第七話 邂逅
皇帝陛下の恋物語を知っているかい?
ああ、そうとも、都では知らない人はいないだろうねぇ。
俺は悲恋だと思ったね、でも向かいのじじいは違うっていうんだ。
あれこそが真実の愛だって。
俺にはわかんないね。想いあってるのに一緒にいられないなんて、悲劇じゃねぇか。
そんでさぁ、『銀の方』って本当にいたんだって?
銀の髪に紫の瞳って、どこの御伽噺だよ、なぁ?
いたとしてももうばあさんだろう? 俺は興味ないね。銀の髪だって白髪になってるよ。
……でもさ、もし本当にいるんなら、陛下に会わせてやりたいよな。
人生の最期くらいはさ、俺だって好きな女と過ごしたいさ。
*
幾度目の、春が巡ってきたのだろう。
晴れ渡った空の上に、怪しげな動きを見せるひつじ雲が一つ。周囲の雲とは全く違う早いスピードで、風を切って移動していく。
「おいっ、ウー! いきなり来て雲に乗せて、一体どこへ行こうと言うんだ?」
太陽にきらりと反射する銀の髪を乱しながら安里は叫んだ。
「まぁ、とりあえずしがみついてろよ。着きゃわかる」
飄々と答えるウーに不満げな顔を向けながら、安里は彼の服の裾を掴む。こんな高い空の上から、落とされてはたまらない。
「……しかしお前、全然老けないのは何だ? もうじいさんと呼ばれる年齢だろうが?」
ウーの、さすがに皺はあるものの若いころとあまり変わらない色艶の肌に、安里は疑問を呈する。ウーが不死になってはいないことは、気配で分かっている。
「はははっ! 俺も不思議なんだけど! 俺って昔っから若作りだから! やっぱ気合だな、気合!」
豪快に笑い飛ばすウーは、年を取っても言動すら何ひとつ変わっていなかった。
あの日、離宮を離れた日。自分と共にウーも去った。だがその先一緒に行動することはなく、ウーは焔火とともに姿を消した。
あれから何十年経ったことか。
気配を消して行動するのをやめた安里の元へ、ウーは何度か精霊を介して伝言を送ってきた。どこへ行ってきたとか、次はどこへ行くとか、不死の手がかりを求める旅は安里の放浪と同じように終わることはないようだ。そうして連絡は取っていたものの、実際に会ってはいなかったウーが、別れたときと寸分違わない自分の姿を、もし次に会った時にはどう思うのかと少し不安に思っていた安里だったが、それは杞憂に終わった。
今朝ウーは突然やってきて、「おう、安里、行くぞ!」とだけ言い、その場から半ば攫う様に安里を連れ出したのである。いきなりのことでわけが分からない安里だったが、少なくともウーは相変わらずで、安里の姿に驚きもしないしからかいもしなかった。そのことに安里はこっそりと安堵していた。
ウーが集めた風の精霊によって無理矢理固められた雲は、空気を切るようにして飛んでいく。花幻は不満そうな顔をしつつも、安里を空圧から守る為に結界を張っている。
ふと見渡せば、どこまでも青く広がる空。眼下には緑の山々。ウーは時々太陽を見上げ、また地上を見下ろし位置を確認しているようだ。安里はこの滅茶苦茶な飛行術を得意とする幼馴染の背中を見つめ、苦笑した。その辺を飛んでいる風の精霊を捕まえるというウーとしては至極当たり前なこの移動法であるが、精霊使いの世界でも全くもって一般的ではない。
雲の間から見える街々に無感情な視線をやって、安里は思考に沈む。
都を去った安里は、遠く離れた山の中でひっそりと暮らしていた。花幻が幻術で安里の髪や目の色を変える方法を覚えてから、だいぶ人との関わりが楽になったが、それでも人里や市場へ行くのは月に数えるほどだった。滋味深い山の恵みは安里を飢えさせることはなかったし、寒くなったら南へ、暑くなったら北へ、山を移動すればいい。時々市場へ行って薬草や鉱石を換金して衣服を調達すれば、安里は生きていくうえでなんら不自由することはなかった。
