第一話 皇帝
ふわりと梅の花の香りが、窓から庭を見つめる少女に届いた。
まだ冷たい空気が残っているが、気の早い枝では早くも咲き始めたらしい。安里はやさしい香りを深く吸い込み、満足気なため息をついた。
「今日もいい天気ですわね、安里様」
背後に現れた花幻が、手にしていた茶器を卓の上に置きながらうきうきと言った。
「昨日、風の大爺さまが、そろそろ暖かい風を送ると仰ったようですわ。子精霊たちが嬉しそうに伝えてくれました。もっとも私たち精霊にとっては温度など関係ないのですが、春になれば安里様の衣も春仕様にしなければなりませんもの、忙しくなりますわ!」
茶色の長い髪を風に踊らせながら、嬉しそうに話す花幻に、少しうんざりした顔で、安里はうなった。
「お前がそんなに気合を入れなくとも、衣などあやつがすべて準備するであろうよ。それこそ一春では着尽せぬほどにな」
「私が準備したいのです! 安里様のお召し物の準備をするのは、この花幻の仕事なのですから! 安里様のお召し物は、まず色が難しいのですわよ、そして柄も……」
安里は熱弁を振るい出した風の精霊に苦笑しながらまた窓のほうへ向き直った。と、同時にふわりと温かい何かに抱きかかえるように包まれ、安里は動きを止めた。
「……また政務をさぼってきたのか、帝よ」
「さぼってなどおらぬよ……休憩だ。それに私のことは名前で呼ぶようにと何度言ったら覚えてくれるのだ? 安里」
帝と呼ばれた若い男は、音も気配もなく近づいてきていきなり少女を背後から抱きしめる、という暴挙をやってのけたものの、その優しげな灰色の瞳を細め、腕の中の安里を大切そうに見つめる様は、なんら特別な身分にある者とは思えない。
「またこの男は! 私の安里様に近づき、あまつさえ私に無断で抱きしめるなど! 窓から吹き飛ばしてもよろしいでしょうか? ご主人様?」
安里は、男に抱きしめられている自分の状況を全く気にすることなく、憤慨しつつも物騒なその提案に許可を求めてくる自分の守護精霊に苦笑した。
「花幻よ、いくらお前に人間界のしがらみが無関係でも、一国の皇帝に対してその態度はいかがなものかと思うぞ。……もっとも、こやつを皇帝なのだと思えないのは私も同じだがな」
さらりと自分を無視されていることをこちらも気にするそぶりを見せず、当代皇帝は面白そうに笑い、目線をきょろきょろと彷徨わせた。
「おや、花幻がそこにいるのだね。相変わらずまったく見えないが……。あまり私たち二人の間を邪魔しないでほしいものだな。そうでなくても安里はあまり私に構ってくれないのだから」
その言葉に更に憤慨した花幻は、元々吊り気味の目を更に吊り上げて、小さな竜巻を起こし皇帝に向かって叩きつけた。
「そちらが邪魔をしているのです! 私たちの幸せな時間と空間に邪魔に入ったのはそちらの方! 安里様があなたなどを構わないのは当然のことですわ!」
突然現れた小さな竜巻に襲われた皇帝は、その綺麗に整えられた、背中まで落ちる黒髪をばらばらに乱しながらも、むしろ楽しそうに笑った。
「ははは! 姿の見えない相手と喧嘩をするのは難しいな! 安里、花幻は何と言っているんだい?」
竜巻が起こった瞬間に皇帝の腕の中から逃れ、一方的に仕掛けられた喧嘩を傍から見ていた安里は、振られた問いに嫌そうな顔で答えた。
「……想像に任せる……」
自分への独占欲丸出しの花幻の叫びを、わざわざ口に出して伝えてやるのは憚られたらしい。
その答えがまた可笑しかったのか、更に大声で笑い出す皇帝をそのままに、嫌そうな表情のまま、安里は茶の仕度を始めた。
たっぷりと時間をかけ、作法に則って淹れられたお茶から、豊かな香りが立ち上る。どれだけ高級なお茶なのか安里は知らないし、興味もない。何の気負いもなく普通に二人分のお茶をいれ、ひとつを皇帝に差し出すと、彼はようやく笑いも収まったのか、ゆっくりと席に腰掛け足を組んだ。そして「ありがとう」と笑みを浮かべてから優雅な動作で茶碗を手にし、安里を見つめた。
「本当に安里は美しいな。元の造作も整っているが、銀の髪に紫の瞳。そなた以上に見目麗しい娘など、国中探しても見つからないぞ」
