最強騎士、ハムスターになる。なお、部下が絶対に踏ませてくれない
騎士団第一隊の隊長ダリオは、王女フィオレッタの我儘には、すっかり慣れているつもりだった。
ハーゼル王国の王家は、年に一度、森の魔女ミモザのもとへ挨拶の品を届ける。形ばかりの儀礼で、荷を渡して、お茶を一杯いただいて、帰る。それだけの仕事のはずだった。
問題が起きたのは、その帰り道である。
「少し歩きたいわ。この先に、きれいな池があるのでしょう?」
街道から外れた森の奥に、月影の池はあった。空をそのまま映した水面が、銀色にきらめいている。部下たちを街道に待たせ、ダリオだけが王女のお供について来たのは、嫌な予感がしたからだった。
その予感は、池のほとりで的中した。苔むした石柱が、道を塞ぐように立っている。
「殿下。ここから先は魔女の領地です。立ち入りは禁じられております。街道へお戻りください」
「あら。素敵な池ですこと」
聞いていない。フィオレッタは石柱の脇をするりと抜け、池のふちにしゃがみこんだ。金色の巻き髪が、ふわりと揺れる。
そして、水面へ手を伸ばした拍子に――。
「あっ」
ぽちゃん、と軽い音がした。
浅い水底で、銀の手鏡がきらりと光っている。祖母から譲られた、王女の大切な品だった。
「わたくしの手鏡が! 騎士、取ってきなさい!」
「殿下、ここは禁足地です。鏡でしたら、後日あらためて魔女殿に許可をいただいて――」
「後日では遅いのよ。それに、平民の騎士なら、少しくらい濡れても平気でしょう? 泥だらけのほうがお似合いですわ」
王女は扇を口元に当てて、くすりと笑った。
ダリオは表情を変えなかった。変えなかったが、心の中で、この王女の教育係にそっと同情した。
「殿下。規則は、殿下ご自身をお守りするためのものです」
「わたくしを誰だと思っているの? ハーゼル王国の王女ですのよ。わたくしが良いと言えば良いのです。それとも、あなたは王女の命令に逆らうのかしら?」
……これは、正式な命令だ。
ダリオは池を見た。浅い。鏡までは、膝より少し深い程度だろう。拾って、すぐに出る。三十秒もあれば足りる。ここで押し問答を続けて、王女が自分で池に入るほうが、よほど危険だった。
「……承知しました。ただし、私は三度お止めしました。その旨は、陛下にも報告いたします」
「お好きになさい」
ダリオは籠手を外し、冷たい水に踏み入った。鏡を拾い上げ、岸へ戻る。何事もなかった。そう思って、石柱の内側へ足をかけたときだった。
「あー、入っちゃったねえ」
間延びした声が降ってきた。
見上げると、石柱のてっぺんに、見知らぬ女が腰かけていた。つばの広い帽子に、だぶだぶのローブ。年の頃は二十にも百にも見える。足をぷらぷらさせながら、のんきに手を振った。
「どうも、ミモザでーす。この池ね、入ったらだめなやつなの」
「魔女殿。……申し訳ない。責任は私にあります。殿下は、事情をご存じなかったのです」
王女をかばう言葉が、自然と口をついて出た。ミモザは、ちらりと王女のほうを見た。王女は、いつの間にか石柱の陰に隠れている。
「ふーん。あの子に言われて入ったんでしょ? 見てたわよ。気の毒にねえ」
「では――」
「でも、決まりは決まりだから。池に入った人は、ハムスターね」
「…………は?」
聞き返す間もなかった。ミモザが、指をぱちんと鳴らす。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
空が遠ざかり、草が壁のようにそびえ立つ。胸当ても、剣も、身につけていたものが光の粒になってほどけていく。
「あ、持ち物は預かっとくね。戻るときに、ちゃんと返すから。……あ、その鏡はあの子のでしょ? それは置いとくわね」