振り落とされないようにしっかりと掴ってウーの背中を眺めていた安里は、小さなため息をついた。
……花幻とふたりぼっち。それでもこの数十年は、自分にとって幸せだった。
無意味にどこまでも続いていく時間の中で、たった一つの約束が安里の心を支えていた。今日か、明日か、と呼ばれる日を待ちわびて過ごす日々は、決して悪くなかった。
「……結局、呼ばれることはなかったな」
ぼそりと呟いた安里に、ウーが振り向く。
「んー? 何か言ったか?」
「いや、何でも」
ウーとの再会は、安里の胸に彼の人の姿を鮮やかに蘇らせた。……あの時のままで。そして考えないようにしてきた時の流れを否応なしに安里に突きつけた。
――元気で、過ごしているだろうか。それとも、もう――。
心に沈んだ澱が、揺らめいた気がした。
*
絢爛な春が花開いた宮。
緑が萌え、色とりどりの花が咲き乱れている。風に乗って運ばれてきた芳しい花の香りを、胸いっぱいに吸い込む。
赤い窓枠に手を掛け、大きく開け放した窓から美しく整えられた庭園を眺める灰色の瞳。黒々としていた髪にも白い筋が混ざるようになり、張りのあった肌にも幾筋の皺が年月を刻んでいる。過ぎ去ってしまった長い長い時を惜しむ間もなくまた、時はそ知らぬ顔をして去っていく。
かつて最愛の人と過ごした離宮に、いま彼は寝起きしていた。頼もしく成長した息子達に全てを任せ隠居して数年。長年政務に励んだ体は、知らない内に消耗し病魔が彼を蝕んでいた。
あちこちを悪くして思うように動かなくなってきた体を不自由に思いつつも窓辺の卓の席に着き、ひとり自分で淹れたお茶を口に含む。この銘柄しか飲まないと頑固にこだわってきた茶葉は、何十年経った今でもかつてと同じ芳しい香りを立てる。それはいつでもたった数ヶ月の思い出を彼の中に蘇らせ、その度に感傷に疼くことになるのだが、それでもそうすることをやめないし、やめることはできなかった。
……もう自分は長くない。そのことが分かっていて、彼はため息をつく。
「約束は……果たせそうにないな。安里……」
蒼潤の潤んだ灰色の瞳に、かつて共に眺めた時よりだいぶ大きく成長した梅が満開の花を咲かせる姿が映っていた。
ひゅるるるる……というおかしな音が聞こえ、蒼潤はふと、空を眺める。とたん、土煙とともに風が舞い上がり、反射的に目を瞑った。
「……ったぁ! おい花幻! この着地のざまは何だ! 子精霊を助けてやれって言ったろ!」
土ぼこりの中から、聞きなれた友人の声がした。蒼潤は予想通りの登場にくすりと笑った。
「まぁ! あんな急に言われても、何も出来ませんわ! すぐに結界を張って衝撃を和らげただけ、マシというものですわ!」
しかし、『花幻』という名前に首を傾げ、またそこに人影がもうひとつ現れたのに目を瞬く。ばさばさと衣を叩く音に混じり、蒼潤の耳に懐かしく、ずっと待ち望んでいた声が届く。
「今のはお前が悪い、ウー。準備という言葉を知らんのか、お前は」
信じられない思いで目を開いた蒼潤の前に、別れた時と全く変わりない、銀の髪に紫の瞳の少女が立っていた。
「っ……! 安里……!」
思わず窓から身を乗り出して呼びかけた蒼潤に、安里は何か様々な感情を綯い交ぜにしたような表情で笑った。
「……蒼潤」
*
「それにしてもひどいな、ウー。予告もなしに安里を連れてくるとは」
いつも蒼潤がひとりで茶を飲んでいた卓は、人数分の茶器と大量の茶菓子ですっかりにぎやかになった。花幻が運んでいるために宙に浮いているように見える薬缶も、異様な光景のはずなのに懐かしくて涙が出そうになる。
