第119話
いつもありがとうございます!
「す…すみません…!部長…!」
「は…早くタオル…!」
発表会に向けて放課後の猛練習のはずの合唱部の部室がなぜか騒がしい。
その原因は今年入った新入生達からのちょっとした過ちによるものだった。
「大丈夫ですか!?部長!?」
「もうー大げさだから。こんなことなんとこともないよ。」
っと平然と濡れた足をタオルで拭くうみ。
その余裕の溢れる表情から彼女がこのトラブルについてなんとも思わないということが分かる。
きれいな陶器のように鮮やかで滑らかな珊瑚色の鱗の下半身。
ぴゅっと溢れる生命力で弾ける鰭。
うみは今、実に久しぶりに外で人魚の姿に戻っていたのであった。
お風呂の時を除けば人魚自ら元の姿に戻ることはまずない。
殆どは外部からによるもの。
陸地で動けなくなったら命に直結する問題になりかねないため、うみのように陸地で活動している人魚はなるべく外で元の姿には戻らない。
今回もまた尊重する部長に自分で手作りしたドリンクを差し入れようとした新入部員の気遣いがトラブルの原因になったことに過ぎない。
うみは喉によく効くと自分に飲み物を持ってくれたある1年生のことを嬉しく思っていて、途中で転んで自分の足にぶちまけたことを決して悪く思わなかった。
「あなた!何しているの!」
「す…すみません…!すみません…!」
だがうみの考えがどうであれ、うみは魔界の子たちにとってただのプリマドンナではない。
うみの存在は魔界の子たちにとって神に等しい。
よってただ自分の善意に従った行動した新入部員の落ち度を先輩の子たちは大きな失礼と見做し、ここはビシッと注意するべきだと思って少し厳しい態度を取るようになった。
「そんなのもちゃんとできないの?危ないじゃない!」
「すみません…!」
叱る先輩の子と泣き寸前の1年生。
陸上での人魚の生活の厳しさを知っている子はこれがどれだけ危険な状況なのかよく理解している。
それは吸血鬼が日光に当たってはいけない理由と一脈を通じている。
だがうみはむしろ
「ごめんね?せっかく作ってくれたのに。」
ついに泣き出した後輩に謝って、
「私は本当に大丈夫だから。ほら、もう泣かないで。」
慰めて自分の傍に座らせて心からのお礼を伝えた。
「えっと、確か「富山」さんだったよね?私のためにわざわざありがとう。
よかったら後でもう一度作ってくれない?今度はちゃんと味わいたいんだから。」
「は…はい…」
「もうーすぐ泣いちゃって。可愛いんだから。」
っと笑顔で後輩の目元の涙を拭き取るうみ。
魔界には歴とした「神様」がいるがそれに負けないほどのカリスマ性を誇るうみはそれに等しい存在として認識している。
だがこういう素朴で優しい人柄こそ本当の武器であることを皆はよく知っていた。
第3女子校にある数々の部活の中でも圧倒的に大きさを誇る屈指の部の一つである「合唱部」。
そしてその部長を務めている魔界を代表する「歌姫」「青葉海」。
1年生はもちろん、同じ2年生や先輩である3年生にまで尊敬されている彼女はこの学校において生きる伝説、つまりレジェンドのような存在。
つい最近まで「歌劇少女」、「伝説の歌姫」と呼ばれていた彼女は豊富な演技力と感情に訴える歌声でたくさんの人々を魅了し続けてきた誰もが知っているスーパースターであった。
魔界の人名辞典にも載っている彼女の名前はこの先、末永く語られ続け、永遠に称えられるだろう。
高校に入った途端、突然暫定的活動中止を発表、今はもう「神社」と「教会」の助けがなければ陸地生活もできない普通の女子高生になったうみだがそれでも彼女は相変わらず学校のアイドルで憧れの象徴である。
たとえこのような形になったとしても彼女に憧れている神界の子たちもたくさんいる。
それを知っているからこそうみはこのような状況にしてしまったことに罪悪感を感じていたのであった。
「あの部長…外にお客さんが…」
「お客さん?」
だがそれでも諦めないことがある。
いつまでも舞台の花として咲き続きると思ったうみの人生を丸ごとひっくり返したたった一人。
上辺を飾らずとも、ありのままの自分を受け止めてくれた、受け入れてくれたたった一人。
この世で最も愛し、最も自分を悩ませるたった一人。
「先輩…」
うみは窓の外で自分を待っていた桃色の髪の毛を持った彼女にもう一度歌を歌わせたかった。
***
「ごめんなさい、先輩。この格好で、しかも座ったままで。」
「い…いいえ!私の方こそいきなり押しかけてごめんなさい!