ミモザの声が、はるか頭上から聞こえた。
気がつくと、ダリオは草むらの上にいた。両手を見る。小さな、ふわふわの、茶色い毛に覆われた前足があった。
(……何だ、これは)
手からこぼれた銀の手鏡が、目の前に落ちている。鏡面は、今の彼には扉ほどの大きさだった。その中に映っているのは、まるまるとした、茶色と白の毛玉だった。黒い目が、つぶらに見開かれている。
背後から、息を詰めるような音がした。
「…………ぷっ」
王女が、石柱の陰から出てきていた。肩が震えている。扇で顔を隠したが、遅かった。
「きゃはははは! 何よ、それ! 本当にあなたなの!?」
フィオレッタは身をよじって笑った。ダリオを両手ですくい上げ、目の高さまで持ち上げる。
「ご覧なさい、鏡があるわ! ほら! いつも偉そうな顔をしていたのに、そんなにちっちゃくなって! 平民にはお似合いの大きさですわね!」
「殿下。笑い事ではありません。ただちに下ろしてください」
「しゃべった! しゃべったわ! あはは、声まで小さいなんて!」
涙をにじませて笑う王女を、ダリオは黙って見上げた。怒りは湧かなかった。まず状況を把握する。それが隊長としての癖だった。
笑いの発作が収まるころ、王女の目つきが、少し変わった。
「……でも、ふかふかね」
「殿下」
「ちょっと、頬袋を触らせなさい。……やだ、何これ。かわいい」
「殿下、おやめください。頬を、つつかないでください」
「命令するのは、わたくしですわ。……ふふ、あったかい」
王女は、ハムスターを頬にすり寄せた。指でお腹を撫でられて、ダリオは全身の力が抜けかけるのを、必死にこらえた。
(これは――尊厳の危機だ)
* * *
その手のひらの上に、ふっと影が差した。
ミモザが、しゃがみこんでいた。ダリオに、顔を近づけてくる。
「ねえねえ。ちょっとだけ、こっち向いて」
ぱちん、と指が鳴った。
それきり、森から音が消えた。木の葉のざわめきも、鳥の声も、王女の笑い声も。フィオレッタは、ダリオを頬に寄せたまま、笑顔の形で固まっている。風に舞っていた葉が、空中でぴたりと止まっていた。
「……時を、止めた?」
「ちょっとだけね。内緒の話だから」
ミモザは、あっさりと言った。
「あなた、かわいそうだから、簡単な解呪条件にしてあげるわね」
「……解呪、できるのか」
「できるできる。人間に踏まれれば、元に戻れるわよ。簡単、簡単!」
「踏まれれば、いいのか」
「そ。踏まれた瞬間に、ぱって戻るの。潰れたりしないから、安心して。愛されてキスされるより、簡単じゃない?」
ダリオは、少し考えた。
(踏まれればいいのか。簡単だな)
部下の誰かに、足を置いてもらえば済む話だ。今日中にも片づく。そう結論して、ほんの少しだけ肩の力が抜けたとき、ミモザが立ち上がって帽子を直した。
「じゃ、あたしは帰るね。あ、そうそう! 解呪の条件を知られたら無効だからねー!」
「…………待て」
ダリオは、王女の手のひらの上で、全身を伸び上がらせた。
「今、何と言った。知られたら、とは。誰に知られたら。無効とは、どうなる」
「ばいばーい」
ひらひらと手を振って、魔女は森の木々の向こうへ消えた。言葉を継ぐ暇もなかった。
魔女の姿が消えた瞬間、止まっていた音が、一斉に戻ってきた。空中の葉が、ひらりと落ちる。
「……ふふ。あら、どうしたの? 急に静かになって」
王女は、何事もなかったように、ダリオの背中を撫でている。
(止まっていた間の話は、殿下には届いていない。……はずだ)
ただ、それが魔女の言う「知られた」に入るのかどうかも、ミモザは何も言わなかった。
(落ち着け。整理する)
