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第六話 選択




 一夜明けた空は、すっきりと晴れ渡った青だった。雨の後の朝は空気が澄んで清清しい。


 安里は窓を開け、茶器を用意した。椅子に腰掛け、何をするでもなく外を眺める。

 徐々に春めいてきた庭に、様々な花の蕾が膨らみ、咲き出している。朝露を受け光る葉の緑も眩しい。池の魚が優雅に泳ぎながら口を開けて餌を待っている。

 

 ふわりと届いた梅の香りをかぎ、安里はふと思い立ったように茶を入れ、ひとり啜る。



 蒼潤は、来なかった。時間になっても、……来なかった。



 いつものようになんの感情も映さない瞳で、安里はそのまま外を眺めていた。

 

 ……日が、暮れてしまうまで。



     *



「陛下、少しよろしいでしょうか?」


 移動中の蒼潤(ツァンルン)を呼び止めたのは、宮廷きっての老臣、陸亮(ルーリャン)だった。

 陸亮は先立っての夜に安里を襲撃したことが蒼潤に伝わっていないことに安堵しつつも、それを言わない安里と、あのときの安里の様子がどうしても気になっていた。墓穴を掘るわけにはいかないので何も言わずにおくのが一番なのだが、ある意味で非常に真面目なのが彼の性格だった。しかし、やはり精神的に参っているのかいつもの精悍な顔はどこへやら、青白い顔で蒼潤に声を掛けた。


「あの……陛下。あの娘のことなのですが」


 言いかけて蒼潤の顔を見た陸亮は、思わず口を噤んだ。見たことの無い蒼潤の憔悴しきった様子に、続く言葉を失う。

 寝不足なのが見て取れる肌、赤く血走る瞳。精気のない不安定な立ち姿。

 幼少の頃より見守ってきてはや十七年、蒼潤がこんなにも弱いところを周りに見せたことなどない。生まれついての皇帝。そうあるべきだと育てられ、その期待に応えてきた蒼潤が。戦続きの野営の天幕の中でさえ、彼の気丈な、立派な振る舞いに親のような気分で感心していたというのに、この様子は一体どうしたことか。


「……なんだ? 安里がどうした……?」


「い、いえ、何でも……ありませぬ」


 返されたまた弱弱しい張りのない声に、陸亮はそう言うほかなかった。

 

「そうか」


 そのままふらりと去っていく蒼潤の後ろ姿を、複雑な思いで見つめる。蒼潤に付き従う呉晴が、何かを言いたげに一瞬こちらを見遣ったが、それだけだった。最後尾の近衛が角を曲がるまで見送って、陸亮はぽつりとこぼした。


「何が……あったのだ?」


 不意に吹いてきた風に梅の香りを感じた陸亮は、梅の木の向こう、離宮の方角へそっと目を遣り眉間にしわを寄せた。しばらく白い髭を風にたなびかせて考え込んでいたが、何かを諦めるように首を振り、静かにその場を後にした。

 


    *



酒の匂いを撒き散らし、夜は更けていく。



 見慣れた寝室の、使い慣れた卓に着く見慣れない人々。揺らめく篝火(かがりび)の明かりが部屋の隅で静かに燃えている。


 ウーが蒼潤の寝室に現れたのは夜の帳が落ちていくばくもしない頃だった。前触れもなく現れて、手に持った小さな酒瓶を差し出してきたのを、呉晴(ウーチン)なら「無礼な!」と憤慨しそうなところだが、蒼潤は少し付き合うくらいなら、と何の気なしに受け入れた。


 ウー持参の酒はすぐに空になり、それならと蒼潤が手配させた高級な酒も、乾いた砂が水を吸い取るのと同じような速度で、卓を囲むそれぞれの腹の中に沈み、底が見えるようになった甕がいくつか床に転がっている。


 こんなに飲むつもりはなかったのに、これは一体どうしたことだろう、と蒼潤は既に朦朧としてきた意識の中で考えた。手にした杯の中に映る自分の顔の情けない顔を見て、笑いが込み上げてくる。


