ラジックの相談所 第二話
第二話
ある平日の昼過ぎ。
「こんにちは、ユトー君いるかい?」
相談所のドアが開いて、部屋の中にふらりと入って来たのは一人の中年の男性だった。
「あ、マテウスさん」
俺はその人物とは知り合いだった。
「めずらしいですね、マテウスさんがここに来るなんて。どうぞ、座ってください」
俺は部屋の真ん中にある応接用の長机の椅子を引く。彼は柔らかい笑みを浮かべて手を横に振った。
「いやいや、立ったままでいいよ。そんなにたいした用じゃないしね」
彼の名前はセバスティアン・マテウス。少しタレ目で背の高いなかなかにダンディーな雰囲気を持ったおじさんだ。彼は俺の住んでいる寮の近くで喫茶店をやっている。
お店の名前は『ジャレット』。彼のお店は俺もよくお世話になっているんだ。週のうち半分ぐらいはそのジャレットで朝食を取っているかな。特に食後のコーヒーが最高なんだ。マテウスさんの淹れるコーヒーは味よし香りよしで値段も安い。朝からとてもいい気分にさせてもらっている。あとは昼食にサンドイッチのテイクアウトを頼むことも多いな。こちらも抜群においしくて仕事中は昼休みが待ち遠しくてたまらないくらいだ。
そんな感じで俺の生活にはマテウスさんのお店はなくてはならないものだ。
「今日はどうしたんですか? ラジックの話ですか?」
俺の質問にマテウスさんは、
「うん。そうなんだ」
にこにこと笑みをたたえたままうなずいた。
「実はね、私もラジックを授かったんだ」
「本当ですか? それはおめでとうございます」
俺も自分のことのように喜びが湧く。ラジックを授かるのは一生に一度あるかないかの特別な体験だ。このせっかくのチャンスを喜ばないのはもったいないというものだ。
「それで、どういう効力のものなんですか?」
マテウスさんは少しだけ考えて答えた。
「うん、どうやら『コーヒーの香りが良くなる』というものらしいんだ」
「へえー、それはまたいいラジックですね」
俺は素直に感嘆の声を上げる。
「コーヒーの香りが良くなる。まさにマテウスさんにうってつけのラジックじゃないですか」
これほどはっきりと良い効果の出るラジックもめずらしい。ほとんどのラジックはあってもなくてもたいして変わらないものだからな。このラジックはうらやましいぐらいのものだ。俺はいつも相談にやってくる人たちから自分たちのラジックのことを聞いても特に自分も欲しいとかは思わないが、今回のマテウスさんのラジックは本当にうらやましく思う。俺も自分のことがどこかの本に記録できる、なんて変なラジックじゃなくてこういうのが欲しかったな。まあ、選べるものじゃないから仕方はないが。
「それで効果のほどはどうですか? 何かおかしなことにはなりませんでしたか?」
俺は相談員としていちおう尋ねる。よくわからないラジックのことだ。また人を困らせることにはなってはいないだろうか。
「いや、大丈夫だよ」
だが、マテウスさんは笑顔のままだった。
「特に問題は起こっていないよ。それどころか確かにラジックの効果はあるみたいでね。私も驚いているよ。本当にコーヒーの香りが良くなっているんだ。うまくは表現できないが酸味が薄くなったというか、上品な感じになった気がするんだ」
「おお。それはすごい」
「ラジックがこんなに素晴らしいものだったとはね。これはラジックの神様とやらに私も感謝しないといけないね」
マテウスさんはそれから手に持っていたものを俺に渡しながら言った。
「今日は君にこれをお願いしようと思って来たんだよ」
「え、なんですか?」
それは大きめの一枚の紙だった。
「ラジックの効果で香りの良くなったコーヒー、私は単純にラジックコーヒーと名前をつけたんだけどね、今回はうちの店でそのラジックコーヒーにちなんだキャンペーンでもやろうと思ったんだ。これはそのチラシなんだけど」
受け取ったチラシを見る俺。そこにはラジックのコーヒーのことはもちろんキャンペーンの特別割引のこと、臨時アルバイトの募集のことなどが書かれていた。
「もし君の方でかまわないならこのチラシをこの相談所にでも貼っておいてもらいたいんだ。ここならラジックに関係のある人がいつも集まるだろ。私のコーヒーに興味を持ってくれる人もいるんじゃないかと思ってね。どうだろうか?」
なるほど、そういうことか。それは確かにいいアイディアかもしれない。ラジックの効果が加わったコーヒーなんてものがあると知ったら誰もが飲みたくなるだろう。マテウスさんのお店が繁盛するなら俺としては大賛成だ。
「それぐらいのことならもちろんオーケーですよ」
俺はチラシを持ったまま自分の机からテープを取ってくる。
「さっそく貼りましょう。どこが一番目立つかな」
部屋を見渡す俺。
「やっぱりここかなぁ」
俺は入り口のドアにチラシを貼り付ける。
「これなら部屋を出るときに必ずチラシが目に入りますからね」
マテウスさんも満足そうに手をたたく。
「うん、これは素晴らしい。いや〜助かるよ。本当にありがとう、ユトー君」
「いえ、どういたしまして」
それからマテウスさんは、
「それじゃ、私は帰るよ。これ以上君の仕事を邪魔しても悪いしね。良ければ君もうちの店にラジックコーヒーを飲みに来てくれよ」
俺は即答する。
「はい。それはもう絶対行きますよ。今晩行きます。待っていてください」
「ははは、ありがとう。じゃあまたね」
マテウスさんは部屋を去って、俺はまた仕事へと戻った。
二、三時間が経って。夕方ぐらいになった頃だ。
俺は今日一日の仕事のまとめに入る。
「今日は人は少なかったな。マテウスさんが来たぐらいだったか」
一日の仕事が全部終わって相談所を閉めるのが夕方の五時だ。今日の俺はいつもに増してその時間が楽しみでたまらない。
「早く彼の店に行きたいな。ラジックで香りの良くなったコーヒーか」
そのことを考えると思わずにやにやしてしまう俺。
「さぞかしいい香りがするんだろうな。味の方はマテウスさんが作るんだからいつもながら最高だろうしな。マテウスさんの技術とラジックの効力、この二つの相乗効果によって生み出されるコーヒー。これはまさに究極のコーヒーに違いない。ああもう、楽しみすぎるぜ!」
俺がそんなことを考えているとガチャリというドアノブを回す音が聞こえて入り口の扉が開く。部屋の中に誰かが入ってきた。
「やあ、ユトー。わたしだ」
イエスタだった。この時間に相談所を訪れてくる人物と言ったらほとんどがイエスタだ。俺も別段驚くことはない。
「よう、イエスタ」
軽く声をかける。
「……ああ」
イエスタはうつむき加減で返事をする。
「……う〜ん」
イエスタは少しふらついた足取りで長机まで行くとペタンと椅子に座る。
「……はあ〜」
机に顔を突っ伏すとため息をつく。そして、どこかぐったりとした様子で何も口を開かなくなった。
「んん?」
俺はそんなイエスタを怪訝な眼差しで見る。今日のイエスタはやけに静かでおとなしくしている。いつもだとなんだかんだと俺に妙な話を持ちかけてきて、うるさくてたまらないぐらいなのに。どうしたんだろう? 今日はややいつもと調子が違うように見える。
「どうしたイエスタ?」
俺は気になって尋ねる。
「今日は元気がないじゃないか。またここまで登ってくるのに足でも痛くなったのか?」
少しして、イエスタはそのままの体勢で答える。
「違う。そんなんじゃない」
「じゃあ、どうしたんだ?」
また少しして、イエスタはぼそっとした声で言った。
「……が食べたいんだ」
「は? 何だって? 聞こえないぞ」
今度は俺の方に顔を向けてはっきりと言う。
「肉が食べたいんだ!」
「肉が食べたい?」
「そうだ。肉が食べたいんだ」
どういうことだ? 俺にはいまいちイエスタの言っていることが理解できない。
「肉が食べたいって……」
俺はもう一度、訊く。
「別に食べればいいだろう。肉なんて特にめずらしい食材ってわけじゃないんだしどこにでも売っているだろう」
「おまえ、そう簡単に言うけどなっ。わたしにとってお肉はそんなにいつもいつも食べられるものじゃないんだっ」
怒ったようなイエスタ。だが、俺にはまだイエスタの言葉の意味がわからない。
「どうして肉が食べられないんだ?」
俺の質問にイエスタはまたぼそっとした声で答えた。
「うちは……なんだ」
「は? 何だって?」
吹っ切れたように大声で言う。
「うちは貧乏なんだ!」
「貧乏?」
「そうだ。貧乏なんだ」
「そ、そうなのか」
それを聞いて俺も軽いショックを受ける。そうか、こいつの家は貧乏なのか。それもお肉がいつも食べられないほどの貧乏なのか。そいつはかわいそうだな。
「そう言えば……」
こいつの一族はラジック神殿の神官なんて仕事を昔からしているらしいが、考えてもみればそんな仕事でお金が入ってくることはそうそうないだろうしな。何か副業のようなものでもなければ食べてはいけないだろう。詳しくはわからないがイエスタのやつも生活においては不自由することが多いんだろうな。イエスタ、かわいそうなやつだ。
「そうか。おまえも大変だな」
イエスタはもう怒った様子はなく落ち着いた声で話す。
「別に大変ってほどじゃない。普段の生活で困ることなんてあんまりないし、ご飯も毎日三食きちんと食べてて栄養バランスとかも問題ないと思う。ただ、たまにはいいものが食べてみたいってだけなんだ。高くて分厚いステーキ肉を一度でいいからたらふく食べてみたいと思ってるだけだ」
俺はようやく納得する。
「そうか、ステーキか」
イエスタのやつも育ち盛りの年頃だからな。そういうものが食べたくなるのも無理はないだろう。俺だってたまに無性にステーキが食べたくなることはあるしな。今日はイエスタにとってそういう日なのだろう。
しばらくして。
「おい、ユトー」
イエスタは相変わらず机に顔を突っ伏したまま俺に顔を向ける。
「わたしにステーキを食わせてくれ」
「……は?」
「それも上等で高いやつだ」
突然何を言い出すんだ、こいつは?
