そのまま泳がせたと思う。
軍は私に珠璃を含めた家族という人質がある限り、決して裏切らないということを分かっていた。
だがそれがまた家族のための国に対する裏切りとなると話は別になる。
私は珠璃に翠湖ちゃんを返す、その一心で国と人類を裏切ることにした。
数日後、自律型永久発電機関「アマテラス」の研究をするエネルギー庁傘下の研究所に原因不明の火災が発生、重要データが消失される事件が起きた。
その事故で関係者全員が死亡、「アマテラス」のデータが消失されて、人類は反撃の機会まで失われてしまった。
即、調査機関は内部調査に取り掛かったが、証拠が一切なかったので、結局犯人を突き止めないまま、バックアップデータの収集に総力を挙げることにした。
テロ対策としていくつかのデータを暗号化して保管していたため、万が一の時に研究所が攻撃されても2,3年くらいあれば「アマテラス」は十分修復できる。
だが軍からあまりにも大きい権限を預かっていた私はすでにその暗号化されたデータを分析できる人数を完璧に把握していて、海外に滞在している人数を除いた国内の研究員を何人か片付けておいた。
これで「アマテラス」は十年以上は使えない。
私は「春雨」の男が望んだ「時間稼ぎ」という目標を見事に全うしてやった。
次の私の目標は総合制御システム、通常「オーバーロード」だったが、それを壊すにはまず私の古い友人である「ドクターリチャード」を殺しておく必要があった。
自分の生体情報を鍵にして「オーバーロード」の秘密を守ろうとした脳科学分野のスペシャリストである彼は戦争で息子を失われた。
そんな彼が人類を裏切って、結果的に異種族のためになる私の計画に賛同するはずがない。
家族のためだけに動く私と違って復讐の修羅となった彼は正真正銘の人類の守り神だったから。
本来、彼にはいつも用心棒がついていたが、数年前から軍は行き詰まりの「オーバーロード」に興味を失って全自動武装システム、通常「アイギス」により力を入れて、それまでは必要最低限の人数がついているだけであった。
完全な精神状態のネットワーク構築に手こずっていたリチャード博士だったが、彼の研究は軽く思われていいものではないということをあまりにもよく分かっていた私はなぜ「春雨」の男がわざわざ数年前から放置と言ってもいいほどのぞんざいな扱いをされていた「オーバーロード」の無力化を命じたのか、その理由をほぼ完璧に理解していた。
彼は軍にいた頃からの私の同期であり、生死を生死をともにした戦友だったが、だからといって翠湖ちゃんへの大切さに敵うはずはなかった。
私は家族のためであれば迷わない。
「八咫烏」は完璧に彼を始末して、私のもとに彼の生首を持ってきてくれるだろう。
と思って彼を葬る準備をしていた私のところに届いたのは、
「お孫さんが死亡しました。」
珠璃のもとに返してあげたいと約束していた、たった一人の孫娘の死亡の知らせであった。
「今、なんと…」
突然の状況に頭が追いつかない。
だが自分のことなんてどうでもいい。
私はただ翠湖ちゃんの身に何が起きて、現状を確かめたいと思っていた。
「…すみません。私の力ではお孫さんを生き返らせられませんでした。」
謝るな。私はお前に言われたとおりに人類と国を裏切って生死をともにした戦友も殺しかけたぞ。
となじろうとする気力もなくしてしまった私は何も言えず、ただ電話の向こうで私に謝罪するその男の話を聞いているだけであった。
「私は元医者です。こういう死に方は初めて見ました。」
外傷でも、病気でもない。
なんの兆しもなく、痛みを感じた気配もなく、ただ眠っているように、至って穏やかで安らかな顔でそのまま永遠の眠りについてしまったというその話は絶望、それ以上の感情、つまり「虚無」をもたらすに十分であった。
「あなたには悪いことをしてしまいました、徳真中尉殿。」
と彼はせめて遺体だけはちゃんと返したいと、私にあるホテルのプレジデンシャルスイートルームを教えた。
そこへ行くと翠湖ちゃんに会えるという最後の一言で彼との通話は終わったが、
「翠湖ちゃんはとても優しい子でした。」
ただ一言、翠湖ちゃんは今まで自分が出会ったどんな人より優しくて、私に似た家族思いのある、特にお母さんへの大きな愛情を持った温かくて純粋な子だったと、彼は苦しそうな声でそう呟くだけであった。
「私達は翠湖ちゃんが安心して暮らせる、あの子に似た温かい世界が作りたかった。」
まるでそうするために翠湖ちゃんを取引の条件にする汚い方法を選ぶ道しかなかった自分を責めているような口調。