 ……安里の過去を知ってから五日。執務だけは何とかこなしながら、蒼潤は精神的に参っていた。

 会いに行かなければ、と思うのに、足が遠のく。このままでは安里を失うことになると、危機感だけが募る。


 ……好きなのだ、まだ。


 杯の中に少し残った酒を一息に飲み干し、情けない自分の姿を消す。


 ……そうだ、私は、まだ。


 過去を知り、秘密を知った。

  人とは違う時間の中に身を置く安里。それでも、自分はまだ彼女を諦められない。だが……



「ね―! ちょっと聞いてますの?」


 蒼潤の思考を遮ったのは、花幻(ファーファン)であった。

 ウーとふたりで始まった酒盛りに、なぜか途中から割り込んできた。既に相当な量を飲んでいて、今や完全な酔っ払いである。


「あ、ああ、いや、すまん……」


 不思議なことに、蒼潤に花幻の姿が見え、声も聞こえていた。

 体調の良くないところに飲んだ酒は、蒼潤を常より酔わせていた。花幻が見えている不思議について問うたところ、「酒の力は偉大だなっ」と返してきたウーの言葉に、蒼潤は首を傾げつつも一応納得した。

 花幻は大体二十台前半の女性の容貌をしていて、頭の上の方でひとつにまとめて腰まで落ちる長い髪は薄い茶色、瞳も髪と同色の茶色だった。つり上がり気味の勝気な目は、怒るときにはもっと吊り上るんだろうな、実際見えてたらすごく怖いだろうな、などと蒼潤はぼんやり思った。


「私はっ! 頼りなく情けないあなたに一つだけ感謝していると言っているのです!」


「……はっ?」


 突然の話の展開に、蒼潤は間抜けにもぽかんと口を開けた。なぜ今自分は酔っぱらった精霊にくだを巻かれているのだろうか。それより全く話についていけない。今はいったいどんな状況なんだろう。

 そんな蒼潤をじとっと見つめ、花幻は眉間にしわを寄せつつ悔しそうに言った。


「その顔ですわ……。その間抜けた、情けない顔を見るたび、安里様は柔らかくなるのです。此処(ここ)へ来てから、安里様はよくお笑いになるようになりました」


 花幻はぐいっと杯をあおり、口を尖らせた。


「以前はそのようなことはなかった……、と言うより安里様は人との付き合いを絶ってこられましたから、今のように毎日誰かと顔を合わせ、話すなどと言うことはなかったのです。もちろん私は安里様のお話相手になりましたわよ、でも、違うのです」


 じじっと燃える篝火に揺れる影は二つ。

 実体を持たない花幻の影は映らない。ただその白く丸い頬と茶色がかった長い髪に、夕日の色の明かりが妙に映えていた。花幻は長い睫毛を伏せ、空っぽの杯を握り締めた。


「私に対する笑顔とは、少し違うような気がするのですわ……。あの顔は……」


 搾り出すように言葉を紡いでいた花幻が、意を決したかのように蒼潤に向き直った。


「……認めたくはありませんが、おそらく、そう、あなたのお蔭なのです!」


 瞬間、ういっく、と目線を泳がせながらも言い切った花幻に、蒼潤は驚きつつも花幻の言わんとするところを読み取り、複雑な表情で目を細めた。


「そう……なのかな? そうだったら……、私も嬉しいが……」


「安里様に付き従うこの私がそう申すのですから、そうなのです!」


 もう完全な絡み酒でわーわーと一人で(わめ)く花幻に、それまで話を聞いて黙って飲んでいたウーはため息とともに言った。


「お前、もう戻れ、花幻。飲みすぎだ。焔火(イェンフォ)、連れて行ってやれ」


 蒼潤は突然目の前にふわりと揺らめいた火の玉に目を丸くした。さらに火の玉が可愛らしい赤髪の少年に変化したのに目を瞬いた。

 騒ぎ疲れたのか杯を放り投げて船を漕ぎ出した花幻を抱きかかえた、赤い髪と赤い瞳の少年は、蒼潤とウーに向かってぺこりと頭を下げ、そしてすうっと姿を消した。

 突然の少年の出現と消失に、わけもわからず呆気にとられた蒼潤は、そのままの顔でウーに問うた。


「あ、あの少年はそなたの精霊……なのか?」


 ウーは酒を口に運びながら、ぶっきらぼうに答えた。


「そうだ。あれがこないだの話に出た焔火さ。俺の守護精霊だ」


「精霊にもいろいろいるのだな……」


 花幻が見えたときは、かなり酔っていて夢うつつで、あまり驚かなかったが、少し酒が抜けて来たところでの火の玉の登場は、本気で肝を冷やした。しかも火の玉があどけない少年に変化したのだから、驚きは倍以上だ。動揺を誤魔化すように酒を口に含んだ蒼潤の耳に、ウーの低い声が響いた。


