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第九話 約束





 浅い眠りの中でまどろんでいた蒼潤(ツァンルン)は、ふと気配を感じて目を覚ました。薄く目を開けると、外はまだまだ暗く、朝には程遠い。


 ふう、とひとつ息を吐くと、自分の右手に、何か暖かいものが触れているのに気が付いた。首をめぐらしてみると、そこには、安里(アンリ)が座っていて、自分の手を握っているのだった。


「安里……?」


 そっと呼びかけてみると、俯いていた顔をはっと起こし、安里は蒼潤を見つめた。


「どうしたのだ……? 眠れないのか?」


 子供に問いかけるように言った蒼潤に、安里は黙って首を横に振る。手を握る力が少し強くなったのを感じた蒼潤は、安里にそう言って体を起こした。背中に毛布と枕を当てて少しだけ角度を付ける。


「明かりを……つけてくれるか?」


 安里は黙って立ち上がり、言われた通りに明かりを灯す。小さく揺らめく火が、寝台の端に座った安里の表情を映し出す。


「泣いて、いたのか?」


 驚きとともに小さく呟いた蒼潤の声は、安里に届いた。蒼潤の腕が伸びて安里の涙の跡をそっとなぞる。ゆっくりと撫でられる頬に熱さを感じながら、安里は震える声で言った。


「蒼潤……。あの時……出て行った私を、恨んだか?」


 ひどく不安定な表情をした安里をじっと見つめ、蒼潤は優しく言った。


「恨むなど……。安里が私のことを考えてくれての行動だと分かっていたから……。皇帝として、后をとらざるを得なかったが、それでも心の中ではずっとそなただけを想い続けた。それがそなたの、皇帝としての私を守ろうとしてくれた想いに報いることだと信じてな。寂しかったが、そなたは約束をくれた。私は約束を支えに、ずっとそなたを想ってこられた」


 にっこりと微笑んだ蒼潤は、かつての青年の頃の微笑みよりもずっと深い、温かみを持っていた。その微笑みに、安里はぐっと顔を歪めて問うた。


「ではなぜ……私を呼ばなかったんだ? 逢いたくは……なかったのか?」


 その問いに、蒼潤は苦笑して答えた。


「逢いたかった。約束も忘れてはいなかった……。だけど安里、そなたは一度だけと言ったろう? もし逢ったとして、その次、また逢いたくなったらどうする? もったいなくて、とてもそなたを呼べなかった」


 そう言って恥ずかしそうに笑い、蒼潤は安里の体を自身に引き寄せた。


「いつの間にかこんな老人になってしまって、安里にはもう逢えないと思った……。そなたは年老いた私を見て傷つくのではないかとな。もったいなかったのも本当だが、それ以上に怖かった。そなたが、私を忘れているのではないかと……」


 安里は蒼潤の腕の中で反論した。


「忘れるなど! ……忘れたことなど無かった。この四十年、いつ私を呼んでくれるかと、ずっと待っていたんだ……。私は、私も……」


 言葉を詰まらせた安里の背中を、蒼潤の手が労わるように撫でた。その温かさに促されるように、安里はぽつりぽつりと心の中に溜め込んできたものをこぼし始めた。


「最初に、都の市で出会ったとき、逃げなければならないとすぐに思った……」


 突然に始まった遥か昔の思い出話に、蒼潤は目を細めて安里を見つめた。


「なぜ……?」


「……この世にこんなに美しい男がいるものかと、そう思ったのだ。私は美しいものに惹かれる性質だからな、まじまじと見つめてしまったらまずいと。お前が高い位にある人間だということは明白だったし、不敬だと捉えられるのも厄介だと、な……」


 その言葉に蒼潤は笑いをこぼした。まさかあの一瞬に安里がそんなことを思っていようとは。蒼潤の心の中に、今も鮮やかに蘇る出会いの一瞬。強烈な紫の存在感に自分はやられたのに、安里も同じように自分を見ていたのか。


 床に横になった蒼潤の上に乗りかかる格好だった安里は、それでは彼の負担になるとようやく思い当たり、身じろぎしてどこうとした。しかし蒼潤は安里を離そうとはしなかった。


「このままで大丈夫だよ、安里。そなたは羽のように軽い」


 その言葉に安里は一瞬で真っ赤になったが、伏せていたのでその表情が蒼潤に見られることはなかった。


「……私が、何度目かの逃亡に失敗した後、何故離宮に留まったのかをお前は知っているか? あの時は、お前があまりにしつこいから観念すると、そう言ったな」


「ふふ、そうだったな。私の執念が勝ったのだと思っていたが、違っていたのか?」


「それも、そうだった。私と花幻がどこまで逃げてもお前に忠実な優秀な兵達が追いかけてきて、『お願いだから帰ってきてくれ』という伝言を伝えるものだから、面白いやら情けないやらで。お前のしつこさとなりふり構わないのにあきれたんだ」