「なんで俺がおまえにステーキを食わせてやらんといけないんだ。それも上等で高いやつを」
俺はそこまでお人好しではない。
「確かにおまえのうちが貧乏なのはかわいそうだとは思うが、俺だって金に余裕があるわけじゃない。毎月けっこうぎりぎりなんだぞ」
俺は嫌なことを思い出した。
「この前だっておまえのせいで俺の大切な愛車が猫どもにボロボロにされたんだ。あれの修理費用だって馬鹿にならなかったんだぞ」
イエスタは机の上の顔を俺から逸らす。
「さて、なんのことやら。覚えてないな」
「こいつ……!」
イエスタのやつ、絶対に覚えているだろ。しかも反省や俺に対する感謝の様子がまったく感じられない。腹の立つガキだ。俺はきっぱりと言う。
「とにかく駄目なものは駄目だ。俺にはおまえにステーキを食わせてやる義理はこれっぽっちもない」
また俺の方に顔を向けるイエスタ。
「むむぅ〜」
不機嫌そうに口をとがらせる。
「いやだいやだ! 肉が食べたい! 分厚いステーキ肉が食べたい〜!」
椅子に座ったまま手足をじたばたとさせる。
「にく、にく、にくぅ〜!」
いきなり騒ぎ始めるイエスタ。
「お、おまえなぁ……」
なんでここで肉が食べたいなんて騒ぐんだ、こいつは? 呆然とする俺をよそにイエスタは、
「ステーキ、ステーキ、ステーキぃ〜!」
さらに大きな声まで出し始める。
「そんなわがままを言われてもなぁ……」
俺も困ってしまう。仕方がないので放っておくか。こんなイエスタのわがままにかまっていたらキリがないというものだ。
「うう……ステーキ……」
やがて、しょんぼりとして声を落とすイエスタ。
「うう……」
前以上に元気がなくなる。イエスタは机の上にじっと視線を落としたまま動かなくってしまった。
「…………」
俺はそんなイエスタの姿を見て思い直す。やはり、このまま放っておくのもなんだかかわいそうだな。貧乏なこいつにたまにはいい物を食わせてやりたいとは俺も思うしな。
「う〜ん、そうだな」
俺はなんとか考える。
「イエスタにステーキを食わせてやれる何かいい方法はないものかな」
ふと俺の眼にある物が入った。それは入り口のドアに貼られたマテウスさんのお店のチラシだった。
「あっ、そうだ」
それを見て俺はあることを思いついた。
「イエスタ、おまえさぁ……」
チラシを指さして俺は言う。
「アルバイトでもしてみないか? ほら、あのチラシに書いてあるやつだ」
「……アルバイト?」
「そうだ。たぶん喫茶店のウェイトレスか何かの仕事だ」
マテウスさんのお店では今、臨時アルバイトを募集しているとこのチラシには書いてあった。その仕事、まだ空いているのならイエスタを雇ってもらうようにマテウスさんに頼んでみるのもいいかもしれない。
「そんなにステーキが食いたければおまえが自分で働いて、その稼いだ金でステーキでもなんでも食えばいいじゃないか」
イエスタはドアの貼られたチラシの前まで行く。
「なるほど。アルバイトか」
それを見てうなずくイエスタ。
「よし、やってやろう!」
「おっ、本当か」
「ああ、決めた。わたしはこのアルバイトをする。ラジック神殿の神官であるわたしの手にかかればこんなアルバイトなんて簡単簡単、お茶の子さいさいだ。軽くやりこなすことができるだろう」
「なら決まりだな。マテウスさんに電話するからちょっと待ってろ」
俺はマテウスさんのお店に電話をかけてその用件を伝える。すると運良くまだバイトの人間は決まっておらず、イエスタを雇うことにマテウスさんも乗り気のようだった。俺は電話を切るとイエスタに言う。
「喜べ、イエスタ。マテウスさんのお店ジャレットでおまえは使ってもらえそうだぞ」
「おお!」
「じゃあ、さっそくジャレットに行こうか。まだ客の少ない早い時間の方がマテウスさんも都合がいいだろうしな」
「うん、わかった」
イエスタは先ほどまでとは打って変わって元気な表情を見せる。
「ステーキのためだ。わたしはがんばるぞ!」
「よーし、その意気だ」
俺は少し時間は早かったが相談所は閉めて、イエスタと二人でジャレットへと向かって歩いていった。
マテウスさんのお店、喫茶店ジャレットは俺の住んでいる町役場の寮から商店街に向かう途中にある。大きな通りから少し中に入ったところにあって店の前は人の往来も少なくない。特に仕事の行き帰りで駅と住宅街の間をよく歩く人にとってはちょっと休憩するのにもってこいの場所だろうな。喫茶店を出すにはとても適した場所だと思う。
「ここがジャレットだ」
俺はイエスタを店の前まで案内する。イエスタは店の外観を見るなり、
「ふ〜む……なんか、小さくてすごく地味な店だな」
「おい、こら!」
「まったくの先入観だがデザートとかが不味そうだ」
「おまえっ、いきなり恐ろしいぐらいに失礼だな! 自分が雇われる立場だということを分かっているのか?」
「おっと、そうだったな。つい忘れていた。すまんすまん」
「頼むぞ、ほんとに」
こんな調子のイエスタにアルバイトなんてものができるのか、俺は果てしなく不安だ。ただ、イエスタの言わんとすることはわかる。ジャレットの外観は花や観葉植物などの飾り気は少なく、どっしりとしたレンガ造りでレトロな雰囲気を漂わせている。駅前にあるような華やかなチェーン店のオープンカフェとは対照的な店のたたずまいだ。ジャレットの落ち着いた雰囲気の良さは子供には理解できないだろうな。
「お、これだな」
店の前に立てられた看板にはさっそくラジックで良い香りが加わったコーヒーのことが書かれていた。俺はこれが飲みたくて今日ここに来た意味もある。
「さ、中に入ろう」
ドアを開いて店に入る俺とイエスタ。カランカランとベルの音が鳴る。
「うーん、やっぱり何度来てもこの店はいいな」
俺は店内を見回す。外観と同じように店の中もシックな装いだ。床やカウンターなど内装や調度品のほとんどは木製で壁の一部にはレンガが使われている。テーブルや椅子も数は多くないがどれも木目がきれいで品の良いものばかりだ。
「店の空気が俺の体にぴったりと馴染むんだ。一日中でもここに居たい気分だ」
照明は明るすぎないし、席と席の距離も近すぎない。店内にはうっすらとBGMが流れている。なんでもマテウスさんの好きなジャズなんだそうだ。俺にジャズのことはよくわからないがうるさすぎず耳に心地良いことだけは確かだ。
「いらっしゃい。よく来てくれたね」
俺たちを見てカウンターから出てきたマテウスさん。
「急な頼み事をしてすみません、マテウスさん」
俺は恐縮するがマテウスさんは明るい声で、
「いやいや、とんでもない。アルバイトの募集をしていたのは私の方だからね。こちらとしてもちょうど良かったよ」
マテウスさんは俺の隣でぼーっとしているイエスタに眼を向ける。
「君がイエスタ君か。私はセバスティアン・マテウスだ。よろしくね」
さすがにここは丁寧に頭を下げるイエスタ。
「よ、よろしくお願いします」
こいつにも多少の礼儀は備わっているようだな。少しだけ安心した。
「うん。いい返事だ」
イエスタの頭を軽くなでるマテウスさん。
「では、さっそくだが仕事の説明をしようか」
緊張した面持ちでマテウスさんの言葉に耳を傾けるイエスタ。
「君には主にウェイトレスの仕事してもらう。まずお客さんの注文を聞いて、それからできた食べ物や飲み物をお客さんのテーブルまで運ぶんだ」
「は、はい」
「簡単な仕事だ。すぐに慣れるよ」
それからマテウスさんは、
「じゃあ、まず服を店の制服に着替えてもらおう。こっちへおいで」
イエスタを店の奥に案内していく。