「大抵の人間の反応ってのはそんなもんだ。精霊なんて普通の人間は受け入れねぇ。第一見えないしな」


 一度言葉を切って酒を飲んだウーの態度がなんだか険悪になった気がして、蒼潤は恐る恐る口を挟んだ。


「いや、私は、その……。確かに驚きはしたが、花幻や……焔火といったか、彼らを恐れる気持ちは少しも……」


 ダンッ!と卓に酒盃を叩き付けたウーに、蒼潤は目を見張る。ピリピリした気配がウーを取り巻き、それまで明るくゆらゆら光を放っていた篝火がふっと消えてしまった。


「お前が恐れなくても! お前の周りのすべての人間が、精霊を、安里を恐れる!」


 強い口調で言い切られた言葉に、すぐに蒼潤は反論できない。

 灯りのなくなった暗い部屋の中、ウーの険しい表情が月明かりに浮かび上がる。


「この宮でお前と、呉晴と言ったな、あの側近以外、安里に近づくやつはいない。……ここ数日、観察した結果だ。人間は変わったやつを排除する。俺たちが小さい頃から里にいた理由が分かるか? 里の人間はみんな世間の爪弾きにあってきた。精霊を感じ、虚空に向かって話しをする、それだけであいつはおかしい、話しかけるな、呪われるぞってな。安里は気付いてるはずだ。避けられてることを。お前は、そんなところに安里をずっと縛り付けるつもりか?」


 一種の世間知らずである蒼潤は、自分自身が敬われ、避けられる存在であるが故に、宮中の人間の安里に対する態度を気にかけたことがなかった。だが突きつけられた事実に、すっと血の気が引く思いがした。

 ウーは半ば据わった目で、胸中の感情を爆発させるように大声を出した。


「それにな、お前が信じたかどうかは知らないが、あいつは本当にもう年を取らない。お前はいいかも知れないよ、ずっと好きになったときの安里のままだ。……だがあいつの気持ちは? 傍で年老いていくお前を見てなきゃならないあいつの気持ちはどうするんだよ!」


「っ……私はっ!」


 堪らず声を出した蒼潤に反論の余地を挟ませず、激昂したウーは蒼潤の胸倉を掴み掛かった。


「俺は認めねぇ! 偶々先に安里を見つけたのがお前だっただけだ! お前の前では笑顔になるなんて、俺は認めねぇぞ!」


 嫉妬を丸出しにしてくだを巻くウーに掴み掛かられながらも、こちらも行き場のない感情を昇華する場所を探していた蒼潤は、酒の力を借りつつ自分もウーに掴み掛かり、きっぱりと言い放った。立ち位置は同じだ、と。


「そなたが認めようと認めまいと、安里が私に笑いかけてくれるのは事実だ! ……それに年老いていくのはそなたも同じであろう! 今更安里の前に現れて、そなたはどうしようというのだ!」

 

 ふんっと鼻であしらうように、半眼で蒼潤を見下ろしながらウーは言った。


「……俺も、不死になる」


 その答えに一瞬力を抜いてしまった蒼潤は、ウーの腕力に突き飛ばされてしまった。床に倒れた蒼潤をそのままに、ウーは話を止めない。


「悩んで迷ってばかりのお前には考えも付かないだろうけどな! 俺はその方法を探して旅してんだ! ……あいつと一緒に永遠を生きるために。だが……」


 わざわざ言葉を切り、身を乗り出して蒼潤に顔を近づけたウーは、おもむろに言った。


「お前にその覚悟はないだろう…? それにお前は皇帝陛下だ、その身分を捨てることは、許されない」


 ウーの言葉と圧力に圧倒されてしまった蒼潤は、床に座り込んだまま、それでも己の矜持から視線だけはウーから外さずに黙っていた。

 ウーは言うだけ言って満足したのか、「……じゃ、俺も失礼するぜ。馳走になったな」と、酒の礼だけは律儀にも言ってそのまま去って行ってしまった。



 それまでの煩さが霧のように立ち消え、室内に静寂が満ちる。


 開け放たれた窓から仄かに月の光が差し込むだけの暗闇で、蒼潤は立ち上がることもせず、しばらくぼんやりしていた。そしてそのうち糸が切れた人形が無理矢理動かされているようなぎくしゃくした動作で、近くにあった寝台に背中を預け、首をもたせた。