でも本当に良かったのでしょうか…私のせいで他の部員さんたちに迷惑が…」
「いえいえ。合唱部は他にも練習するところありますから。」
もしや自分が練習の邪魔になったのではないかと心配するみらいとそんなみらいに特に気にする必要はないと安心させるうみ。
3年生たちの気遣いでうみを除いた合唱部は他の場所で練習の続きをすることになったが
「き…気まずい…」
正直に言って今のうみにとってみらいとの二人っきりはどうしても避けておきたい居ても立ってもいられない、実にまずい状況であった。
「あ、これ、私が焼いたクッキーです。いっぱい作ってきましたから後で部員さんたちと一緒にどうぞ。」
「あ…ご丁寧にどうも…」
っとテンパってそのようなお礼をした時は、
「何よ…!「ご丁寧にどうも」って…!」
恥ずかしくて今でも消えたいという気分だったが一方もしも今の態度でみらいの機嫌を損ねたらどうしようと、そう思ってしまううみであた。
もちろんこれっぽっちも気に留めないみらいは
「うみちゃん?」
ただそのつぶらの瞳でうみのことを見つめているだけであった。
深みのきれいな桃色の目。
その中に秘められているのは混沌か、それとも調和か。
うみには知る由もないがただ一つ、彼女が誰よりも純粋な心を持っていてすべての人類に「愛」として接していることだけは確信している。
だからこそうみは彼女を愛して、彼女のために学校の敵となった。
「先輩、もしかしてまた胸、大きくなってません?前より胸周りがきつくなったような気がするんですけど。」
っとギシギシになって今でも弾けそうな制服のこと、特に胸辺りのことを気にするうみ。
なんとかボタンが踏ん張ってはいるが少しでも触れたら顔面に飛び込んできそうで危なっかしくて仕方がない。
「そうなんですよ…また大きくなっちゃって…
セシリアちゃんが新しい制服を用意してくれるって言ってましたが私は特注ですから今週まではなんとかこれで凌ぐしか…」
「…お乳お化け…」
それは去年まで上の先輩たちがみらいのことを呼ぶあだ名だったがうみは今もたまにそのあだ名を呼んでみらいのことを羨んでいる。
「ミルクのせいですぐビショビショになって本当に困ったもんですよ…」
「今なんですって?」
無論何も全部羨んでいるわけではない。
「ところで今日はなんのご要件でこんなところまで?先輩のところだって忙しいはずなのに。」
うみはもう同好会の所属ではないがここ最近同好会に関わることが多かったのでそれなりに気にしている。
何よりうみは今もみらいとの同好会での思い出を大切にしているため、その愛情に変わりはない。
だからこそなくならないで欲しい。
その気持ちが自分も知らないうちに本心として出てしまうことをうみはまだ気づいていなかった。
「可愛い後輩ちゃんたちもいっぱい入りましたし、やることなんていくらでもありますから。
私、先輩がうまくやれるのかちょっと心配ですよ。」
「えへへー心配してくれるんですか?やっぱりうみちゃんは優しいですねー」
「べ…別に先輩のためではないんですから…」
っと珍しくツンツンとした照れ隠しをお披露目するうみとそんなうみのことが可愛くて仕方がないみらい。
その時、うみは一瞬だけ去年に時間が巻き戻ったような懐かしい感覚に包まれてしまった。
あんなに避けていたはずのみらいと普通に喋っている自分。
それは得意の演技ではなく、本当は心の何処かでみらいのことを恋しかったという証拠であることを本人はちゃんと気づいている。
恥ずかしくて自分では言えないがそれでも自分の心は相変わらず彼女の方へ向かっていることを再確認できたのがうみは内心嬉しかった。