 当時を思い出したのか安里はくすくす笑った。蒼潤は皇帝としての威厳も面子もない自分の行動に今更ながら赤面した。若いというのは、全く制御できぬものだな、と。


「だがな、あの時、追ってきてくれることが嬉しくて、きっと、多分……」


 安里がなかなか続きを言わないことに気づき、蒼潤は首を傾げた。安里の両肩をそっと掴み、その伏せていた顔を上げさせて問うた。


「安里……?」


「きっと、すでに……お前のことが、好き、だった」


 真っ赤になっている己の顔を隠すようにぷいっと横を向き、安里は口早に話を続けた。


「お、お、お前はあんまり情けないし、すぐ泣きそうな顔をするし、いやそんなところが可愛いなどど思ったことは……あったが、そういうことではなくて」


「安里」


 安里は、蒼潤の静かな声に思わずびくっと身を縮ませた。蒼潤の手がするりと安里の頬を撫で、ふたりの視線がゆっくりと合わさった。


「安里……。今、私を好きだと……そう、言ったのか……?」


 灰色の瞳を見開いて自分を見つめる蒼潤の表情に驚きを読み取って、安里は苦笑した。


「そうだ……。信じられぬか?」


 しばらくお互いを見つめ合っていたが、ふいに蒼潤は力を抜き、枕に頭をもたせた。


「ああ……今日はなんていい日なんだろう…。私の人生……いい人生だったなぁ」


 しみじみとそんなことを言い出す蒼潤に、安里は眉尻を下げ、困った笑顔になった。


「大げさな……」


 蒼潤は瞳を閉じて幸せを噛み締めるように言った。


「大げさなんかじゃないさ、安里。愛する人に、応えてもらえることほど幸福なことはない……。死ぬ前に、逢えてよかった……」


「っ……! 死ぬなどと、縁起でもないことを言うな……!」


 身を乗り出して抗議する安里の頬に手を添えて蒼潤は言った。


「なぁ、安里、知っているか? あいつはな、ウーは、そなたが宮を出た後、私の元へ現れてな。『お前に嫉妬した。すまん。』と謝ってきたんだ」


 くすくすと話し始めた蒼潤の小さな声に、安里は蒼潤の手の平に頬を摺り寄せるようにしながら黙って耳を澄ました。


「それからよく遊びに来てくれた。ウーは私の唯一無二の親友なのだ……。あれが居てくれて私は楽しかった。よく安里のことを教えてくれてな。どこにいるとか、元気そうだとか……」


 しょっちゅう伝言を寄越してきて近況を尋ねてきたのは蒼潤に教えるためだったのか。呆れた思いで安里は心の中でため息をついた。


「……感謝しなければなぁ。得難き友と愛しい人。私を想ってくれる多くの人。何もかもを手に入れた私は、幸せだった……」


 ふう、と息を吐いて、蒼潤は微笑む。それを見て、安里も口を開いた。


「蒼潤、私もお前に逢えて良かった。好きになって、良かった。……幸せだった。お前に逢ってからのこの数十年はそれ以前のどの日々よりも」


 安里は頬に添えられたままの蒼潤の手を自分の手でそっと覆い、その日々を思い出すかのように軽く目を閉じた。


「なぁ、蒼潤。この先私がどれだけの時を生きるとしても、私の初恋の相手は永久に、蒼潤、お前ひとりだよ」


 もう何のつかえもない、心の底から自然に溢れる笑顔を向けた安里に、蒼潤も穏やかでかつ華やぐような笑みを零した。


「それはこの上ない光栄だね……。国中探そうとも、私以上に幸せな男はいないよ」


「ふふ……お前もウーの馬鹿がうつったようだな」


 微笑みあうふたりは、どちらからともなく沈黙し、見つめ合った。


「……愛してるよ、安里……」


 ぼろりと、大粒の涙を流し、安里は応えた。


「私もだ。……愛してくれて、ありがとう」


 涙でもう見えなくなった視界を振り払うよう、安里は熱心に蒼潤の顔を見つめ続けた。


 長い、長い間お互いを想い続けたふたりの心は、今、ようやく繋がった。

 それはまるで、ずっと空いていた心の隙間を、大きな愛情が埋めていくような、幸せな時間だった。





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