まず、条件は「人間に踏まれること」。踏まれた瞬間に元に戻る。魔女の言葉を信じるなら、潰れる心配はない。
次に、「知られたら無効」。この一言が厄介だった。
条件を知る者に踏まれても、解呪されないのだろう。それは分かる。だが、その先が分からない。誰かに話したら、その相手が踏まなくても無効になるのか。話を聞いた者が近くにいるだけで駄目なのか。知る者が一人でもいれば、もう二度と解けないのか。どこまでが「知られた」に入るのか、魔女は何も言わなかった。
協力者を作る手も、一瞬だけ考えた。誰かに条件を教え、別の者に踏んでもらう。だが、その「別の者」が、何かの拍子に事情を知ってしまったら。無効のまま踏まれれば、相手は人間で、こちらは毛玉である。結果は、火を見るより明らかだ。
(賭けに出る理由が、ない)
解呪を急ぐ必要はあっても、命を賭ける必要はない。分からないことがある以上、いちばん安全な道を選ぶ。それがダリオの流儀だった。
(誰にも話さない。書き残さない。ほのめかしもしない)
口に出さないだけでは足りない。言動から悟られることも、避けるべきだ。「踏んでくれ」とは、絶対に言わない。事情を問われても答えない。必要なのは、何も知らない人間が、たまたま踏む。それだけだ。
もちろん、他人が自力で勘づく可能性までは、潰しきれない。そこは、自分にできる範囲で最善を尽くすしかなかった。
(……面倒なことを言い残して行ったな)
そのとき、街道のほうから、慌ただしい足音が近づいてきた。王女の笑い声を聞きつけた部下たちが、駆けつけてきたのだ。先頭は、副隊長のトビアスだった。
「殿下! ご無事ですか! 隊長は――」
「あら、いいところに来たわね。ご覧なさい!」
王女が、ずい、とダリオを差し出す。部下たちが、一斉に息をのんだ。
「……ハムスター?」
「いや、まさか」
「落ち着け。俺だ。ダリオだ」
静寂が落ちた。
やがて、大柄なボリスが、ぷるぷると震える声で言った。
「この声は……間違いなく、隊長……!」
「状況を説明する。魔女の呪いだ。池に入ったのが原因で――」
「さすが隊長! ハムスターになられても、その落ち着きぶり!」
「……だが、かわいい」
「やめろ」
最年少のエミルが、顔を覆って「かわいい……」と呟いている。無口なサイラスは、無言のまま、そっと両手を差し出していた。
トビアスは、背筋を伸ばして、声を引き締めた。
「隊長。解呪の方法は、おありなのですか」
来た、とダリオは思った。
ほんの一瞬、言葉に詰まった。トビアスは、誰よりも信頼できる副官だ。だが、この男に話すことが「知られた」に入るのか、ダリオには判断できない。
「……それは、答えられない」
トビアスは目を見開いたが、すぐに深くうなずいた。
「承知しました。隊長には、お考えがおありなのですね」
(違う。考えはある。が、そういう意味ではなく)
口を開きかけて、やめた。何かを足せば、足しただけ、情報が漏れる。ダリオは、小さな前足をぎゅっと握りしめた。
話せないのではない。話さないと決めたのは、自分だった。
* * *
最初の機会は、翌朝の出発前に訪れた。
朝食に、エミルが差し出したのは、ひまわりの種だった。隊員たちが固唾をのんで見守るなか、ダリオは合理的に判断し、栄養を摂った。頬袋が、ぷくりとふくらむ。
「さすが隊長! 食事の際も、一切動じない!」
「……だが、かわいい」
全員が、そろって天を仰いだ。ダリオは黙って、種を噛みしめた。
食事が終わると、鞍袋の上から、地面の様子を観察した。野営の撤収で、隊員たちが忙しく行き来している。足元に気を配る者など、誰もいない。踏まれるには、絶好の機会だ。
ボリスが、馬の腹帯を締めている。大きなブーツが、地面を踏みしめていた。
