~九十の巻~ 忍び
「先振れも無く突然押し掛けてしまい申し訳ありませんでした。」
改めて私の部屋に入り、私は皇子様と、あの日と同じ様に向かい合うて座らせて戴いたが、人払いをしてしまうた故、何のおもてなしも出来ぬ。
せめて自分でお茶だけでもお持ちしたいと思いたち、一旦奥へ下がらせて戴こうと、お許しを願うたが、
「実を申しますと、本日は秘密裏に忍んで参ったのですよ、誰にも私がこちらに伺っておる事を伝えてはおらぬのです。」
「故に直ぐに戻らねばなりません、ゆっくりさせて戴いておる時間が無いのです。」
「私が先程冗談だと申したのは、そういった事情も有り、残念ながら貴女と戯れておる時間が、本日は無いからなのです。」
時があらば、侍女達の期待に沿う事が出来ましたものを、其れが口惜しくて仕方ありません・・・。
(どう拝見させて戴いても、本気で悔しがられておられる気が・・・、)
私は密かに時が無い事に感謝致した。
「故に私の事はどうぞお気遣い無く、失礼にも突然押し掛けたのは、私の方なのですから。」
斯くして私は、どうぞお掛けくださいと仰る皇子様の向かいに、改めて座らせて戴いた。
◇◇◇◇
「本日失礼にも突然伺いましたのは、どうしても貴女と直接お話させて戴きたかったからなのです。」
「既に貴女が、様々な詰まらぬ噂話を耳にされておられるのでは?そう思うと、矢も盾もたまらず、気付いた時には、内裏を抜け出しておりました。」
皇子様は其の様に仰ると、照れた様な困られた様な微苦笑を私に向けられた。
「正直、自分でも驚きました、私にも斯様にいじらしき一面が有ったのかと。」
「ですが、愚かしい行いをする自分が、私は以前の自分より好きなのですよ。」
私は貴女に、又感謝せねばならぬようです。
そう仰られた皇子様は、まるで幼き少年の様な笑顔だった。