 初めて人に掴み掛かり激しく声を荒げた蒼潤は、落ち着いては来たもののまだ脈打つ鼓動を感じながら、大きく息を吸い、吐き出した。

 

『お前にその覚悟はないだろう…? それにお前は皇帝陛下だ、その身分を捨てることは、許されない』


 ウーに言われた言葉が、針のように鋭く心に突き刺さる。


 わかっている。誰に言われなくとも。


 自分が『皇帝』であることは生れ落ちたときから決まっていたこと。そしてそのように自分は生きてきたのだ。

 激しい頭痛が蒼潤を苛むが、それどころではない。

 

 わかっている。すでに子供ではない。

 自分を取り巻くあらゆる現実が、自分に選択を迫っている。そのことがわかっていて、それでも――。


「っ……。安…里……」


 身を縮ませて頭を抱えた蒼潤の耳に、少し高めの、澄んだ声が響く。




「酒盛りは、終わったのか?」




 どのくらいの間ぼんやりしていたのか、すっかり固まってしまった頭を持ち上げて首をめぐらすのに、窓から射す月明かりを背に表情がよく見えない。


「……ひどい顔だな」


 くすくすと控えめな笑い声が聞こえ、軽い足音がゆっくりと寝台へ近づく。


「安…里……」


 五日ぶりの安里の声に気持ちが高鳴る。だが蒼潤がやっとのことで振り絞った声はひどくかすれてしまっていて、酒と疲れに憔悴しきった身体は、思うように動かない。

 安里は座り込んでいる蒼潤のところへ歩み寄り、身をかがめて蒼潤の顔を覗きこんだ。そしてあたりを見回し水差しを見つけると、杯に水を注ぎ蒼潤に差し出す。


 水を飲んで少し落ち着いた様子の蒼潤の隣に、安里は静かに腰を下ろした。


「ウーが、悪かったな。あやつがあんなに飲むとは、私も知らなかったが」


 その安里の言葉に、蒼潤はむっとした。


「そなたが……謝らないでくれ」


 酒のせいで傷むのどを蒼潤は懸命に震わす。


「そなたが、ウーの代わりに謝ると、私より、ウーの方が、そなたに近いと言われたようで……嫌だ……」


 好きな人の一番近くにいるのは自分でありたい。そういう小さな嫉妬心の表れであった。


「……そうか。すまぬ」


 蒼潤の気持ちに気づいているのかいないのか、安里はぼそりと、そっけなく答えた。


 床に並んで座った二人は、暗い夜の闇の中、しばらくの間声を発することなく、ぼんやりしていた。


 安里が、隣にいる。


 会いたくて、会いたくなかった安里を前に、蒼潤は何をどういったらいいか、全く分からずにいた。頭の中は真っ白で、すべてが空白なようでいて、でもどこにも余白のないような、そんな混乱に目が回るようだった。


 さっきまで、何を考えていた?何を言おうとしていた?