だがそれは平和の名の下で行われた正当な行為と自分に言い聞かせるだけだと、私はその胸糞悪い偽善を心底から嫌悪した。
私は即「八咫烏」を連れて彼に教えられたホテルへ向かい、翠湖ちゃんを取り返しに行った。
もしその男が言ってたとおりに翠湖ちゃんが動いてくれなかったらその時はどうしたらいいのか、初めて感じる圧倒されるほどの不安感に私の心は徹底的に押しつぶされる一方であった。
「嗚呼…翠湖ちゃん…」
そして自分の目で現実を確かめた時、
「なぜ…なぜおじいちゃんのために笑ってくれないのかい…」
私はその言葉では表すこともできない深い絶望と悲しみに悶えながら、その苦しみに耐えきれないまま、自分の手で頭皮から顔面を丸ごと引き裂いてしまうようになった。
部下たちが罠などを警戒したが、私はその男が翠湖ちゃんで私を誘き出すなんて思わないほど強い確信があって、堂々と真正面から客室のドアを開けた。
見晴らしのいい高級ホテルのプレジデンシャルスイートルーム。
部屋に怪しい気配はなく、人影も見当たらない。
むしろ温かくて心地よい雰囲気が漂ってとても落ち着くいい部屋だった。
「大佐殿、こちらです。」
そして私を呼ぶ部下のところへ足を運んだそこには、
「翠湖ちゃん…」
ベッドの上に眠っている私のたった一人の大切な孫娘、翠湖ちゃんがいた。
緑みの滲んだアッシュブラウンの長い髪。
そして着ていたのは入学のお祝いでおばあさんからプレゼントしたお気に入りのスカイブルーのタイ付きのかわいい洋服。
何より母にそっくりしたくっきりした目鼻立ちと凛々しくて穏やかな顔つき。
疑いようもない。
その真っ白なベッドの上にそっと目を閉じて横になっていたのは、紛れもない目に入れても痛くない我が愛しい孫娘、翠湖ちゃんであった。
まるで昼寝をしているように、非常に穏やかで心地よさそうな寝顔。
だが、触れる手で脈拍を測った時、手先から何も感じないことに気づいた時、私はその小さな体を全力で抱きしめて心の底から泣きわめいてしまった。
冷たい体。
私の泣き声がちっとも聞こえないように、穏やかで和やかな表情で永遠の眠りについた翠湖ちゃんは決していつものような明るい笑顔を向けてくれなかった。
ただ静かに、そして安らかな寝顔で二度と戻れない長い旅に立った。
大好きな母の胸に抱きしめられず、一人で無情に離れてしまった翠湖ちゃんはそうやって私達の傍からいなくなった。
現場で確認した時、翠湖ちゃんにはなんの外傷もなかった。
むしろ部屋中に散らかっているたくさんのおもちゃや絵本から分かるように、翠湖ちゃんは「春雨」に厳重に保護されていた。
それはつまりその男に翠湖ちゃんに危害を加える気は端からなかったということだったが、そんな状況で翠湖ちゃんはなぜ眠るように安らかな死を遂げてしまったのか。
特に持病はない、至って健康だった翠湖ちゃんの奇妙な死に方。
だが、原因はどうであれ、私には娘の珠璃に翠湖ちゃんの死について伝える責任があった。
「珠璃…」
愛する一人娘の翠湖ちゃんがたった一人で長い旅に立ってしまったことを聞かされた時、我が娘はどういう表情で、冷めてしまった娘の体を受け取るのか。
想像するだけで心が壊れてしまうような絶望感が胸の底から湧いてくる。
それでも私は血を吐き出しそうな無念をかろうじてこらえて、自分から直接翠湖ちゃんの死を珠璃に伝えた。
いまだかつて経験したこともない残酷な現実。
そして今も覚えているあの時の珠璃の、全てを失ったような虚ろの表情。
悲しみも、怒りも超越してしまった果てしない深淵。
愛しい瞳には空虚が満ちていて、つややかだった唇はか弱く震えていた。
その絶望的な冷たさに触れた刹那の時、
「嗚呼…珠璃…」
私の心は死んでしまった。
その春には雨が降っていた。
どす黒くて、どっしりした重くて黒い雨。
心まで侵食させてしまうほど、悲しみに満ちたその雨は私達の時間をあの時に縛り付けて、
「雨が降っている。」
今も私達の心の中で降り続いている。
だがそれは狂気の始まりに過ぎなかった。
「生き返らせること、そして生きさせること。それだけが私の使命です。」
目覚めてしまった狂気の怪物。
翠湖ちゃんをあの世へ旅立たせてからその2つの役目に捕らわれていた彼の言葉を全部理解して飲み込むには私はまだ翠湖ちゃんを失われたという悲しみから抜け出していなかったが、それでも私は自分の手で彼を止めるべきであった。
もしあの時の自分が彼の底なし沼のような深淵を垣間見ることができたのなら、迷わずそのぶっ飛んだ頭をかち割ることができたのなら、
「これは珠璃…なのか…」
自分の目であのような悲劇を見ることはなく済んでたかもしれないのに。