(あれがいい)
ダリオは鞍袋から跳んだ。着地、前転、立ち上がって全力で駆ける。短い脚が、ちょこちょこと草を蹴った。ボリスの足まで、あと三歩。二歩。
「隊長ぉぉぉ!?」
ボリスが振り返った。巨体に似合わぬ素早さでしゃがみこみ、両手でそっとダリオをすくい上げる。
「お怪我はありませんか!? 鞍から落ちられたのですね、申し訳ございません、目を離しました!」
「違う。落ちたのではない。下ろせ」
「いえ、地面は危険です。お任せください」
ボリスは分厚い胸板にダリオを抱えて、ぎゅっと目頭を押さえた。
「さすが隊長……あの跳躍力……! ……だが、かわいい」
(どうして泣く)
二度目は、昼の休憩だった。
今度は慎重に動いた。小川のほとりで馬に水を飲ませるエミルが、こちらへ背を向けて歩いてくる。ダリオは草陰に潜み、足音の間隔を数えた。
(右、左、右。――今だ)
飛び出した。エミルの靴先が、頭上に迫る。
その瞬間、横から、無言の手が伸びてきた。サイラスだった。いつの間にか、こちらを見張っていたらしい。
サイラスは、手近にあったヘルムを逆さにして、ダリオをすとんと中に収めた。
「サイラス! 出せ!」
返事はない。サイラスは、ヘルムを抱えたまま、静かに首を振った。
内側は、つるつるに磨かれていた。ダリオは何度も滑り落ちた。それでも足がかりを見つけ、ふちに前足をかけ、渾身の力で身体を引き上げて、外へ――落ちた。
ぽてん、と地面に転がる。すぐさま起き上がる。目の前に、エミルのブーツがある。
「隊長がヘルムから脱出された!?」
「あの握力、さすが隊長……! ……だが、かわいい」
「感心している場合か! 誰か、拾え!」
四方から手が伸びてきた。ダリオは必死に身をひねったが、最後はトビアスの手が、あっさりと、優しく彼を包んだ。
三度目は、その夜だった。
籠に入れられ、麻の網をかぶせられ、さらに布までかけられるという厳重な扱いを受けたが、ダリオは諦めなかった。ハムスターの歯は、思いのほか優秀だった。網の目を噛み続けること、半刻。ぷつん、と手応えがあった。
(出られる)
布の隙間から覗くと、焚き火の周りで、隊員たちが輪になって座っている。歩哨が、交代の足音を立てて近づいてくるところだった。
網をくぐり、籠を蹴って、全速力で駆ける。歩哨の足元へ。一直線に。
その足が下りる、まさに直前――。
「隊長ぉぉぉぉ!」
叫び声とともに、数名の隊員が、ほとんど同時に飛びついてきた。歩哨は片足を宙に浮かせたまま、石像のように固まっている。
ダリオは、何本もの手に囲まれて持ち上げられた。
「また……また、地面に……」
「あの網を、噛みちぎって……」
見回すと、隊員たちの顔が、揃いも揃って青ざめていた。目に涙を浮かべている者までいる。ダリオが見つめると、彼らは顔をそむけて、唇を噛んだ。
その唇が、小さく動いた。
「……隊長は、自ら……」
「あの強いお身体を失って、お辛いのだ……」
(……自ら?)
ダリオは耳をそばだてた。
(待て。何の話をしている)
「トビアス。聞こえている。何か、誤解をしていないか」
「誤解など……」
トビアスは、震える声で首を振った。目はすでに赤い。
「隊長は、これまで誰よりも強くあられた。それが、そのような小さなお身体になり、無力を感じておられる。それは、当然のことです」
「無力など感じていない」
「ええ、隊長ならば、そう仰るでしょう」
「俺は命を捨てようとしているわけではない……!」
「分かっております、隊長」
トビアスは、拳で目元をぬぐった。ほかの隊員たちが、一斉に、ぐす、と鼻をすすった。
「分かっております。……そう仰るしか、ないのですよね」
(分かっていない!)
