~八十七の巻~ 機知
恐る恐る振り返ると、其処には、あの花見の宴の際に“タマ”を通じて知り合うた、あの御方が、あの日と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべて立っていらした。
「み、皇子様?」
私が慌てて跪いて礼をとろうとすると、屋敷の縁側から其のまま降りていらした其の御方に、
「衣が汚れます。」
と腕を引き上げられた。
「み、皇子様こそ御御足が・・・、」
私が急ぎ履き物を取りに屋敷の方へ戻ろうとすると、何故か腕を離してくださらない。
「あ・・の・・皇子さ・・ま?」
「只今、お履き物をお持ち致します故、お手をお離しくださりませ。」
私はそうお願い申し上げ、此処迄ご案内して参った侍女に、替えの足袋の用意を申し付けるべく、侍女に向き直り声を掛けようとした。
すると何故か皇子様は、
「はぁ~、」
と大仰に溜め息を吐かれて、
「悲しいものですね・・・、」
「は?」
私は何を仰せなのか理解出来ず、腕を取られたまま、思わず間近に在る麗しきご尊顔を、失礼にもまじまじと見上げてしまうた。
「婚約者から斯様に他人行儀にされるとは・・・。」
そう仰られて、天を仰ぎ、まるで拗ねた子供の如く嘆き悲しんでおられる。
「こ、こ、婚約者などと!恐れ多き事!」
「其のお言葉の意味するところは、私はたった今、袖にされたと解釈せねばならぬのでしょうか?」
「そ、そ、袖に?そ、そ、其の様な、恐れ多き事!」
「では・・・、恐れ多き事なれどお受け戴けた、と解釈して宜しい訳ですね。」
しどろもどろの私に、にっこりと笑い掛けてそう仰る皇子様は、やはり噂通り、たいそうな切れ者に違いない。
私など到底太刀打ち出来ぬ・・・。
「替えの足袋をお持ち致しました。」
機転を利かせた侍女が速やかに替えの足袋を持参し、履き物を携えて皇子様のお足元にお持ちしたので、とりあえず縁側に移動し、皇子様の足袋を替えて差し上げた。
すると・・・、
「斯様に良きものだったのですね、妻に甲斐甲斐しく世話して戴くという事は・・・。」
「私は此れ迄何と愚かだった事でしょう、もっと早くに父上のお言葉に従うべきでした、あの花見を催してくだされた父上に、改めて御礼申し上げねばなりませんね。」
そうそう、其れと勿論“タマ”にも、ですね。
そう片目を瞑られて、おどけたご様子で嬉しそうに仰る皇子様に、どの様にお返事してよいものやら、私は途方に暮れてしまうたのだった。