数分後。
「おまたせ、ユトー君」
マテウスさんとともに俺の前に出てきたイエスタ。
「おっ!」
俺はそのイエスタの姿を見て驚く。イエスタの見た目は見事なまでのウェイトレスに変身していたからだった。イエスタは少し照れくさそうに訊いてくる。
「どうだ、ユトー。この制服、わたしに似合っているか?」
濃いブラウンのブラウスとスカートに純白のエプロン、大きめのカチューシャと胸元のリボンとしましまのハイソックス。全体的にフリルの付いたひらひらとしたデザインで年より子供っぽく見えるイエスタにはぴったりな感じだ。
「ああ。とてもよく似合っているじゃないか、イエスタ」
「そ、そうか? それは良かった」
少し顔を赤らめるイエスタ。
「まあ、ひらひらした服を着こなすことにかけてはわたしの右に出る者はいないからな。はっはっは」
かわいい衣装を着せてもらってイエスタもご機嫌なようだ。
「しかし、マテウスさん……」
俺は意外だった。
「よくこんな制服を持っていましたね。いつものウェイトレスさんが着ているものとは全然違う制服じゃないですか」
俺がそう尋ねると、
「ああ、これはね……」
マテウスさんは少し眼を細めて、
「この服は昔、妻が趣味で作った服でね。娘が子供のときに着せていたものなんだよ。服のサイズがイエスタ君にはちょうどいいんじゃないかと思ってね。さっき慌ててタンスから引っ張り出してきたんだよ」
「そうなんですか」
うきうきした様子で制服の具合を確かめていたイエスタは、
「マテウスさん、わたしはウェイトレスというものが気に入ったぞ。早く仕事のやり方を教えてくれ」
おっ、イエスタのやつ、やる気が出てきたな。いいことだ。
「よし、では実際に注文を取ってみようか」
「うん、わかった」
元気にうなずくイエスタ。俺はカウンターの近くの席に座りながら言う。
「ちょうどいい。それなら最初は俺でやってみろよ」
「よ、よし」
イエスタは真剣な顔つきに変わる。
「最初のお客さんはユトーだな」
俺を指さして言う。
「相手にとって不足なしだ!」
「……な、なにか意気込みが違う気もするが。まあいいだろう」
イエスタもウェイトレスの仕事は初めてなんだ。気長に見てみようか。
「まず、お客さんが来たら席まで水とおしぼりを持って行くんだ」
マテウスさんに教えてもらいながらを俺の席まで来るイエスタ。
「い、い、いらっしゃい……」
ひどく緊張した様子のイエスタ。全身がこわばったような動きでトレイに載せたグラスとおしぼりを運んでくる。まあ、初めてのことだ。仕方ないだろう。
「いらっ……しゃいっ……ませっ」
水の入ったグラスを持つ手がぶるぶると大きく震えている。初めてだ、仕方……いやいや、イエスタのやつ、ちょっと緊張しすぎじゃないか。大丈夫か?
ガタッ! 震える手でテーブルに叩きつけるようにグラスを置くイエスタ。
「うおっ!」
コップの中の水が跳ね、俺はのけぞる。
「うおっ!」
つられるようにイエスタものけぞる。いや、おまえはのけぞる必要はないだろ。てか、ひどい接客だぞ、今のは。
「こらこら、イエスタ君」
慌ててマテウスさんが注意する。
「そんなに緊張しないで。もっとリラックスして。肩の力を抜くんだ」
「は、はい。ごめんなさい」
「一度、深呼吸でもして落ち着きなさい」
「うん、わかった。すぅ〜はぁ〜すぅ〜はぁ〜」
「大丈夫かい?」
「ああ。もう大丈夫だ、マテウスさん。リラックスできた」
「よし。では次はお客さんに注文を聞くんだ。やってごらん」
「はい」
イエスタは勘定とペンを手に俺に尋ねる。
「決まったか? 何が食いたいんだ?」
「リラックスしすぎだ、おまえ!」
「そ、そうか?」
「俺は客だぞ。もっと丁寧な感じで話せよ!」
「……もっと丁寧な感じか。そうだな」
イエスタは少し考えて言い直す。
「ご注文はお決まりか?」
「う、うーん……ちょっと違うが……」
お決まりか、って。丁寧には違いないがなにか上から目線だな。
「ま、まあ、いいだろう」
これ以上はイエスタには望めないかもしれない。俺はあきらめて次に進む。
「じゃあ、ラジックコーヒーとサンドイッチを頼むよ」
「ラジックコーヒー……サンドイッチ……と」
勘定に注文を書き取るイエスタ。ちゃんとマテウスさんに教わった手順通りにしているな。うんうん、その調子だ。
「よし、書けたぞ!」
そして、俺に言う。
「すぐ持ってきてやる。首を洗って待っていろ!」
そして、バタバタと走ってカウンターで待つマテウスさんのもとまで向かったのだった。
「首を洗って、って……」
それを言うなら首を長くして、だろ。どうなってんだ、こいつの語学力は。
「……はあ〜」
思わずため息のでる俺。
「……なんてこった」
一連のことで俺は一つだけはっきりとわかった。
「イエスタにウェイトレスの仕事はまったく向いてないな」
始める前からそんな気はしていたが、まさかここまでとは。俺の変な思いつきのせいでマテウスさんに迷惑がかかると思うと心苦しいな。臨時のアルバイトで長く続ける必要がないのは唯一の救いか。
「せめて、お客さんを怒らせない程度にはやって欲しいものだな」
俺は暗い気持ちでせっかくのコーヒーを待っていなければならないのだった。
「お、来たな来たな」
少し経って。ついに待ちに待っていたラジックコーヒーを持ってイエスタがカウンターから姿を出した。しかし。
「おい、イエスタ! 大丈夫かよっ?」
コーヒーカップとサンドイッチを載せたトレイを持ったイエスタ。その手は相変わらず緊張のため震えていた。いや、さっきはただ水のグラスを運べばいいだけだったが今回はコーヒーカップだ。前にも増してイエスタは緊張しているようだった。
トレイの上はまるで地震でも起きているかのようにガタガタと揺れている。ふらふらとした足取りもいつ転んでもおかしくないくらいにおぼつかないものだ。
「落ち着け、とにかく落ち着くんだ! 絶対にトレイを落とすなよ!」
「ま、ま、まかせろっ」
俺は立ち上がってイエスタの動きを見守る。
「いいか。ゆっくりだ、ゆっくりと歩いてここまで来るんだ。こけるんじゃないぞ」
「まかせ……うわっ、うわっ」
足がからまりそうになりながら前に進むイエスタ。駄目だ、もう見ていられない。
「ストップ! 止まれ、イエスタ。一度、止まるんだ!」
「えっ? おっと、おおっと……」
だが、イエスタの足は止まらない。俺はもう一度、言う。
「何してる! いったん立ち止まってトレイをどこかテーブルの上に置くんだよ!」
イエスタはふらふらと危なげに動きながら答える。
「きゅ、急に止まれと言われても……止まれるわけがないぞっ」
「なんでだよ!」
「い、今のわたしは……」
イエスタは前につんのめりそうになりながら、ぎりぎりで体を起こす。
「今のわたしは体の絶妙なバランスを保っているからこそトレイを落とさずにいられるんだ。止まったら間違いなく落としてしまう」
「はあ?」
イエスタのやつ、何を言っているんだ? 今のままじゃすぐにでも転んでしまうぞ。
「……ユトーよ」
だが、イエスタは妙に冷静な声になって、
「よーく、わたしの動きを見てみろ」
「あ? どういうことだ?」
俺は言われるままにイエスタの様子を注視してみると、
「おっとっと、おっとっと」
イエスタは前後左右にふらふらとよろめきながらも、体の動きに合わせて手に持ったトレイも一緒に前後左右に大きく動かしているようだった。そして、なぜか不思議とトレイは落とさずにいる。
