~六十一の巻~ 胸の暗雲
翌朝目覚めると、あれはやはり微睡んでおった時に見た夢だったのではないかと思うた。
あの折、私はうとうとしておって、何を話したかも曖昧だった。
きっとそうに違い無い、何故ならセイもあれ以来何も申さず、今迄と何ら変わらぬ毎日を送っておるのだから。
やはりあれは、どういう訳かは知らぬが私が見た、良くない白昼夢だったのだ。
私が斯様に結論付け始めたある暑い日の夕刻、私達がいつもの様に皆で過ごして、村へと続く一本道のところ迄歩いて来ると、この場所でセイ達とは反対方向故にお別れになるのだが、其の分岐点に、二人の女人が立って私達を見ておる事に気付いた。
おひと方は年の頃、十六、七であろうか、小柄で全体的におっとりとした雰囲気の、温かいお人柄が滲み出てくる様な、優しそうな御方だった。
もうおひと方は、恐らく其の女人の付き人と思しき、年の頃、二十代半ば位であろうか、しっかりとした印象の女人だったが、今は更に固い表情をして此方を見据えておった。
『姉上、斯様に暑き日に外に出られるなど、体に障ります、如何なさりましたか?』
明るい声で其の女人に話し掛けたセイの言葉にはっとした。
(あね・・うえ・・?)
(姉上様!?)
(あの御方がセイの姉上様!)
(然すれば、やはりあれは夢では無かったと?)
(なんてお優しそうな綺麗な方・・・。)
『本日はとても気分が良かったのです。』
『故にお父様が青馬様方のお帰りが遅いので見て来る様にと申し付けておったのを聞きつけ、私が参ります、と申し出て散歩がてらにお迎えにあがったのです、斯様なところ迄出過ぎた真似を致しました事、どうぞお許しくださりませ。』
『其れは足労お掛けし、済まぬ事でした。』
『姉上、紹介致します、珠にござります。』
『珠、姉上だ。』
突然紹介されて、
『お、お初にお目に掛かります、た、珠にござります。』
慌ててご挨拶して顔を上げると、ほんの一瞬、恐らく他の誰も気付かなかったであろうほんの僅かな時、姉上様の瞳が悲しげに揺れた。
然れど直ぐに優しげな微笑みを浮かべられて、
『青馬様の姉の菫にござります。』
『珠様は、ほんにお可愛らしいお嬢様でござりますのね、青馬様が大切になさるお気持ちが解ります。』
そう申されて再び微笑まれた。
然しながら其の瞬間、隣に立っておった女人の鋭い視線が私を射ぬき、私は思わず居竦んでセイの袖の袂を握り締めてしまうた。
するとセイの温かい手が、そっと私の手に重なったので、其の温もりに涙が出そうになり見上げると、優しい目で私を見つめておるセイと目が合うた。
(セイ・・・。)
嬉しくて更にぎゅっと袂を掴もうとした其の時、
『直に日が暮れまする、余り遅くなられると、珠様の屋敷の皆様もご心配なされましょう。』
と仰る姉上様のお声が掛かった。
『そうだな、帰り道気を付けよ、又明日、な。』
セイはそう申して優しく私の頭を撫でてくれたが、視線を感じてちらりと其方に目をやると、あの女人が最早不快さを隠そうともせずに、私の事を睨んでおった。
『桐依!』
私の視線に気付いた姉上様が、女人を鋭く嗜めて、
『行きましょう。』
そう仰ると、私の方に向き直り、丁寧にお辞儀をされて歩き出された。
セイと和哉様も少し離れて其れに続き、セイは少し歩いてから一度だけ振り返って、私に手を振り、其の後は今度こそ真っ直ぐに歩いて行ってしまうた。
私はざわざわと落ち着かぬ胸に手を当て、この不快な心持ちを静めようと試みたが、姉上様の悲しげなお顔と、共に歩いて行った姉上様とセイの後ろ姿が目の前をちらつき、もやもやした不快な暗雲は益々胸の中に広がって、最早抑える事など出来ぬのだった。
其れから一言も発せず、屋敷迄の道を早足でただ黙々と歩いておると、
風矢が、
『青馬殿の姉上様は、お綺麗な方だなぁ!』
などと申して、騒ぎ立てるのを、
笹野が、
『風矢様!しぃ~っ!』
と遮り、
『はっ?何がだ?悪い事など何も申しておらぬではないか?』
例の如く私の後ろで揉めておったが、見慣れた筈の二人の斯様なやり取りでさえ、もやもやした心を更に煽る呼び水にしかならず、ただただ早く一人になりたいと、益々足を速めたのだが、斯様な不安定な心を抱えた私の元に、更なる嵐が屋敷で待ち構えておったのだった・・・。