自分も席について、お茶をすすり始めた安里は、その双眸に何の感情も映さないままぽつりと言った。
「……皮肉なものだな。このような異相、大抵は皆近づこうともしない。やはり珍しいものに興味を引かれるものなのか、権力のある者とは」
その言葉に反応し、同感です! と言わんばかりにまた騒ぎ始めた花幻のことなど知らず、じっと安里を見つめたまま、皇帝は次の言葉を口にした。
「……もちろん私はそなたの容姿だけが気に入っているのではないよ。そなたの、身分にとらわれずに私に接してくれるその態度はひどく心地いい。それにそなたの入れてくれる茶は格別だ」
お茶の香りを楽しむように、うっとりと目を細めた皇帝に、安里は辛辣な言葉を放った。
「私は確かにお前を皇帝扱いしないさ、蒼潤。だがそれがお前にとって新鮮に映るだけであろう? 私は世の中のことに興味がないだけで、特別なことをしているつもりはない。それに茶など、いくらでもいるだろう、おいしく淹れられる者が。わざわざ私を籠の鳥にしておくこともないと思うがな」
ゆっくりと茶をすすり、何事もなかったかのように茶菓子を食べ始める安里を熱の篭った瞳で見つめ、皇帝、蒼潤は大きなため息をついた。
「……なぜそなたは私の気持ちを受け入れてはくれないのだろうな。確かに私と一緒にいれば、国を導くものとしてたくさんの困難に直面するかもしれない……。だが私はそれをそなたに負わせるつもりはないし、私の望みは、ただそなたと共にいることなのだ……」
毛先までまっすぐな輝かしい銀の髪。見る者を吸い込む稀なる紫の瞳。その色合いだけではない、幼げな面差しの中に独特の美しさを纏う少女――鳳安里。目の前に存在していることが奇跡のようにすら思える。
出会ってからふた月。ひと目で恋に落ちた瞬間は今でも思い出せる。
視察という名目で、皇帝という身分を隠して歩いていた市の中、特にいつもと変わったことなど何もなかった。活気に溢れる都の市場は、各地から集まった商人や買い付けの人間でごった返す。地方の特色をそのまま纏った民族衣装は全身を隠すものから露出が大目のものまで様々だ。
蒼潤が怪しく見えないように必要最小限の視線を左右に振りながら、気配を押さえて移動していたその時、風が、吹いた。
一陣の強風にざわめき慌てる人々の中で、全く動じることなく静かに立つ少女の姿だけが、蒼潤の目にはっきりと映った。風が吹かなければ、くすんだ黄色の布で頭を覆った小柄な少女が目に留まるはずもなかっただろう。その佇まいに違和感を感じて蒼潤が目を止めた瞬間、弾かれたように少女が振り返った。
見えたのは抜けるように透き通った肌の白と強い光りを灯した紫。
ほんの一瞬だけ視線が合ったその鮮やかな紫に、蒼潤の心にそれまでに感じたことのない嵐のような感情が湧き起こった。彼の右手は去ろうとする少女の腕をほとんど無意識のうちに掴んでいた。抗議の意思の篭った睨みあげてくる紫の双眸にたじろぐこともなく、そして焦りと怒りの混じった叫びを聞くことなく、そのまま安里を宮に連れ帰ってしまった。
蒼潤は芳しい香りを立てるお茶を一口含み、こくりと飲み下した。
自分がどんな思いで見つめているのかわかっていないのだろう、安里は丸い砂糖菓子を口に入れて味を確かめている。そのいっそ清清しいほど自分に無関心な様子に、蒼潤はこっそりと肩を落とした。
思い返せば無理矢理連れ帰ってきて離宮に住まわせた後、安里は幾度となく脱走を企てた。何人見張りの兵をつけていようと、彼女の強い味方、花幻がいればいつだって風に舞い上がって飛んでいける。だが皇帝としての権力は、どこまで逃げようとも彼女を執拗に追い求め、捉えた。
安里が今落ち着いた様子で離宮に留まっているのは、彼女が蒼潤の執念に根負けした形に過ぎない。
蒼潤はするりと安里の髪に手を伸ばし、その感触を楽しみながら、ゆっくりと口付けた。