「わたしは自分の自由にならない手と足の動きを逆に利用することによって、かろうじて体の中心のバランスだけは崩さずにいられるようにしているのだ」
イエスタは狭い店の中をあちこちと無駄に動きながら、ときにクルクルと回ったりしながら強引に俺の席までトレイを運ぼうとする。
「この動き、まさに激流に身をまかせるが如き! これこそがウェイトレスの極意なり!」
イエスタはそんなことを口走りながら、どうにかこうにか俺の席の前までやってくることができた。
「どりゃあああ!」
イエスタはドカッと倒れ込むようにテーブルの上にトレイを置く。
「うおっ」
俺は飛び上がったコーヒーのしぶきを避けるようにのけぞる。だが、奇跡的にもコーヒーカップもサンドイッチも無事のようだった。俺の目の前においしそうなその姿を見せている。
「よ、よかった」
ほっと胸をなでおろす俺。イエスタのやつ、よくあんな危なっかしい動きの中でトレイを落とさずに済んだものだ。本当に奇跡だな。
「ふう〜」
額の汗をぬぐうイエスタ。
「どうだ、ユトー。わたしの妙技は?」
「普通に持ってこいよ!」
イエスタは胸を張って言い返す。
「それができたら苦労はしない!」
「威張って言うことかよっ」
俺は頭が痛くなってきた。
イエスタ、こいつは信じられないくらいにウェイトレスに向いていない。そう言えばこの前の話の中でイエスタがトルトルクッキーをばらまくときにも、こいつは派手にすっ転んでいたからな。そのせいで俺の車は猫どもに無茶苦茶にされたんだ。こいつには物を持って運ぶ、という能力がまるっきり欠如しているらしい。ああ、なんてこった。そんなやつを俺はウェイトレスに選んでしまうとは。
「マテウスさん……」
俺はカウンターいるマテウスさんに顔を向ける。
「やっぱりイエスタにこの仕事は無理ですよ。雇うのを辞めたほうがいいのでは?」
マテウスさんは苦笑いを浮かべて答える。
「まあ、本人は頑張っているようだし。もう少し見てみようよ」
「そうですか」
マテウスさんがそう言うなら俺としても異論はない。
「それより、ユトー君……」
マテウスさんは俺に訊く。
「ラジックコーヒーの方はどうだい?」
「あっ、そうだった」
マテウスさんの言葉に俺はトレイの上に眼を戻す。
「そうだ。今日の俺はイエスタのこともあったが、これを飲むのも一つの目的だったんだ」
そこには白い綺麗なコーヒーカップに入ったラジックコーヒーが深い暗褐色の揺らめきを見せていた。
「さあ、いよいよだな。楽しみすぎるぜ」
マテウスさんのラジックによって香りがさらに良くなったというコーヒー。俺は期待に胸をふくらませながら、カップを手に取り顔の前まで持ってくる。
「こ、これはっ!」
カップが鼻先に近づいた瞬間、俺の体に衝撃が走った。
「な、なんて芳醇な香りなんだ。こんなコーヒーは初めてだ、信じられない!」
もっとよく香りをかいでみる。
「鼻の中にふわっと広がっていく甘くほろ苦い感触。それでいて臭みや酸っぱさが微塵も感じられない。コーヒーの香りに含まれる成分はざっと数百種類に及ぶと言うが、このコーヒーにはそのすべての成分が完全に融け合っているように思える。熟練のオーケストラのようにみんながみんなのよいところ引き出し、少しも互いの邪魔することなく見事なハーモニーを奏でている。いったいどうなっているんだ? 果たしてこんなことが可能なのだろうか?」
俺は眼を閉じて集中する。
「ああ、なんという上品で清々しい香りだ。ただ眼を閉じているだけで俺の体の中にこの香り軽やかに軽やかに広がっていく。体中に溜まっていた毒素が抜け落ちていくかのようだ。体が軽い。ああ、体が軽くなっていく。空を、空を飛んでいるような気分だ。目の前には大自然に囲まれたコーヒー畑の姿がありありと思い浮かんでくる。なんてスケールの大きな香りなんだ。まるで雄大な大地と青い空が俺に手招きをしているようではないか!」
カップに口を付ける。またも俺の体に衝撃が走る。
「うまい! うますぎる!」
俺は思わず大声を出してしまう。
「香りだけでなく不思議と味の方も良くなっている気がするぞ! マテウスさんの技術とラジックの効力が合わさるとここまで完璧なコーヒーができあがるとは!」
期待はしていたがまさかここまでとは思わなかった。これは本当にすごいコーヒーだ。俺にはこのコーヒーをどう形容していいのかわからない。
「フランスの政治家シャルル・タレーランは言った。『良いコーヒーとは、悪魔のように黒く、地獄のように暑く、天使のように潔く、恋のように甘い』。このコーヒーはまさにそうだと言えよう!」
もう一口。さらに俺のテンションは上がる。
「かの音楽家ヨハン・セバスチャン・バッハは言った。『千のキスより素晴らしく、マスカット酒より甘い。コーヒー、コーヒーなしじゃやっていけない』。その通りだ。いいこと言ったぞ、バッハ。俺もコーヒーなしじゃやっていけない!」
思わずこぶしを握る俺。
「有名な哲学者ジャン=ジャック・ルソーは死ぬ前にコーヒーとの別れを惜しんでこう言ったという。『ああ、これでコーヒーカップを手にすることができなくなった』」
立ち上がって叫ぶ俺。
「うおおおおお! 俺は生きてて良かったぞおおおおお!」
「こらっ!」
そんな俺をさすがに注意してくるイエスタ。
「うるさいぞ、ユトー。静かにしろ!」
「あ、ああ……そ、そうだな……」
すごすごと椅子に座り直す俺。
「すまない……すまなかったよ……ごめんね」
あまりのコーヒーの香りの良さについついエキサイトしてしまった。いけない、いけない。だが、それほどまでにこのコーヒーは素晴らしいものなんだ。わかってほしい。
「そ、そこまで喜んでもらえて私も嬉しいよ。ハハハ、ハハハ」
カウンターで乾いた笑みを浮かべるマテウスさん。すんません、なんか騒いでしまって。
「まあ、なんだ……ゆっくりするか」
俺は冷静さを取り戻す。
「やっぱりコーヒーは静かに味わうものだからな」
以後の俺は普通にコーヒーを飲んでサンドイッチを食べることにした。サンドイッチを一口かじってはコーヒーを一口飲む。それだけのことだが、ものすごく幸せな気分を満喫できた。うまいコーヒーと食べ物、これさえあれば他は何もいらないな。最高のひとときだ。
俺がそんな時間を過ごしている間も店の中には新しいお客さんがちらほらと入ってきているようだった。
「い、いらっしゃいませ」
イエスタは緊張しながらもなんとか接客をこなしているようだ。
「ご注文はお決まりか?」
「え? ああ、ラジックコーヒーを一つお願い」
「了解した。すぐ持ってこよう。なに、わたしにまかせておけば大丈夫だ」
「え? そ、そう」
やはりどこかおかしな受け答えは俺のときと変わっていない。注文の品を持って行くときも相変わらずふらふらとしていて危険きわまりない様子だが、かろうじてトレイを落とさずにすんでいるようだった。
「ほれっ。ラジックコーヒーだ」
またもイエスタが乱暴に置いたので飛び跳ねるコーヒー。
「うおっ。ど、どうも」
やはり、のけぞるお客さん。ひどい接客だがお客さんは特に文句は言っていないようだ。みんな寛大なようだ。よかったな、イエスタ。イエスタの場合は見た目に関してはふりふりのウェイトレス姿が良く似合っていてかわいいからな。お客さんも妙に怒れないところもあるんだろう。
「確か日本にはかわいいメイドさんが接客してくれるメイド喫茶ってものがあるらしいが、きっとこんな感じなのだろうな」
俺がそんなことを考えていると、
「お嬢ちゃん、注文いいかな?」