叫びたかった。踏まれる必要があるのだ、それで戻れるのだ、と。一言、言えば済むことだった。
だが、その一言が、どこまで何を壊すのか、ダリオには分からない。喉元まで上がった言葉を、ダリオは奥歯を噛みしめるようにして、飲み込んだ。
* * *
その夜更け。トビアスは、焚き火の番をしながら、膝の上で丸まる小さな背中を見つめていた。
三度の脱走で疲れ果てたのか、毛玉は規則正しく上下している。昼間はあれほど必死に地面へ向かっていたのに、眠る姿は、驚くほど無防備だった。
(隊長……)
トビアスの脳裏に、三年前の冬が浮かんだ。国境の砦が吹雪に閉ざされた、あの夜。指揮に自信を失いかけていたトビアスの肩を、ダリオは黙って叩いて、言ったのだ。
「何かあったときは、お前が指揮を執れ。お前ならできる」
あの一言で、どれほど救われたことか。
その隊長が、今、自分たちの前で、命を投げ出すような行動を繰り返している。何も話してくださらないのは、きっと、話せば我々が悲しむと、お考えだからだ。あの人は、そういう人だ。
涙が、ぼたぼたと、トビアスの膝に落ちた。
彼は静かに立ち上がり、小さな隊長を柔らかな布に包んで、隊員たちを起こした。
「全員、起きろ」
ぞろぞろと、眠そうな顔が集まる。トビアスは声を殺して、しかし熱く言った。
「隊長は、我々を信じてくださった。今度は、我々が隊長をお守りする番だ!」
眠気が、一瞬で吹き飛んだ。
「全員、隊長を地面に近づけるな! 足元に行かせるな! 隊長のご命令は絶対だが、隊長ご自身の身の安全に関わる場合は、例外とする!」
「「「はっ!!」」」
「今この時より、我らは『隊長絶対守る団』を名乗る!」
ボリスが、鼻水をすすりながら拳を突き上げた。エミルが、涙目で何度もうなずいた。サイラスは、無言で敬礼した。
そのとき、布の中で、小さな隊長が、ぱちりと目を開けた。
「……何をしている」
「隊長はお休みください。我々が、お守りします」
「守る? 何から」
「すべてから」
トビアスは、感極まって、それ以上何も言えなかった。ダリオは、じっと彼を見上げて、それから、ゆっくりと目を閉じた。
* * *
眠りに落ちかけたダリオを、ひそひそ声が呼び戻した。
焚き火の向こうで、隊員たちが輪になって座り込んでいる。声を殺しているわりに、熱がこもりすぎていて、ほとんど筒抜けだった。
「団には、旗が必要です。士気に関わります」
エミルが、小声で力説している。
「剣と盾は、ありきたりでは?」
「獅子はどうだ」
「隊長らしさがない」
そこへ、ボリスが、ぽん、と手を打った。
「ハムスターとひまわりの種は、どうですか?」
「いいね!」
「隊長らしさがありますね!」
「かわいくて、強そうだ!」
どこがだ、とダリオは思った。強そうな要素が、どこにもない。輪の端では、サイラスだけが一言も発さず、黙々と針を動かしている。何を縫っているのかは、暗くて見えなかった。
「待て。却下だ。意匠は、剣か、盾か、獅子にしろ」
布の中から声を上げると、輪がぴたりと静まった。トビアスが、膝を進めて、重々しく言う。
「獅子は、王家の紋章にございます。隊長の威光は、獅子にも劣りません。しかし、団には独自の象徴が必要です」
「俺は独自性を求めていない」
「隊長。お疲れでしょう。この件は、我々にお任せください。明朝、ご報告いたします」
トビアスの手が、そっと布を掛け直した。
(任せられる内容ではない。待て、まだ話は――)
だが、小さな身体は、三度の脱走の疲れに、あっさり負けた。ダリオの意識は、ことん、と眠りに落ちた。
翌朝。ダリオは、昨夜の出来事を夢だと思おうとした。
夢ではなかった。起きてすぐ、小さな毛布で首まわりをくるまれ、柔らかな布を敷いた木箱に収められ、隊員が四方に立っていた。「足元警備」と呼ばれる新しい任務だという。
そして、野営地の真ん中。立てられた槍の先で、一枚の旗が、朝風にはためいていた。
青い地の中央に、丸い毛玉が、胸を張って立っている。足元には、堂々とした金糸のひまわりの種。刺繍は驚くほど精巧で、毛並みの一本一本まで、丁寧に縫い取られていた。
