~八十六の巻~ 伏兵
「其れにしても、さしもの左大臣様も、とんだ伏兵の存在には気付かれなかったとみえますね。」
(笹野は何故斯様に嬉しそうなのでしょう?)
「姫様が都に戻られて、早五年にござりまするが、皆様の前にお披露目出来る様、あっ、いえ、おほほほほほ、外出遊ばされる様になられたのはここ一年程、何せ其れ迄の四年間は、礼儀作法に姫君の嗜みの数々、香道に詩歌、箏に琵琶等々目まぐるしき日々にて、実に大変でござりました。」
私が睨んでおると、
「コホン、ええ~、斯様な諸々の止ん事無き事情によりまして、まだまだ右大臣家ご息女・珠姫様の存在は、都で知られておりませぬ。」
正に鳶に油揚げをさらわれたご心境でござりましょうね、志摩姫様は・・・。
「うふふふふ・・・。」
「鳶とは誰の事かしら?」
私が更に睨むと、
「まぁ、いつの間にやらすっかり日が高うなって、本日は良きお天気にて、寝具を干しておくよう指示せねばと思うておりましたものを、うっかりしておりました、おほほほ。」
其れでは失礼致します、と慌ただしく部屋から出て行ってしまうた。
廂の外は確かに澄み切った青空だった。
既に初夏を迎え、一年で一番活気に満ちた良い季節だ。
何とのう表を散歩したくなって、廊下から直接庭に降りてみた。
常に綺麗に手入れをされておる庭は、今は様々な木に、薄緑色の可愛らしい若葉が芽吹いて、生命の息吹を感じさせてくれる。
この季節になると、セイと過ごした蓮華野原や野苺の園が、どうしても思い出されてしまう。
よくよく考えてみればまだ五年しか経っておらぬのに、其れはまるで前世の出来事の様だと最近思う。
現実の出来事だったのかさえも、時々信じられぬ様になって、其の様な時は、片時もこの身から離した事の無いこの指輪だけが、唯一の真実の証だった。
珠は指輪を薬指にはめて陽に翳してみた。
未だに、黄金ながら綺麗な青色の光を放つ不思議な指輪。
勿論、誰にも触らせた事も、其れどころか見せた事も無い。
こうして静かに一人で過ごすひと時だけ、珠は時を遡うて、セイと共に過ごす事が出来るのだ。
この指輪の輝きだけが、唯一の真実なのだと、指輪をはめて己に言い聞かせる。
指輪が輝きを失わぬという事は、セイの心が此処に在るという確かな証なのだから・・・。
「随分珍しき輝きの、美しい指輪をされていらっしゃいますね。」
其の時、突如聞こえてきた声に驚き、私は慌てて翳していた手を下ろして指輪を隠した。