俺の近くの席に座っていた中年の男性がイエスタを呼んだ。その男性の容姿は、少し髪が薄くなった頭、恰幅のいい体、色の派手めなスーツとネクタイ、というものだった。慌ててその席に向かうイエスタ。
「は、はいなのだ」
「例のラジックコーヒーってやつを一つ」
「かしこまった。お客人、どうかお待ちあれ」
「あはは。お嬢ちゃん、面白いね」
そのお客さんはイエスタの意味不明な言葉遣いにも笑っている。本当にいい人ばかりだな。コーヒーが好きな人には悪い人はいないのかもしれない。
やがて、イエスタがその人のもとにコーヒーを届ける。
「ほれっ。おまちどう!」
「うおっ。あ、ありがとう」
のけぞって飛び散ったコーヒーのしぶきを避けると、すぐにその人はカップを口に運ぶ。
すると、
「こ、これは!」
先ほどの俺と同じように立ち上がって大声で叫ぶ。
「なんてうまいコーヒーなんだ! 香りも味も最高じゃないか!」
驚いて振り返るイエスタの肩をその人はつかまえる。
「き、君っ。こ、このコーヒーのことを詳しく教えてくれ! ぜひっ!」
「ひ、ひえっ」
「頼むっ、ぜひっ」
「ぎゃあああああ!」
突然、中年のおっさんに体をつかまれて混乱に陥るイエスタ。
「や、やめろおおお! は、離せえええ!」
涙目で叫ぶ。
「ここはそういう店じゃないんだ! わたしの体に触るなっ。わたしを離せえええええ!」
おっさんの方もすぐに我に返ってイエスタから手を離す。
「す、すまない。ついエキサイトしてしまった。すまない、君」
「ふしゅーっ、ふしゅーっ!」
おっさんから距離を取って猫のように警戒するイエスタ。マテウスさんがカウンターから出てくる。
「どうしたんだい、イエスタ君?」
「このおっさんが急にわたしにつかみかかってきたんだ。ものすごくびっくりした!」
おっさんの方を見るマテウスさん。おっさんは頭を下げながら言った。
「も、申し訳ない。ちょっとコーヒーのことを訊きたかっただけなんです。変な気はまったくないんです。許してください。本当に申し訳ない」
おっさんの言葉を聞いて安心するマテウスさん。
「はあ、そうですか。たいしたことでなくて良かった」
それからおっさんは懐から名刺を出してマテウスさんに渡した。
「私、実はこういうものなんです」
名刺に書かれた肩書きと名前を読むマテウスさん。
「えーと、なになに……エベストルTV、番組制作部長、ジョージ・ウォードマンさん、ですか」
「はい、そうです」
エベストルTV、この町にある唯一のテレビ局だ。どうやらこのおっさんはそこで働くけっこう偉い人のようだ。おっさんはハンカチで顔を拭きながら話す。
「私たちエベストルTVでは現在、コーヒーの特集を組んだ番組を放送しているんです。日曜コーヒーパラダイスという番組なのですが」
日曜コーヒーパラダイス、俺も見たことがある。有名な番組だ。
「そんな折にふらっと立ち寄った喫茶店にまさかこんなにすごいコーヒーがあるなんて。私はそりゃもう仰天してしまいましたよ」
気持ちはわかる。確かにこのラジックコーヒーはすごい。このウォードマンさんはまだ少し興奮した様子で続ける。
「あなたはまことに素晴らしいコーヒー職人ですな。私は本当に感動しました!」
「はは、それはどうも」
「それでですね、私、あなたに折り入ってお願いがあるのですが……」
「はあ、なんでしょうか?」
「是非ともあなたに私どもの番組に出演してもらいたいのです」
「ええっ?」
これにはマテウスさんも驚きを隠せない。
「わ、私がテレビに……ですか?」
「そう、あなたならぴったりです。是非ともお願いしますよ」
「う〜ん、そう言われましても……」
迷っている様子のマテウスさん。
「私がテレビにねぇ……あんまりねぇ……」
なかなか首を縦に振らない。急に言われたこともあるだろうがマテウスさんは性格的にあまり目立つようなことは好きじゃなさそうだからな。テレビに出ろと言われても戸惑うのも無理はないかもしれない。でも、これはマテウスさんのコーヒーが評価されるいい機会だと俺は思う。俺はマテウスさんに出演を勧める。
「いいじゃないですか、マテウスさん。出てみたらどうです? きっとお店も繁盛しますよ」
イエスタも、
「うむ。わたしもそう思う。ラジックの素晴らしさが少しでも世間に広まるのはいいことだ。がんばれ、マテウスさん」
俺たちの言葉にマテウスさんも表情を次第にほころばせる。
「そ、そうかい? う〜ん、まあ、君たちがそう言うんなら……」
「出ていただけますか!」
ウォードマンさんはマテウスさんの手を取って喜ぶ。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
「でも、私にできることはコーヒーをお出しすることぐらいですよ」
「いやもう、それだけで充分です。充分すぎます。番組の進行の方は私たちでうまくやりますので。あなたは何も気になさらなくてけっこうです。あっ、そうだ」
ウォードマンさんはイエスタの方にも眼を向ける。
「お嬢ちゃん、君もウェイトレスとして彼と一緒に番組に出てくれないか?」
それを聞いてイエスタは顔を輝かせる。
「わたしもテレビに?」
「ああ。君みたいなかわいい子ならきっと番組も盛り上がるよ」
イエスタはすぐにうなずく。
「わかった、出よう!」
「本当かい? 出てくれるんだね?」
「ああ。わたしの力、テレビに出ることによってとくと世に知らしめてやろう!」
「いや〜、よかったよかった。彼のコーヒーに君の華やかさが加われば番組も大成功間違いなしだよ。はっはっは」
すべてが思い通りに運んで満足そうなウォードマンさん。
「また明日うかがいますので詳しい話はそのときに。ではまた」
ウォードマンさんはコーヒーを飲み終わると今にも踊り出しそうな後ろ姿で店を出て行ったのだった。
それから三日後。
ウォードマンさんの番組にマテウスさんが出演することとなり、早速だが今日がその収録日となった。マテウスさんのラジックの効力は続くのが一週間ぐらいしかないということで番組の収録も急いで行うことになったようだ。
「一緒に来てもらって悪いね、ユトー君」
俺もマテウスさんの付き人兼荷物運びのような形でこのエベストルTVの番組収録スタジオにやって来ることとなった。
「いえ、テレビ番組を作っている場所なんてあまり見ることができませんからね。俺も楽しいですよ」
その番組のスタジオの中では、絨毯が敷かれ高級そうなテーブルが置かれた宮廷の中のようなセットが設けられていた。その周りには何台ものカメラとマイクが置かれており上からは照明がぶら下がっている。
「なるほど。あのセット、テレビで見たことがありますよ。実際はこういう風になっていたんですね」
番組の名前は確か『日曜コーヒーパラダイス』だったな。俺もたまに見るんだが、内容は国中のコーヒーショップを巡ってその店のコーヒーをスタジオで専門家たちと紹介する、といったものだったはずだ。今回はついに地元のマテウスにその白羽の矢が立ったというわけだ。
「私に本番でもうまくコーヒーを作ることができるだろうか。不安になってきたよ」
本番の時間が近づいてきて表情をこわばらせるマテウスさん。俺は励ましの言葉をかける。
「大丈夫ですよ。マテウスさんの作るコーヒーにかなうコーヒーなんて世界中のどこにもないんですから。自信を持ってください」
「そうかい? ありがとう、ユトー君」
にこり、としてみせるマテウスさん。彼のことだ、本当に大丈夫だろう。
「さて、問題は……」
