第330話
いつもありがとうございます!
私達、「徳真」一家の幸福が崩れたのは、私の孫、翠湖ちゃんが小学校に入った頃のこと。
「大佐、遺体が見つかりました。」
その日、私は人生初の、心を切り裂かれる絶望を味わわなければならなかった。
「翠湖ちゃん…」
隊員たちが回収してきた白い布を開けて、中にいる顔を自分の目で確かめた時、私は胸が切りされ、崩れてしまう絶望感に飲み込まれてしまった。
何度もどうかあの子ではありませんように、祈りを捧げたこともない神様にすがりつくように願い続けた。
だが、私の浅い信仰を嘲笑うように、バッグの中から出てきたのは薄ら新緑の色が染まったモカグレーの髪の毛を持ったあどけない少女、我が孫の翠湖ちゃんで、
「嗚呼…なぜだ…なぜ…」
私は冷たくなってもう動けない自分の孫の遺体を抱きしめて、絶望の叫びを気を失うまで続けなければならなかった。
でもやはり一番苦しかったのは、
「…そう…」
翠湖ちゃんの死亡を娘の珠璃に知らせた時の、あの子が見せてくれた世界の終わりのような表情であった。
「…春が終わったら終わったら起こして…」
秋の始まりにやってきた土砂降り。
私達家族の時間は今もその雨が降る黒い春に止まっていた。
***
「悪意」。
私はこれを火災や地震、はやり病や飢饉、そして須波などの災害と同じレベルのものだと思っている。
人間が持って生まれたその底なしのどす黒い本能は、その狂気は本人だけではなくこの世界を蝕んで、やがて破滅へ導いてしまう。
まるでウイルスのように他人を破壊しなければ生きられない醜くて野蛮な生き物。
それでも私は自分にやってきてくれた天使たち、珠璃と翠湖ちゃんを守るため、よりよい世界に住ませてあげるために、その醜い生き物の社会を守り、報いてきた。
だが私は忘れていた。
「悪意こそ人を強くする。」
悪意こそ人間だけの強さ。
生き残るものが強くて、そのために手段と目的を問わず、いかなる汚れ仕事も辞さない覚悟ができているものだけがこの歪な世界から生き残れるということを。
私が戦場で身を持って学んだものはそういうことであった。
自分に、私の愛する家族たちに起きた不幸は全部自分の優しさという名前の甘さゆえのもの。
私の社会に貢献したい、よりよい世界にしたいという甘ったれな考えが不幸という形で押しかけられた時、私は心底から自分の弱さを呪ってしまった。
あんなもの考えなければよかったものを、手段と目的を問わず、ただ珠璃と翠湖ちゃん、家族皆の幸福だけを考えておけばよかったものを。
私に全てを犠牲にしても皆を守るための「悪意」が残っていればよかったものをと。
私がその悪意を取り戻したのは戦後のこと。
「いいでしょう。あなたの望み、我々が叶えて差し上げます。」
監獄から出た私の前に突然現れた正真正銘の悪意。
悪意という狂気を身にまとって、いや、人間の形にしたようなその女は帳の中で、確かに私にそう話した。
「あなたから愛娘を、愛する孫娘を奪い、犠牲にして築き上げた歪で偽った世界。悲しいほど脆くて儚くて残酷な世界。
その世界から解放する時が来たのです。」
そしてあなたの娘は必ずあなたの傍に戻り、日常は元通りになる。
必ずそうして見せる。
私からの協力を取引の条件として申し込んできたその女は依然としてその帳から顔を見せてこなかったが、それでも私はその女が持っている悪意の大きさと強さがいかなるものかをよく知っていた。
「薬師寺さん、後は頼みます。」
「承知いたしました。「七曜」様。」
やがてその女は外に立っていた仮面の男に後のことを任せて、私からの答えも聞かずにそのまま席を立って闇の向こうに消えてしまったが、
「…全部くれてやろう…欲しいものがあれば全部持っていけ…」
私の答えはとっくの昔に決まっていた。
「こちらへどうぞ。」
まるで砂漠のど真ん中で死んでゆく兵士のような血生臭くて乾燥した声。
上層部、しかもその女の最側近の印であり緑の官服を着たその仮面の黒髪の男は突然私に見せたいものがあると、どこかに私を連れて行くことにした。
全身を刃物のような凄まじい殺気で覆わせた年齢不詳の男。
背は私より低くてガタイも断然私の方が上だったが、指一本でも触れたらその場で指どころか、腕が丸ごと切り落とされてしまうことを私は身を持って実感している。
あの帳の女は無論、この男にも決して必要以上に関わってはならないと、私の本能が警告している。
これはまさに歩き回る凶器。隙間のない針と刃を詰め込んだ得体のしれない災の箱。
彼は私に語りかけてくることなく、黙々と廊下を渡って私を何処かへ連れて行った。
