第二話 思惑
ある朝、朝食を食べ終えた安里は、ふとお腹を押さえて呟いた。
「ふむ……どうやら毒を盛られたらしい」
その呟きに忠実な精霊はすぐに反応した。
「ご、ご主人様? それは本当ですか?」
「うーん、どうやら誰かが私を殺そうとしているようだなぁ」
安里の、内容の深刻さと合わないのんびりした響きの言葉に、花幻はあっけにとられて目を瞬く。
「ほら、あそこに呪符。あっちは……呪いの人形か?」
およそ七日ほど前から、寝起きしている部屋を中心に、あらゆる呪いの品が置かれ、貼られていた。今までなかった品が急に増えているのだから、気づかない方がおかしいくらいで、しかも日を置くにつれだんだん強力な品になっているのか、禍々しい気配が強くなってきていた。安里はもちろん気がついていたが、あえて放置してきた。
「ここまで徹底してやられるとなぁ……逆に滑稽だな。それにいろいろな呪詛が混ざって……なにやら混沌と言った感じになっているぞ」
花幻は精霊であるために、人が作り出した呪いの気配には疎い。精霊には全く害のないものであるからなおさら気づかなかった。主人に言われて見てみれば、そこかしこに変な呪文のようなものが書かれた紙が張られていた。数日前に侍女が持ってきてくれた可愛らしい人形も呪いの人形だと言われ、開いた口が塞がらない。
部屋を見渡し、感心したように笑う安里に、花幻は興奮しながら言った。
「誰かに呪い殺されようとしているのですよ! そんなのんきなことで良いのですか?」
うーむ、と唸りながら、安里はお腹をさする。
「呪詛がなかなか効かないものだから、強硬手段に出たのだな。まぁ、それも失敗に終わったが」
くすり、と笑った安里の紫の瞳に、剣呑な光が灯った。
*
「ええい、なぜあれほどの呪詛が効かぬ!」
「陸亮様、声が大きいですぞ!」
皇帝が執務する宮。
権力と支配を主張するように高く建てられた五階建ての高楼で、官吏たちが集いそれぞれの業務に励んでいる。広大な敷地には多くの建築物が並び、国中から集められた草木がその新芽を開かんと、緑が瑞々しい香りを放つ。
そんな宮の一角。人気のない建物の一室、怪しげな暗がりの中で、数人の男たちが声を潜める。その中心人物である陸亮は、皇帝に意見し、補佐する立場にある。長きに渡り宮廷に仕え、先代皇帝からの信頼も厚い。今も若き皇帝を支えるために、七十近くなった今なお宮廷に出仕している。
そんな陸亮は今、怒りと焦りを顕にしていた。ここ数日彼が中心になり、実行してきた安里の暗殺計画が、思うような成果を挙げられていないからである。
事の発端はこうだ。御年十七になられた敬愛する陛下に、后を選んでいただく日は近い。むしろ遅いくらいである。陸亮とその他の名立たる老臣たちは、陛下に何度も注進した。だが当の蒼潤は、「私にはまだ早いよ」と言って政務や武芸に打ち込むばかりで、全く興味を示さなかった。
仕方なく機会を伺っていたが、事態は一変した。あれほど女人に興味を示さなかった蒼潤が、突然少女を連れ帰って来たのである。
老臣達はその知らせに喜んだのも束の間、少女のことを聞くなり一様に真っ青になった。
聞けば目鼻立ちは整い、立ち居振る舞いも悪くない。だが……銀の髪に紫の瞳などという容姿はこれまで見たこともなければ聞いたこともない。鬼か妖が化けているのではないか、と、離宮には呪いを恐れて近づく者もいない。
「なぜ陛下はあんなにも御執心なのだ?」
「娘が逃げたのを幾度も追って行かれたとか」
「まさか呪いで陛下のお心を……」
「いや、呪符が効かぬところをみると、その可能性も……」
「毒も効かぬのじゃぞ? 恐ろしい……」
老臣達の議論は、怪しげな方向に向かう。陸亮は、意見を一括するように言った。
「あの娘が何者かなどどうだっていいのだ。我々のすべきことは、陛下の御為、ひいては国の為にあの娘を消すこと。不吉なことが怒ってからでは遅い。……呪いが効かず、毒も効かぬなら、今度こそもっと確実な手段で仕留める」
この言葉に少しざわついた場で、陸亮は老いてなお精悍な光を宿す瞳を細め、ぐにゃりと口端を上げた。
*
陸亮たちがよからぬ計画を話し合っていたその頃。離宮では、物々しい“お祓い”が行われていた。
実は午後の茶を楽しみにいそいそとやってきた蒼潤が、何気なく目を遣った柱の上の方に、呪符を見つけてしまったためである。
「なぜこのようなものがここに?」と考えつつ部屋を見渡したところ、安里が放置しておいた様々な呪いの品を次々と発見、さすがに不審に思った蒼潤が安里に問い質してみれば、安里は数日前からの異変をけろりと白状した。軽い態度の安里に眩暈を覚えつつも、蒼潤は即刻お祓いの手配をしたのであった。