「……私は今、皇帝であってよかったとも思うし、悪かったとも思っている。皇帝という立場になければ、そなたをこうして傍におくことは叶わぬだろう。だが皇帝でなければそなたと共に、このような窮屈な場所からはとうに逃げ出している。ひどく矛盾しているが……。そなたのことを想わない時はないのだ。わかってくれるか? 安里……」
切なく響く蒼潤の独白を聞きながら、好きな茶菓子をあらかた食べ終えた安里は、甘味の残る口をすすぐように、冷めたお茶に手を伸ばしながら言った。
「……皇帝というのは、ずいぶん自分勝手なものだな」
甘い雰囲気など意識の隅にも置いていないように茶を飲む安里に、蒼潤はめげずに髪をいじり続け、そしてぼそりと言った。
「そなたに出会う前は、そんなにわがままではなかったのだ。私がわがままを言うのは、そなたのことだけだ……」
いっそ悲壮感が漂うほどに肩を落としつつ、真剣な眼差しで心情を語る皇帝に、それを聞き流す飄々とした少女。そんな二人の間の微妙な空気を壊したのは、主人を溺愛する精霊だった。
「毎日毎日毎日、同じことを繰り返していて、楽しいのでしょうか? この男は!」
二人の会話に口を挟めず、すっかり置いてきぼりにされた花幻は、腰に手を当て、ぷりぷりと腹を立てていた。
「毎日訪ねてきて毎日この調子! 人間の男というのは皆このように面倒で迷惑なものなのですか?」
この言葉に、安里は思わず吹き出した。精霊の視点と言うのは全くおもしろい。 しかし蒼潤としては安里が突然笑い出した理由が分からず、呆気にとられつつも不思議そうに尋ねた。
「どうした? 安里?」
「いや……そろそろ迎えが来る頃かと思ってな」
噛み合わないその言葉に首を傾げた蒼潤の背後に、大きな影が忍び寄った。
「へ~い~か~! またこちらにおいででしたか! 朝議が終わると同時にお隠れになって! 探しましたぞ!」
額を押さえてため息をついた蒼潤の後ろで、だいぶ走りまわったのだろう、その男は肩で大きく呼吸をし、息を整えた。彼に向かって安里は可愛らしい笑顔でにっこりと告げた。
「探さずともこの時間は毎日のようにここに来るぞ、皇帝陛下は。これからは皇帝陛下が居座る前に引き取りに来ていただけると、私としては助かるのだが、側近殿」
その言葉と笑顔に少なからずショックを受けた蒼潤は、よろりとその男……側近である呉晴に寄りかかった。
「……そんな風に言わずとも良いではないか、安里!」
めそめそと泣き出しそうな主を見て、さすがに可哀相に思ったのか、呉晴は少し考え、安里を見て言った。
「安里殿、大変申し訳ないが、朝議の後十分ほど陛下をお預かりいただけないだろうか。こちらでお茶を飲み少し休憩されなければ、陛下の仕事が進まず、ひいては私どもの仕事に関わるのだ……。十分後には必ず引き取りに参るゆえ、なにとぞ、そのように!」
「ひっ、ひどいぞ、呉晴! たった十分しか安里に会わせずと申すか! これでも私は、毎日片時も離れたくないと思うのを我慢しておるのに、それを十分とは……!」
皇帝としての威厳丸つぶれの自分の状態に気づかず、側近に掴みかかって抗議する蒼潤を尻目に、表情を消した安里は呉晴を見て言った。
「ふむ…十分か……。本来なら朝議の後、逃げぬように捕まえておいてほしいところだが、仕方あるまい。それで譲歩しよう」
最後のせりふをわざと蒼潤のほうを向き、笑顔を浮かべて言ってやる。すると蒼潤は衝撃を受けた表情を隠せないまま、本当に涙を浮かべて、安里のほうに一歩踏み出した。
「安…里…! そんな……そなた、そのようなことを笑顔で……!」
だがその悲壮な訴えもむなしく、安里に触れようとするほんの少し手前で、呉晴にがしっと首根っこを押さえられてしまった。
「さあ、陛下、そろそろお時間ですぞ。帰って仕事をせねば! それでは失礼します、安里殿!」
「あああ~、安里! 私は、私は、明日も来るぞ~~! いや、今日も時間を見つけてまた来るぞ~~!」
ずるずると引きずられながらも、情けない声で自己主張をし続ける若き皇帝を見送った安里は、茶器の片付けに取り掛かかりつつひとり、そっと優しい笑みを零した。
「何という茶番劇か」
口調と言葉とは裏腹に、それはほころんだ梅の花びらのような、柔らかな微笑みだった。