この刀のような男が一体何を私に見せるつもりなのか、暗闇の廊下を歩き続けている間に私は何度もそれを考えてしまったが、
「「完全沈黙兵器Ribbon・Model槍型」。通称「黄玉」。
まずこれが我々のあなたへの信頼の証です。」
それを自分の目で確かめた時、ようやく自分の新たな役目に気がついてしまった。
死んだ孫娘、翠湖ちゃんにそっくりした顔。
黄色い髪色だけはあの子と違ったが、私にはこれが何なのか分かっている。
電線に繋がれて、まだ眠っているように見えるその愛しいアンドロイドは、
「珠璃…」
亡くなった翠湖ちゃんの代わりに我が娘、珠璃の娘として生まれ変わった4人のアンドロイドの一人、「黄玉」ちゃんであった。
まるで死んだ孫娘が帰ってきてくれたような感覚。
だが、そこから生まれた感情は再会に対する心が踊る喜びではなく、その場で号泣してしまうほどの底なしの無力感と絶望であった。
見届けることもできなかったあの子の成長した姿。
私の記憶の中にいる翠湖ちゃんは小学校に入った時の小さくて可愛かった姿だけ。
あの地獄の9月に私達の時間は止まったまま。
私は二度と戻れないあの子の時間、珠璃の時間を掴もうとするように、何度も記憶から二人の顔を手繰り寄せて気を失ってしまうまで泣いて泣いて泣き続けた。
咳と涙が喉を詰まって呼吸すらままならなかったが、それでも私はそうでもしない限り、この無念を少しでも払える道はないと、そう思って我を失って泣き続けた。
苦しみと悔みにもがき、自分の無力さを心から呪った自分。
ふと痛みを感じられるようになった時、私は血まみれになってあの子の前に俯いていた。
爪が剥がれて、自分で自分の顔面と頭皮を思いっきりひっかき、引き毟った私はずたずたになった顔の皮をして鏡の向こうの醜い自分を見つめていた。
「直ちに手当します。」
こんな私を黙って見ていたその仮面の男は私の自害の傷を治すため、手を差し出したが、
「…このままで結構だから、今はそっとして置いてくれたまえ…」
私は助けは無用だと、このままでいいと、血を垂らしながら立ち上がった。
「あなたはあなたの方法で自分の大切なものを取り戻してください。
必要なのは全てこちらから用意します。」
その仮面の男は確かにそう言いながら、しばらく席を開けてくれるようにトパーズちゃんと私を二人っきりにしてくれた。
あれはおそらくその男なりの私への気遣い。
部屋を出る前に彼は確かに私にこう言った。
「私にも孫娘が一人います。
兄たちに比べたら人殺しとしてはポンコツで、気弱いやつですが、私はそれでいいと思います。」
彼はきっと自分と似たような気持ちを抱えていた私のことを同情して、気を遣ってくれたと、私はその仮面の男、「薬師寺右京」のことをそう思っていた。
そしてその男はその集団を代表して、私にこう言いつけた。
「手段は問いません。いかなる手段も自分の目的のためであれば迷わず取ってください。
あなたならこちらの期待にうまく応えてくださる信じております。
これはあのお方の、七曜様のご意思です。」
明らかにこちらをあの帳の女の駒として扱っているのが分かる発言。
だが、今になってどうでもいいと、その屈辱的な事実すら簡単に飲み込んだ私は、
「約束しよ。必ずあの偽った社会の化けの皮を剥がして、私の娘、珠璃を取り戻してみせる。」
快くお前たちの駒となって全身全霊を捧げて私から全てを奪い去った世界というまがい物をぶっ壊してみせると約束した。
「大丈夫だ。君のお母さんは必ずこのおじいちゃんが取り戻してあげるから。」
まるで眠っているあの子に起こさないように、小さな声でそう呟いた私は、
「少しの心房だ、珠璃。必ず父さんがお前を解放してやる。」
あの子を助けるまで二度と他人の前で自分を見せないと、徹底的に自分を殺して事を進めると決意して、自ら自分のことを「Dogma」と名付け、本格的な「黒」として生きるようにした。
今の社会がどうやって成り立ったのか、今の世界はその当たり前な疑懼すら許さない。
自分たちの恥部と闇を葬るためなら恐ろしいほど手段を選ばない。
救世主「光」の教えだと、調和こそ正義だと綺麗事を並べて、上辺を飾っているその偽った姿はまさに「ドグマ」という名前の悪意。
それに立ち向かって大切なものを取り戻すに何が必要なのか、私はすでに答えを知っていた。
「悪意には悪意で対抗するしかない。」
そう思った私は、たまたま近くに落ちていた変な鳥のお面を被って、それまで自分を永遠に闇に葬っておくことにした。