 安里を目の前にして、蒼潤は結局何も言い出せないまま、目の前の虚空を見つめるしかなかった。


 安里が静かに声を発した。夜の、沈んでいく静けさの中に、そっと染み込んでいく様な響きだった。


「……半年前、声を掛けられたのがお前でよかった、蒼潤。……ここへ来て、お前と話をして、茶を飲んで……。楽しかった」


「そっ……!」


 そんなこと、言わないでほしい。そんな別れの言葉のような。

 蒼潤は必死に体を動かし、安里に向き直る。とたんに胸の奥で燻っていた想いがこぼれでた。


「安…里っ! 私は……! そなたが不死であろうとなんだろうとかまわない! ……愛しているのだ……!」


 悩んで、悩んで、それでも出せなかった答え。皇帝である自分が選んではいけない答え。だが蒼潤というひとりの人間にとって、一番純粋で、素直な願い。


「……私はこの先、誰かと共に過ごすつもりはない」


 安里は遠くに光る月を見つめてそう呟いた。

 決死の告白を無に返すような、何の感情も持たない声音で囁かれた言葉に、蒼潤の灰色の瞳から、必死に堪え続けていた涙がぽろりと落ちた。


「楽しかったから……少し長居し過ぎた……。こんなに一つの所にとどまり続けたことはなかったよ、蒼潤」


 優しく吐息に乗せるように安里は囁き、また優しげな眼差しで蒼潤を見ていた。潤む蒼潤の瞳は、それでもその安里の慈愛に満ちた表情をしっかりと捉えていた。


「うぅ……。っ……!。」


 何かを言うこともできず、嗚咽を漏らす蒼潤の黒髪に、安里の白い手が触れる。


「お前は……本当に難儀だな、蒼潤……」


 いつかのように優しく撫でられる感触に、蒼潤は思わず、隣に座る安里に縋りつくように抱きついた。


「……行かないでおくれ、安里っ! そなたを失っては、私は……!」


 自分がひどく情けないことをしていると蒼潤も分かっている。だが安里の前では、いつも情けなかった。皇帝である自分を忘れた、ただの『蒼潤』は驚くほど子供のようで、純粋で、しかしそれが本来の自分であると安里が教えてくれたのだ。だから今更かっこ悪くとも、どうでも良かった。


「馬鹿だなぁ、蒼潤……。普通は拒絶するものだぞ? 私のようなものを好んで傍に置こうなどと……。計算が、狂ってしまったじゃないか……」


 抱きつかれたままで身じろぎもせずに、滑らかな手触りの蒼潤の髪を安里は撫で続けている。頭の上から苦笑する気配を感じた蒼潤はそっと顔を上げた。


「……? 計算、とは……?」


「いや……こちらの話だ。……なぁ、蒼潤。ひとつ約束をしないか……?」


 苦笑いの表情のまま、安里が提案を持ちかけた。


「約束?」


 うまく誤魔化された気もするが、約束という響きが気になる。


「今、お前はお前の意思で私を手放す……。だが、この先……お前がどうしても私に逢いたいとき、一度だけ、お前の前に現れよう。……どうだ?」


 紫の瞳が、いつもの無表情ではなく、柔らかく優しい光を灯している。


 自分から離れようとする安里の決意がどうにも揺らがないことを、蒼潤は頭のどこかで悟っていた。撫でられている手の感触に、どうしようもない幸福感を感じつつ、蒼潤はその約束に頷いた。

 安里は清楚な花が咲くように小さく微笑んで、蒼潤の頬に流れた涙を拭いながら言った。


「ありがとう……」


 拭かれてはまた流れる涙をどうにも止められず、蒼潤は安里を抱きしめたままその瞼を閉じた。とくとくと刻む安里の鼓動を、耳の近くに感じながら。


 いつの間にか夜の闇は遠ざかり、弱弱しい朝の光が開かれたままの窓から差し込んでいた。




     *




 そのまま眠ってしまった蒼潤は、目覚めたとき、腕の中に抱きしめていたはずの安里が居なくなっていることを冷静に受け止めた。


 ふらりと立ち上がり、座ったまま寝たために体が痛むのもかまわず、寝室を後にする。向かった先は……離宮であった。


 がらんとした室内に靴音が響く。つい先日まで楽しい空気に包まれていた窓辺の卓は、座るものもおらず、ただそこにあるだけだった。

 蒼潤はいつもの席に腰掛け、最愛の人がいつもそうしていたように窓から外を眺める。ゆっくりと煌めいていく、春の日の朝。花を落としはじめてなお、香る梅の木。昨夜の名残のように、ぽろりと、涙がこぼれた。


「安里……」


 小さく、小さく呟かれた声は、扉の外で主を待つ、呉晴と陸亮に聞こえただろうか。

 二人の忠臣は壁に背をもたれ腕を組んだまま、言葉通り皇帝の元を去って行った少女に、思いを馳せるのだった……。




 

     *





 緑の森に立ち込めた朝靄の中に銀の髪が踊る。


 走って、走って、一体どのくらい遠ざかったのだろう。

 走っても、走っても、置き去りにできないこの気持ちの名は。


「赦しなど……私は要らないっ……。蒼潤……蒼潤……!」

 

 崩れるように座り込んで、突き放してきたものの正体を確かめる。握り締めた両手に、落ちる水滴。力なく跪き、祈るように繰り返し呼ばれる名前。……それが答えなのだと、切り刻まれるように痛む胸がそう言う。それでも。




 ……選択は、なされた。






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