俺は俺たちの近くにいるもう一人の人物、イエスタのことだ。こいつもウェイトレス役で今回の番組にマテウスさんと一緒に出演するように頼まれている。ジャレットの中でさえろくにウェイトレスとして働けないこいつにテレビでその役回りができるだろうか? この不安、マテウスさんどころではない。
「おい、イエスタ」
俺が心配して眼を向けると、
「……フッフッフ!」
そこには大胆不敵な笑みを浮かべて腕組みをして立つイエスタの姿があった。
「なにその自信あふれる表情っ?」
イエスタのことだ、さぞかし緊張して困っているだろう。と思いきや、まさかの余裕全開。これはいったいどうしたことだ? 俺は尋ねる。
「なんでおまえ、そんなに余裕なんだ。テレビに出るんだぞ。本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫か、だと?」
イエスタは威勢良く答える。
「愚問だな。愚問中の愚問だ!」
いつも眠たそうなイエスタの眼が今はらんらんと光っている。
「わたしにとって今日という日は世界制覇に向けての第一歩を踏み出した記念すべき日となるのだよ。フッフッフ」
「は? 世界制覇?」
「そう。日曜お茶の間テレビの前のみなさんはこの番組を見ることによってきっとわたしとラジックの魅力に取り付かれてしまうに違いない。ああ、イエスタちゃん、なんてかわいらしいんだ。おお、ラジックとはこんなに身近で素晴らしいものなのか。そうなればエベストルはもうわたしの手に落ちたも同然。ラジック神殿にもたくさんの人が参拝とか観光にやってきて神官であるわたしたち一家も鼻が高いというもの。テレビという最大のメディアを通じてまずはエベストル、そしてゆくゆくは世界中をわたしとラジックの魅力のとりこにしてしまうのだ、ハーハッハッハ!」
そう言って高笑いをするイエスタ。
「……あ、あっそう」
俺としてはこいつが何を言っているのかさっぱり理解できなかったが、とりあえずは本番を前に緊張せずにすんでいるのだ。これはきっと良いことなのだろう。そう思っておこう。
さて、そうこうしているうちに収録本番の時間がやってきた。ウォードマンさんがセットの傍らで待つ俺たちのところに来た。
「では、マテウスさんとイエスタちゃん、お願いしますね。リハーサルのとおりにやれば大丈夫ですから。行きましょう」
ウォードマンさんはセットの袖に二人を連れて行く。セットの中にはすでに出演者たちが全員そろっているようだ。
「それじゃあ本番、張り切ってまいりましょう!」
キャップ帽をかぶった番組ディレクターらしき人物が大きな声で収録開始の合図をかける。
「3、2、1、スタート!」
ついに始まったな。二人が出演するテレビ番組の収録が。俺までなんか緊張してきたぜ。
「みなさんごきげんよう」
ディレクターの声を皮切りにセットの中央に立っていた男が口を開いた。
「司会のレミー・フォンテーヌです。日曜の朝のひととき、いかがお過ごしでしょうか。これより三十分はコーヒーパラダイスで優雅な時間をお楽しみください」
この番組の司会フォンテーヌさんはオールバックにしたふさふさの金髪と端正な甘いマスクで人気のタレントだ。彼は柔らかな物腰で話を続ける。
「今日、お越しいただいたコーヒーショップのマスターはなんと我らの地元エベストルからです。ご紹介しましょう、喫茶店『ジャレット』のマスター、セバスティアン・マテウスさんです!」
周りにいる人たちの拍手とともにマテウスさんがカメラの前に姿を現す。俺も拍手をする。
「マテウスさん。ようこそ、わたしたちの番組へ」
「ど、どうも」
緊張した面持ちのマテウスさん。フォンテーヌさんと握手を交わす。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
それからしばらくの間、ジャレットのことやラジックコーヒーのことなどの紹介で番組が進行していく。やがてフォンテーヌさんは言った。
「では、マテウスさんにこのスタジオの中で実際にラジックコーヒーを作ってもらいましょう。マテウスさん、準備はよろしいですか?」
「はい」
セットの中にある喫茶店のカウンターのような場所に入るマテウスさん。そこに用意された道具でいつものようにマテウスさんはコーヒーを作る。コーヒーミルを回して豆を挽き始めるとスタジオの中に甘い香りが広がっていく。
「……ほう!」
フォンテーヌさんもテーブルに座って待つ番組のゲストたちもその香りの良さに驚く。
「これは、いい香りですね。ゲストの方々もさぞ期待が高まっていることでしょう」
ここでフォンテーヌさんは言った。
「では、そろそろ本日のゲストの皆さんをご紹介いたしましょう」
そういえば、この番組にはいつも三人のゲストが呼ばれていたな。彼らは出されたコーヒーを飲んでフォンテーヌさんといろいろ意見を交わし合うのがいつもの展開だ。日曜コーヒーパラダイスはそんな番組だったはずだ。
「では、一人目のゲスト……」
カメラが一番右端に座った女性を映し出す。
「コーヒー大好きアイドルとして有名なリンダ・クルケットさんです」
拍手が起こりそのリンダさんはテンションの高い声で応える。
「あたしぃー、コーヒーとかぁー、大好きでぇーす。ハートって感じぃ」
きゃぴきゃぴしたギャルっぽいキャラクターで人気のリンダさん。この人は俺もテレビでよく見かけるな。
「今日はよろしくお願いします、リンダさん」
「なにそれぇー、ちょーやばーい!」
何がやばいのか俺にはわからない。おそらくフォンテーヌさんもそうだろう。彼は苦笑いで次の人を紹介する。
「続いてのゲストはコーヒー通にはおなじみのこの方です」
カメラは真ん中の人物を映す。
「コーヒー評論家、キリマンジャロ斉藤さんです」
今度のゲストは国籍不明のサングラスをかけたおっさんだ。
「いやーどうもどうも。毎度毎度この番組ではうまいコーヒーただで飲ましてもろうて感謝感謝ですわ。ただで飲むコーヒーよりうまいもんはありませんわ、ほんまに。あとはもっとギャラ上げてーな。世の中、銭ですわ銭。たのんますわ」
「キ、キリマンジャロさん、そういう話は後で内々にお願いします。今はちょっと……」
「さいでっか。ほなまた」
こ、この人もまた変な人だなぁ。相手をするのは大変そうだ。フォンテーヌさんは急いで次の人を紹介する。
「最後はこの方です。失礼ながら私もあまり存じ上げない方なのですが……」
カメラは左端の人物を捉える。
「謎の貴族、ウォルフガング・トラファルガルド三世さんです」
誰だ、この人? 俺も知らない。何か顔中が白く長いひげに覆われたかなり年配のおじいちゃんだ。
「わしにコーヒーのことはさっぱり分からん。だが……」
そのおじいちゃんは言う。
「人生については誰よりも分かるつもりじゃ」
「…………」
そんなことを言われも誰も反応のしようがない。てか、コーヒーのことはわかんねぇのかよ。なんなんだいったい。仕方ないのでフォンテーヌさんが相手をする。
「……そ、そうですか。では後ほどご意見を賜りたいと思います」
「ふぉっふぉっふぉっ」
長いひげを揺らして笑う貴族のおじいちゃん。な、なんか今回のゲストは変な人ばっかりだな。フォンテーヌさんも大変だな。
「今日はこのお三方にコーヒーの感想をうかがっていきたいと思います」
ちょうど三人の紹介が終わったとき。マテウスさんの作るコーヒーが人数分できあがる。
「ラジックコーヒー、お待たせしました」
マテウスさんのその言葉を聞いてフォンテーヌさんは、
「おっと、コーヒーが出来上がったみたいですね。ではここで……」
大きな声で言う。