「実は私、オープンキャンパスの実行委員をやっていて出し物について聞きに来たんです。
もちろんうみちゃんに会いたかったという下心もありましたけど。えへへ。」
「…すぐ言っちゃうんもんね、この人…」
真正面から本音をぶつけてくるみらいのことに調子が狂いそうだが
「マジで結婚したい。」
それがまんざらでもないうみであった。
「早速ですが内容の変更とかはありませんが?」
「はい。問題ありません。前に提出したままでいいです。」
「分かりましたー協力してくれてありがとう、うみちゃん。」
っとまず仕事の方を片付けたみらいは、それからしばらく久しぶりのうみとのお喋りの時間を持つことにした。
「それでかなちゃんがですね?こうやってー」
「それ、赤城さんとか絶対怒るパターンじゃないですか?」
なんの変哲もない話。
だがその時間がもたらす幸福感はここ最近感じたことがないほどの充実さと懐かしさに満ちていた。
いつまでも続いて欲しい幸せな時間。
今の自分にはこういう時間があまり許されていないことを知っているからこそ、うみはみらいとの時間を特別であり、儚いものとして感じていた。
「うみちゃんの足、久しぶりですね。」
「そういえば先輩は久しぶりに見るかもですね。
先ちょっとしたことがあって戻っちゃいましたが全然だいじょうぶです。」
っといつの間にか元の姿に戻ったうみの足の方に移された話題。
珊瑚色のきれいな鱗と鰭は宝石のように綺麗だったが外でこの足のままでは不便であることを知っていたみらいは
「よかったら私が拭いてあげましょうか。」
机の上にあるタオルを持ち上げて自らうみの足を拭いてあげようとした。
一瞬、うみはほんの少しだけ迷ってしまったが
「じゃあ…お願いします。」
結局みらいに触れたいという本能に逆らえず、そのまま足を彼女に委ねてしまった。
「いつ見てもきれいな足。」
「ちょっ…感想は要りませんから…」
また形振り構わず考えていることをそのままぶつけてくるみらいのことに赤くなってしまううみ。
去年まではたまに元の足に戻ってしまう時があって、その度に先輩であるみらいがこうやって自ら後輩のうみの足を丁寧に拭いたものだ。
「く…くすぐったいです…先輩…」
「そうですか?」
傷つけないために丁寧に、そして優しくうみの濡れた足を拭き取るみらい。
その温かい手に薄い快感を感じてしまううみはみらいの手の動きに合わせてビクッと震えてなんとか声が漏れないように必死に自分を抑える。
だがその反応すらみらいにとってはただの懐かしい思い出。
故にみらいは今の時間を決して面倒くさがらず、むしろ大切に思っていた。
「こうしていると去年のことを思い出しますね。とても楽しかったんですよね。」
「ま…まあ…」
懐かしさに浸って去年のことを思い出すみらいと、あまり気にしてないふりをするうみ。
相反した感情の中でうみは何を話せばいいのか少し迷っていたが
「私はやっぱりうみちゃんと一緒だったあの頃の時間を取り戻したいです。」
そんなうみと違って自分の言葉になんの疑心も、ためらいも持たないみらいのことにうみは驚きのあまり言葉も失ってしまった。
「うみちゃん。」
やがて足を拭いていたみらいの手が止まり、
「私にはやっぱりうみちゃんが必要です。」
みらいとの視線が合った時、うみはようやく分かることができた。
彼女のことをずっと縛り付けていたためらい、そして迷い。
それらすべてをすっかり吹っ切れて自分と向き合うことを彼女自ら決めたことを。