「……縫いました」
木箱の脇で、サイラスが、ぼそりと言った。目の下に、くっきりと隈ができている。
「いつの間に」
「夜……です」
「寝ていないのか」
「……はい」
見事な出来栄えだった。見事すぎて、反論の言葉が、どこにも見つからなかった。
「隊長が、感動のあまり、言葉を失っておられる……!」
「無理もない。あの威光が、完璧に表現されている……!」
ダリオは、静かに目を閉じた。
怒鳴りはしなかった。怒る気力が、風のように抜けていった。
(……そうか)
それだけ、思った。
* * *
旅の四日目の夜、フィオレッタは、ひどく機嫌が悪かった。
理由は、いくつもある。足が痛い。馬の背が落ち着かない。それから――ハムスターを、返してもらえない。
「わたくしが拾ったのよ。夜のあいだくらい、膝に置かせなさい」
「申し訳ございません、殿下」
トビアスは、背筋を伸ばしたまま、頭だけ深く下げた。ハムスターの入った木箱は、ひしと抱えたままである。
「殿下のご命令に従えない無礼は、帰城後に、いかなる罰も受けます。ですが、隊長を地面に近づけぬことは、我々の務めなのです。殿下の膝は、地面から近すぎます」
「近すぎ……? わたくしの膝が?」
意味が分からない。意味は分からないが、トビアスの目は、本気だった。
フィオレッタは、ふん、と鼻を鳴らして、焚き火のそばの丸太に腰を下ろした。
(なによ。わたくしは王女なのに)
最初の日は、面白かった。ハムスターになった騎士を、ずっと笑っていられた。部下たちだって、きっと内心では笑っているのだと思っていた。
けれど、誰も笑わないのだ。翌日も、その翌日も。部下たちは、毎朝、ハムスターの隊長に直立不動で敬礼する。
「隊長、おはようございます! 本日の行程をご報告します!」
「うむ。……ボリス、昨日の斜面はどうだった」
「崩れやすい箇所がありました。迂回路を探したほうがよいかと」
「いや、迂回は時間を食う。二刻早く出て、手前で水を補給する」
「はっ!」
木箱のふちで、小さな毛玉が、とても真面目な声で指示を出している。部下たちは、何一つ笑わず、真剣な顔で聞いて、的確に動いている。
(……どうして、こんな小さな姿でも、みんな、この人の言うことを聞くの?)
フィオレッタの胸の奥で、何かが、じりじりと小さく音を立てた。
そのとき、ボリスが、ばっと振り向いた。
「隊長が、お箱から! エミル、右だ!」
「確保ぉぉぉ!」
「殿下! お足元に、お気をつけください!」
「え? 何?」
後ずさりしようとした、そのときだった。かかとの後ろを、茶色い小さな影が、すごい勢いで横切ろうとした。
ボリスが、頭から地面に飛び込んだ。エミルが、青い顔で叫ぶ。
「殿下、動かないでください! そのまま! そのまま!」
フィオレッタは、片足を上げたまま固まった。ボリスが、土まみれの手で、そっと何かを掬い上げる。
ハムスターだった。
「……確保」
ボリスの声は、かすれていた。周りの隊員たちは、全員、顔が灰色だった。膝をついて動けなくなる者までいる。トビアスは、両手で口を覆って、小刻みに震えていた。
(なによ。そんなに取り乱して)
言いかけて、やめた。
ボリスの手の中のハムスターは、じたばたと暴れていた。ハムスターの表情など分かるはずもないのに、その丸い顔は、どういうわけか、とても悔しそうに見えた。
「あの……殿下。ご無礼を。今のは……」
「わ、わたくしが、踏むと思ったの?」
「いえ! 決して、そのようなことは! ただ、万が一ということが!」
ボリスが、深々と頭を下げた。額が、地面にぶつかりそうになる。
フィオレッタは、ゆっくりと足を下ろした。胸の奥が、変な風にきゅっとなった。
(……この人たちは、本当に、あの小さいのを、失いたくないんだわ)
それが「命令だから」でも「身分が上だから」でもないことは、いくら鈍くても分かった。ハーゼル王国の王女である自分に、そんなふうに慕ってくれる家臣が、何人いるだろう。