「今日はさらにもう一人、特別ゲストをお呼びしましょう。喫茶店ジャレットの看板娘、ウェイトレスのイエスタ・レンちゃんです!」
お、ついにここでイエスタの登場か。さてさて、どうなることやら。頼むからちゃんとやってくれよ、イエスタ。俺は不安と期待の入り交じる気持ちでイエスタがセットに入ってくる様子を見守る。
「ようこそ、私たちの番組へ。お嬢ちゃん」
フォンテーヌさんの言葉にイエスタは、
「うむ、ごくろうさまです」
ご、ごくろうさま? なんだその返しは。イエスタめ、さっそく国語力のなさが露呈してるぞ。全世界に軽く恥をさらしているな。
「ハハハ。聞いていたとおり面白いお嬢ちゃんだね」
フォンテーヌさんはイエスタの姿に眼を移す。
「それにしてもお嬢ちゃん、かわいい服だね」
今日のイエスタの着ている制服はいつにも増して派手なものだ。スカートやらカチューシャやらに付いたひらひらふりふりの飾りがいつもの二倍ぐらいに増えている。なんでもマテウスさんの奥さんが今日のために新しく作り直した服なんだとか。イエスタのやつ、幸せものだな。
「フリルがいっぱい付いていて君にとてもよく似合っているよ。そんな感じの服は、えーとなんていったっけ、ゴシック系とかいうのかな? お嬢ちゃんはそういう系が趣味なのかな?」
イエスタは少し考えて答える。
「さあ。わたしには服のことはあまりわからない。この服はマテウスさんの奥さんが作ったものでわたしは借りているだけだから。ただわたし自身が何系かと問われれば、そうだな……」
イエスタは思いっきりカメラ目線で言った。
「世界制覇系、とでも言っておこうか」
「え、えーと、なんだって?」
「世・界・制・覇! わたし、イエスタ・レンはゆくゆくは世界を手中に収めるべき人間だからな。何系かというと間違いなく世界制覇系だ。ハーハッハッハ!」
本番中にもかかわらず意味不明な発言をかまして場違いな高笑いをし始めるイエスタ。
「…………」
みんな困った顔をしているな。マテウスさんなんか顔が青ざめているじゃないか。
「さ、さて……」
司会のフォンテーヌさんはタイミングを見て強引に番組を進める。さすがこの辺りは手慣れているな。
「お嬢ちゃんには出来上がったばかりのコーヒーをゲストのみなさんに配ってもらおうかな?」
「うむ、まかせておけ。わたしはだてに長年ウェイトレスをやっているわけではないからな」
長年? おまえがウェイトレスを始めたのはついこの前だろ。なんで微妙に嘘付くんだよ!
「じゃあ、お願いね」
フォンテーヌさんに促されてコーヒーをテーブルに座っているゲストにラジックコーヒーを運ぶイエスタ。トレイに四つのコーヒーカップを載せて相変わらずふらふらと絨毯の上を歩く。
「だ、大丈夫かっ?」
イエスタがコーヒーカップを運ぶのは最初に比べればかなりましになったとはいえ、まだまだ危なっかしいものだ。とてもじゃないが安心しては見ていられない。
「落とすなよ! 絶対に落とすなよ!」
俺はイエスタに向かって必死に念じる。念じて意味はあるのか、とは言わないで欲しい。念じずにはいられないのだ。
「あっ!」
「や、やばい!」
案の定、トレイを落としそうになるイエスタ。
「いよっ……ほっ、はっ、とりゃーっ」
だが、いつもの曲芸みたいな動きでぎりぎり体勢を立て直す。
「ほっ。た、助かった……」
思わず安堵の声が出る俺。その後もイエスタは危なっかしい様子ではあったが、
「お、おまちどうなのだ!」
イエスタはどうにかみんなの座っているテーブルまでカップを持ってくることができたのだった。やはりガタッと激しくカップを置く。とはいえ、コーヒーはこぼしたり落としたりといった失敗はなんとかせずに済んだのだった。
「で、できた! テレビでもできた!」
無事にみんなへコーヒーを配り終えることができて喜ぶイエスタ。
「よくやった、イエスタ!」
俺も喝采の声が出る。
「ありがとう、お嬢ちゃん。よく頑張ったね」
そこでフォンテーヌさんは拍手をしながらイエスタに言う。
「じゃあ、また後でね」
これで最初の出番が終わるイエスタ。拍手の中、満足そうな顔でセットの外に出て行ったのだった。
「ふぅー。これでイエスタの出番はなんとかなったな」
俺はほっと胸をなで下ろす。
「よかった、本当によかった。あいつのことだから番組をぶち壊してしまうんじゃないかとひやひやしたぜ、まったく」
イエスタのやつ、質問に変な答えを返したりはしていたが肝心のウェイトレスの仕事は大過なくやり終えることができた。コーヒーカップを落としたりする最悪の展開だけは防ぐことができたわけだ。後はもう、イエスタにはたいした出番はなかったはずだ。最後にマテウスさんと二人でトロフィーか何かをもらって番組は終了という流れだったはすだ。
これでやっと一安心だな。もう家でテレビを見るような気分で収録も見ていられるというものだ。めでたしめでたしだ。
「では、みなさん……」
ゲストの三人と一緒にテーブルに着いたフォンテーヌさん。
「さっそくマテウスさんのラジックコーヒーをいただくとしましょう」
彼のその言葉を聞いてみんなはカップを口に運ぶ。
すると。コーヒーを飲んだ全員の表情が一変する。
「こ、このコーヒー……とてつもなくうまい!」
フォンテーヌさんが真っ先に口を開く。
「信じられない。今まで一番かもしれない!」
その言葉の内容が彼の驚きを物語っているな。俺もラジックコーヒーを初めて飲んだときは同様に驚いたものだ。アイドルのリンダさんも、
「なにこれ、本当においしいわ……あっ違った。あたしぃー、このコーヒーとかぁー、ちょーやばくてぇ、かんげきぃー」
思わず一瞬、キャラを忘れて素に戻ってしまうリンダさん。あのギャルっぽい話し方はやはり演技だったのか。まさかマテウスさんのコーヒーがそれを暴いてしまうとは。
「ほんまや。ほんまにおいしいで。このコーヒー!」
椅子から立ち上がって叫ぶように言う評論家のキリマンジャロ斉藤さん。
「銭以外にもこの世にこんな素晴らしいもんがあったとは! わしは感激や! ほんまに感激や!」
サングラスをはずすキリマンジャロさん。意外にも大きくてかわいい子供のような眼が現れる。そして、その眼は感動から涙に濡れてキラキラと光っているのだった。
「わ、わしは……」
長い名前をした貴族のおじいちゃんも口を開く。
「コーヒーの味はわからんが、このコーヒーからは人生を感じる。紆余曲折と艱難辛苦を乗り越えた壮大な人生を感じるぞい! なんと立派な人生じゃ!」
このおじいちゃん、言ってることは意味不明だがとりあえず誉めていることは確からしいな。こんなじいさんまで虜にしてしまうなんて。マテウスさん、すごいな。
「このコーヒーは味と香りの調和が完璧だよ!」
フォンテーヌさんも立ち上がって言う。いや、すでに全員が立ち上がっている。
「甘すぎず苦すぎず上品でさっぱりとした味と香り。ああ、体から毎日の疲れが抜け落ちていくようだ。体が、体が軽くなっていく。鳥になったかのような気分だ。そして目の前には大自然に囲まれたコーヒー畑の姿がありありと思い浮かんでくる。まるで雄大な大地と青い空が私に手招きをしているようじゃないか!」
この台詞、なんか俺が最初にラジックコーヒーを飲んだときとほとんど同じ感想だな。やはり、みんなそう思うのだろう。リンダさんも、
「あたしもまったくの同意見だわ! あ、違った。あたしぃー、マジやばくてぇー、マジでぇ……ああ、もういいわ、めんどくさい。とにかくこのコーヒーはスケールがすごいわ!」
リンダさんはキャラを作るのを放棄してしゃべる続ける。