ばたばたと歩き回り次々に呪いの品々を処分していく僧侶たちを横目に、いつもの卓に陣取り、何事もなかったかのように茶をすする少女に、蒼潤は声をかけた。
「安里……なぜもっと早くに私に言ってくれなかったのだ? 呪詛が効かなかったからよかったものの、私の知らぬところで安里が呪い殺されでもしたら、私はもう生きてはいけないよ」
少し俯き、目を潤ませながら語る蒼潤に対し、感情を映さない瞳で、安里は口を開いた。
「遅かれ早かれこうなることくらい、分かっていただろうが。お前は国を治める皇帝陛下。私は生まれも血も定かでない異相の女。歓迎されるはずがあるまい」
他でもない安里に突きつけられた現実に、何も言えず蒼白な顔で黙り込んでしまった蒼潤を見て、安里は更に言葉を続けた。
「お前の心が純粋なのは、お前の美徳だと思うがな。だがお前は皇帝という身分にどうしても縛られる。逃げることはできない、そうだろう? お前の望む正妃になど、私がなれるはずがない。すべて分かっていたことだろう」
「っ……! それでも……!」
大きく目を見開いて、ようやくの思いで蒼潤は声を出す。
「それでも私はそなたを望んでしまう……そなた以外考えられないのだ、安里! 分かっていても、止めることができないのだ!」
必死に思いの丈を吐き出した蒼潤は、そのまま卓に突っ伏してしまった。いっそこの場で泣いてしまいたいと思った蒼潤だったが、ふいに優しい感触を頭に感じ、顔を上げた。
「……本当に難儀なものだな、お前は」
滅多に見せない優しい微笑みを浮かべた安里が、卓を挟んで向かいから手を伸ばし、蒼潤の頭を撫でているのだった。
急に恥ずかしくなってしまった蒼潤は、顔を真っ赤にしながら照れ隠しのように早口で言った。
「冷たかったり、優しかったり、安里はわからぬ……」
口を尖らせて文句を言う蒼潤に、安里は苦笑した。
「私も分からんな、自分の行動が。ただお前があんまり可哀相なのでな。自然と手が出た、そういうことだろう」
苦笑いの表情のままで、安里は蒼潤の頭を撫でた自分の右手を見つめていた。
「安里、そなた……」
「陛下、お祓いは終了いたしました」
突然割って入った側近の呉晴の言葉に、蒼潤の言葉は遮られてしまった。物言いたげに、安里と呉晴の顔を見た後、蒼潤はため息をつきながら呉晴に向かって言った。
「……ご苦労だった。して、誰の仕業かは分かったのか?」
「いえ、残念ながらそこまでは。しかし名のある呪術師の書いた符である事は分かりましたので、そちらから調査すればすぐにも分かりましょう」
「……そうか。ならば引き続き調査を。それから、この離宮の周りの警備を強化するように。怪しげな人物を見かけたらすぐに捕らえられるよう……」
「その必要はないぞ、蒼潤」
突然会話に割って入った安里に、男二人は瞠目してそちらを見た。
「なぜだ? そなたは命を狙われておるのだぞ。警備を増やして少しでも危険から遠ざけねば……」
納得できない顔でそう言った蒼潤に、安里はいつもの感情のない顔で返した。
「私は呪詛や毒では死なぬ。心配は無用だ。兵士にうろうろされては、ただでさえ窮屈な生活がもっと落ち着かなくなる。それに……」
蒼潤の耳を通り抜けた不可解な台詞以上に衝撃的な言葉を、安里は放った。
「お前が望む限り私はここにいるよ、蒼潤」
……絶妙な殺し文句だった。しかもめったに笑わない安里が、可愛らしい笑顔とともに言ったものだから、蒼潤の脳は即座に回転をやめ、ふんわりと漂うような足取りで「そ、そうか、ではな」などと言って去っていってしまった。
「……計算ですか、ご主人様」
実は安里の背後にずっと控えていた花幻が、複雑そうな表情でぼそりと呟いた。
「……さあな」
多くを語らずただ苦笑した安里の前に、まだ呉晴が残っていた。
「まだ何か用が? 側近殿」
問われた呉晴はそこに突っ立ったまま、しばらく一人で考え込んでいた。そしておもむろに口を開いたが、会話はまともに成立しなかった。
「安里殿、あなたは、その……」
「ん?」
「……いや、何でもありません。陛下は今晩はこちらへはいらっしゃらないでしょう。しっかりと戸締りをして、お休みください」
呉晴は当たり障りのないことを口にして、足取り重く去って行った。
わけのわからない呉晴の言動に首を傾げながらも、ようやく静かになった離宮で、安里は誰にともなしに呟く。
「……さて、今夜は忙しくなるかな」
その口元には、幼げな顔立ちに似合わない、不敵な笑みが浮かんでいた。