認めるのは、悔しかった。
夜が更けて、皆が寝支度を始めたころ、フィオレッタは、こっそり右足を引きずって岩陰へ向かった。靴の中が、じんじんと痛む。皮がむけているのが、見なくても分かった。
(誰にも知られたくないわ。王女が靴ずれだなんて、みっともない)
岩陰に座って靴を脱ごうとしたとき、小さな声がした。
「殿下」
岩の上に、いつの間にか、ハムスターがちょこんと座っていた。トビアスが、ほんの少し席を外した隙に、木箱から出てきたのだろう。
「……何の用?」
「右足を、引きずっておられます。靴ずれでは?」
「な……! 何を言うの、わたくしは別に――」
「歩幅が、左右で違います。旅の前に新調された靴ではありませんか。馴染む前の靴は、数日で足を傷めます」
フィオレッタは、言い返せなかった。図星だった。
「それと、もう一つ。殿下の馬は、昼の坂で、二度、足を止めかけていました。殿下の荷が、馬には重すぎます」
「わたくしの荷が、重い?」
「はい。このまま行けば、明後日には、馬が動けなくなります。そうなれば、全員の到着が遅れます」
「わたくしに指図するの? 平民のくせに!」
声が、少し裏返った。小さな毛玉は、微動だにしなかった。
「指図ではありません。進言です」
黒い瞳が、まっすぐ、フィオレッタを見ていた。その目に、怒りも、卑屈も、へつらいもなかった。ただ、彼女の足と、馬と、明日の道のことだけを見ている目だった。
(……この人は、わたくしを、王女としてではなく、一緒に旅をする者として見ているのだわ)
そんなことを考える自分が、不思議だった。
がさり、と近くの草が揺れた。エミルが、薬と布を抱えて顔を出す。聞き耳を立てていたらしい。
「……勝手になさい」
フィオレッタは、そっぽを向いたまま、靴を差し出した。エミルが、そっと手当てを始める。
生まれて初めて、人の忠告に従った気がした。
翌朝。出発の支度をする隊員たちの前に、フィオレッタは、帽子箱を二つと、ドレスの包みを三つ、どんと並べた。
「これは、置いていきますわ。ちょうど、飽きていたところですの。決して、誰かに言われたからではありませんわよ」
隊員たちが、ぽかんとしている。
(ほら、置いたわ。これで馬は楽になるのでしょう)
フィオレッタは、ハムスターの入った木箱に目を向けて、自分でも気づかないうちに、口を開いていた。
「……ダリオ。これで、足りるかしら」
言ってから、はっとした。
(今、わたくし、名前を)
木箱の中の毛玉は、ちらりとこちらを見て、普段どおりの声で答えた。
「十分です、殿下。感謝します」
「か、勘違いなさらないで! 『騎士』と呼ぶより、名前のほうが早いと思っただけですわ!」
「承知しました」
淡々とした返事だった。フィオレッタは、顔が熱くなるのを感じながら、ぷいと背を向けた。
(……どうして、顔が熱いのかしら)
* * *
その日の午後、一行は、岩壁に挟まれた細い谷道にさしかかった。
最初に気づいたのは、馬だった。次いで、木箱の中の毛が、ぴんと逆立った。
「止まれ。全員、止まれ」
小さな声が、ぴしりと空気を締めた。
「灰牙狼だ。数は多い。左右の岩場から、挟む気でいる」
「まだ、姿も見えませんが」
「風に、獣の匂いが混ざっている。トビアス、俺の言うとおりに動け。殿下は中央へ」
そこまで言って、ダリオは言葉を止めた。小さな頭が、くるりとフィオレッタのほうを向く。
「殿下。肩を貸していただけますか」
「わたくしの、肩?」
「私の声は小さい。前列まで届きません。殿下のお声が、必要です」
(わたくしの声が、必要……)
命令する声は、さんざん出してきた。けれど、頼まれて使うのは、初めてだった。
「……仕方ないわね。落ちないでちょうだい」
小さな重みが、肩に乗った。ほとんど何も感じないほど軽い。けれど、耳元で響く声は、はっきりしていた。
「左の岩場に三名、右に五名。残りは中央で殿下の護衛」
「左の岩場に三名! 右に五名ですわ! 残りは中央で、わたくしを守りなさい!」