「本当に美しい大自然の中に身を置いているような気分になってくるわ。まるで雄大な大地とかがあたしに手招きをしているみたいね!」
キリマンジャロさんもかわいい眼から流れ落ちる涙を拭きながら、
「ほんまや。みなはんの言うとおりや! なんか知らんけど手招きしとるで。ぎょうさん手招きしとるで!」
貴族のおじいちゃんもぷるぷるとカップを持つ手を震わせながら、
「わしにはコーヒーのことはまったく分からんが、手招きしているのは確かじゃな!」
な、なんなんだこの人たちは。さっきから手招き手招きって。そればっかりかよ。まあ、俺も最初はそう思ったけどさぁ。
その後もわいわいと同じようなことを言いながらコーヒーを飲む四人。
「手招きしている手の角度がまた絶妙ですよね」
「そうそう。手首のスナップもよく効いていてさぁ」
もういいよ! いい加減に手招きの話題から離れろよ。
しばらくして、ようやくフォンテーヌさんが話をまとめる。
「いやぁ、おいしかった。こんなにおいしいコーヒーは今までに飲んだことはありませんでしたよ。このラジックコーヒーはすべてにおいて完璧でした!」
フォンテーヌさんがマテウスさんに言う。
「マテウスさん、あなたは最高のコーヒー職人ですね」
「ありがとうございます。みなさんに喜んでもらって光栄です」
照れくさそうに話すマテウスさん。ラジックコーヒーがすごいのは当然だがここまで評価されるとは俺も思わなかったな。よかったですね、マテウスさん。
「視聴者の前のみなさんも是非このラジックコーヒーを味わってみることを私はお薦めします。セバスティアン・マテウスさんのお店はエベストルのジャレットです。みなさんもどうぞ足をお運びください」
フォンテーヌさんがカメラに向かってそう言い終わったところで、
「はい、カット!」
ディレクターの声がスタジオに響き渡った。
「オーケーです。お疲れ様でした。十分後に次の撮影に入ります」
そして、収録はまた別のシーンの撮影へと切り替わったのだった。
カウンターやテーブルの上の片付けなどが行われてから。
ついに番組の収録も次を残すだけとなる。確かその撮影はマテウスさんの表彰のシーンだったな。たまにこの番組では最後に評価の高かったコーヒーを作ったマスターへ記念のトロフィーを渡すシーンがある。今回はマテウスさんがそのトロフィーを受け取る栄誉に選ばれたというわけだ。これで晴れて番組の撮影は終了となるわけだ。
「いや、違ったな」
今回の場合はマテウスさんではなくイエスタがトロフィーを受け取るんだったな。その方が番組の絵的にも盛り上がるんじゃないか、との番組ディレクターの配慮だったはずだ。恥ずかしがり屋のマテウスさんの方でも異論はあるわけでもなく、イエスタの方も乗り気だったので簡単にそう決まったのだった。
俺は収録再開前のイエスタに声をかける。
「イエスタ。最後はトロフィーをフォンテーヌさんから受け取るだけの簡単な出番だ。しっかりやれよ」
イエスタは大きな声で、
「おう、まかせろ」
それから、にやりと口端を上げて俺に言う。
「と言うか、わたしはこんな有名なテレビ番組に出演してうまく自分の役割をこなしたんだ。これでもうわたしはテレビスターの仲間入りだな」
「はあ?」
「わたしはテレビスターになったのだ。ユトー、これからおまえなんぞは気軽にわたしに声をかけることなんてできなくなるぞ。今のうちにわたしの声をたくさん聞いておくがいい、はっはっは!」
「…………」
こいつめ、ちょっとテレビに出たからって急に態度が大きくなりやがったな。信じられないほどの単細胞だ。脳みそが全部一つの細胞でできているじゃないのか。少しは謙虚なマテウスさんを見習えばいいのにな。
「ま、まあ、とにかくがんばれよ」
「おう」
上機嫌のイエスタ。スタジオではすぐにディレクターから撮影再開の声がかかる。セットの中央に一緒に立つマテウスさんとイエスタ。少し距離を置いてトロフィーを持ったフォンテーヌさんがいる。
「では、いきます。3、2、1、スタート!」
まずカメラはフォンテーヌさんを映す。
「今回、登場していただいたマテウスさんのコーヒーは大変素晴らしいものでした。よって私どもの番組では彼に優秀コーヒー賞としてこのトロフィーを贈りたいと思います」
マテウスさんとイエスタの方を向くフォンテーヌさん。
「エベストルにあなたのような素晴らしいコーヒー職人がいらっしゃったとは。これまであなたを紹介してこなかった私たちの眼は節穴のようなものですよ」
「い、いえ。そんな、とんでもないです」
「どうぞこのトロフィーを受け取ってください」
「はい。ありがとうございます」
マテウスさんは横のイエスタに、
「ほら、イエスタ君。君が私の代わりにあのトロフィーを受け取ってきて」
「うん、わかった」
うなずくイエスタ。若干、緊張で硬くなった足取りでフォンテーヌさんの方へと歩き出す。
すると、
「うわっ」
何もない絨毯の上で突然、足をからませるイエスタ。
「うわわわっ」
ぴょんぴょんと走り幅跳びのようになりながらフォンテーヌさんに飛びかかっていく。
「あぶない。フォンテーヌさんにぶつかる!」
イエスタのやつ、ここでいつものドジをやらかしやがった!
「えっ!」
フォンテーヌさんも急なことで対処ができない。そのままフォンテーヌさんに勢いよく突っ込んでいくイエスタ。
「うわー!」
二人は一緒になって床に転がることとなってしまったのだった。
「……あ痛たたた」
トロフィーを持ったまま床に倒れたフォンテーヌさん。
「……君、大丈夫かい?」
幸いたいしたことはなかったのか、横に倒れたイエスタの方を向いてすぐに起き上がろうとする。
「うん。ごめんなさ……」
イエスタも立ち上がる。
「あれ? なんだこれ?」
だが、そのイエスタの手には何かが握られていた。何かもじゃもじゃとした金色のものだった。そして、フォンテーヌさんに眼をやると……。
「あっ!」
今までふさふさだった彼の頭の金髪は影も形もなくなっており、代わりに見事なまでに髪一本ない禿頭が姿を見せていたのだった。そう、イエスタが持っていたのはフォンテーヌさんのカツラだったのだ!
「……もしかして」
自分の状況に気づきみるみる顔から血の気が引いていくフォンテーヌさん。俺もびっくりだ。まさか彼の自慢の髪が実はカツラだったなんて。イエスタのやつ、最後の最後にとんでもないことをしでかしたもんだな。
「…………」
この突然のハプニングにスタジオにいる全員が凍り付いてしまったのは言うまでもないことだろう。こうして最悪な空気の中、番組の収録は終了したのだった。
その後。
マテウスさんのお店はテレビ番組の反響も大きくラジックの効力が切れるまでの数日間は大繁盛だったそうだ。イエスタもその間は臨時のウェイトレスとして忙しく働いたようだ。その甲斐あってイエスタはマテウスさんから普通より多めのバイト代をもらうことができたらしい。こうしてイエスタはめでたく念願だった高いステーキを食べることができたのだった。そのときは俺とマテウスさんも同席したんだが、イエスタのやつ本当に幸せそうな顔をしていたな。よかったよかった。
ただし。マテウスさんとイエスタが出演したときの日曜コーヒーパラダイス、後日この番組が放送されたものの中ではイエスタの出番は完全にカットされていたのだった。まあ、当然だろう。あんなのは放送できやしない。しかし、このことにショックを受けたイエスタが今度は「またテレビに出たい、出たい!」とわがままを言い始めたことは俺のとってはこの上なく迷惑な出来事だった。