蒼潤はすっかり皺の寄った頬を撫でて、苦笑した。まさかこの卓を皆でまた囲む日が来るとは思っていなかった。こんな風に再会するとも。
「お前がくたばる前に、会わせてやろうっていう俺の優しさだろうが! こうして連れて来なかったら、会わずにそのまま死んでたくせに」
遠慮のかけらもなく茶菓子を次々に口へ放り込みながら、ウーが気遣いなど微塵もない明け透けな台詞を吐き出す。蒼潤は笑顔でなくその口端を引きつらせた。
「ウー、そなた、普通はそう思っていても『くたばる』などという言葉は選らばぬものだぞ」
蒼潤のもっともな言い分に、甘い茶菓子を口にたくさん詰めた状態で「うーうー」と唸って返事にならない返事を返したウーは、ごくりと茶菓子を飲み下し、蒼潤と安里を見比べた。そしてずるずると茶を啜り、飲み干し、がたんと立ち上がって唐突に言った。
「じゃ、あとは二人で好きにやんな。俺はちょっと出てくるからよ。……焔火、花幻、行くぞ!」
ぱっと中空に現れた焔火はにこやかな顔でこくりと頷く。花幻は、
「はぁ? なぜ私があなたと一緒に……!」
などと言いつつも、ウーに引きずられてその場を去った。まるで一陣の突風が吹いてきていろいろ巻き込んで去っていったかのような慌しさだった。
ウーひとりがいなくなっただけなのに賑やかさが消えて、いきなり取り残された蒼潤と安里は、気まずげに茶を啜る。
「……元気そうで何よりだ、安里」
当たり障りのない文句を口にした蒼潤に、安里はぶっきらぼうに答える。
「お前は老いたな、蒼潤」
その変わらない物言いに、蒼潤は笑った。
「あれから三十年、いや四十年か……。私はすっかり年を取って、今や立派な病持ちだよ。いつまでも老けないウーが羨ましい。あれで私より年上なのだぞ」
ぷうと頬を膨らませて言った蒼潤に、安里も思わず笑った。老いて皺が寄って、病気のためにすっかり痩せてしまっていても、蒼潤の純粋さは、あの頃と変わっていない。
「あれは何も考えていないからな。馬鹿は年を取らん。蒼潤は、あいつと違って繊細だから、いろいろ考えすぎて病気まで抱えるんだ」
馬鹿呼ばわりされたウーは、今頃どこかでくしゃみしているだろう。そう考えて、蒼潤も自然と可笑しくなった。
年相応の穏やかな雰囲気が流れて、二人の間の気配も落ち着いてきた。これまでの他愛のない話をぽつぽつとしながら、茶菓子をつまみ、お茶で喉を潤す。
まるで、何十年かの隔たりなどなかったかのような、昨日の続きのような、そんな気さえ起こさせるほど、温かい気持ちが胸を満たす、そんな時間だった。
と、安里の視線の先に、ちらりと小さなものが横切った。瞬きして扉の方を見つめると、小さな子供が、ひょっこりと顔を出した。
「……あれは…誰の子だ?」
目線を固定したままで呟いた安里に、それを辿って蒼潤は答えに行き着く。
「ああ……。私の子だよ。おいで、春姫」
優しい蒼潤の声に、呼ばれた子供はとことこと近づいてきた。赤く鮮やかな衣を可愛らしく着飾った、まだ小さな姫君だった。
「ちちうえ、このかたはどなたですか?」
「この人はね、春姫。父上のとても大切な人なのだよ」
小さな娘を抱き上げて、愛しげにほお擦りする蒼潤に、安里は、ちり、と胸が焦げるような痛みを感じた。
「子供が……いるのか」
「ああ、皇帝たるもの、血筋を残すことも仕事のうちだからな……。他にも二人。今は一番上の息子が跡を継いでいるよ」
穏やかに答えた蒼潤に、安里は無言で幼い姫を見つめた。……ああ、この灰色の瞳は確かに、蒼潤のものだ。
「似ているな、お前に」
「ああ、そうだな」
それっきり黙りこんでしまった無言の二人を包むように、大きな太陽は夕焼けの光で室内を満たし、ゆっくりゆっくりと山の向こうに沈んでいった。