フィオレッタの声が、谷に響き渡った。隊員たちが、一糸乱れず動いた。背筋が、ぞくりとした。
わたくしの命令だから、動いたのではない。この人の命令だから、動いたのだ。
それでも、悪い気はしなかった。
灰色の狼が、岩場の上から、一斉に躍り出た。牙が、ぎらりと光る。
「右が先に来る。ボリスは二歩下がって受けろ。エミルは、足場を崩される前に位置を替われ」
「ボリス、二歩下がって受けなさい! エミル、位置を替わりなさい!」
「サイラスは、中央から射て。狙いは、前に出た二頭」
短い指示が、耳元で矢継ぎ早に飛ぶ。フィオレッタは、一語も取りこぼさないよう、必死に繰り返した。繰り返すうちに、気づいた。ダリオは、全員の癖まで把握したうえで言っている。ボリスには力で受けさせ、エミルには足の速さを活かさせ、サイラスには狙いだけを告げる。
誰一人、迷わない。誰一人、疑わない。
「灰牙狼は、倒れても死んだふりをする。倒れた個体は、必ず止めを確かめろ。止めを刺すまで、背を向けるな」
「倒れた狼は、必ず止めを確かめなさい! 背を向けてはいけませんわよ!」
剣と牙のぶつかる音。馬のいななき。ボリスの怒号が岩壁にこだまして、谷が震えた。狼は思ったより賢く、右へ左へと素早く動いて、隙を狙ってくる。
耳元で、ダリオが小さくつぶやいた。
「……一頭、倒木の裏に下がったか」
フィオレッタが、その言葉を発しようとした時――
「殿下、一歩、下がって」
耳元の声に、反射的に足が動いた。その直後、さっきまで立っていた場所を、狼の牙が、がちんと噛み砕いた。
フィオレッタは、息をのんだ。
(今、動かなかったら……)
「次、右へ三歩」
「右、三歩ですわね!」
疑う暇もなく、体が従っていた。誰かの言葉を、こんなふうに信じて動いたことが、これまでにあっただろうか。
やがて、最後の一頭が、トビアスの剣の前に崩れ落ちた。
谷に、静けさが戻る。
「全頭、確認! 見える範囲の狼は、すべて倒しました!」
「待て。倒木の裏に、一頭――」
ダリオの声が、鋭くなった。
けれど、隊員たちの顔には、すでに安堵が広がっていた。誰かが拳を突き上げ、誰かが「やったぞ!」と叫び、歓声が谷に弾ける。肩の上から全体を見渡せていたのは、ダリオだけだった。その大歓声が、彼の声を、頭からかき消した。
フィオレッタも、ぱっと顔を輝かせた。
「終わったのね! やりましたわ、ダリオ!」
肩の上の小さな身体が、ぴくりと跳ねた。
「……殿下! 後ろだ!」
* * *
倒木の陰から、灰色の巨体が跳ね上がった。
いちばん近いのは、フィオレッタだった。
手負いの一頭は、血走った目で、まっすぐ彼女へ向かって飛んでくる。
「きゃっ――!」
悲鳴が、喉に引っかかった。体が勝手に、大きく後ろへ跳ね退く。
その直前、肩の上の重みが、ふっと消えるのを感じた。
(ダリオ?)
小さな茶色い影が、肩から飛び降りて、彼女の足元へ、一直線に飛び込んでいく。
(待って、そこは――)
かかとが、着地した。
ぐにゃ。
何か、小さくて、あたたかくて、柔らかいものを、踏んだ。
その瞬間、かかとの下で、白金色の光がぱっと弾けた。まぶしさに、フィオレッタは思わず目を細めた。
「きゃーーーーっ!! わたくし、何を踏んだの!?」
谷中の隊員が、一斉に叫んだ。
「「「隊長ぉぉぉぉぉ!!!」」」
「踏んだ……! 殿下が、隊長を……!」
「光った! 隊長が光ったぞ! 昇天されたのか!?」
「ああああ! 隊長が! 隊長がぁぁぁ! お戻りくださぁぁい!」
トビアスが、剣を取り落として膝をついた。ボリスが顔を覆って号泣している。エミルは卒倒しかけて、サイラスに支えられていた。
フィオレッタ自身も、頭の中が真っ白だった。
(わたくしが、踏んだ。あんなに、みんなが守っていたのに。ダリオを、あの小さなダリオを)
足を、上げられない。上げるのが、怖い。
目の前では、狼が牙をむき出しにして、砂煙の向こうから迫ってくる。
ところが、足の下の感触は、いつの間にか消えていた。光が薄れ、砂煙がざっと割れて、背の高い男の背中が現れる。
見上げるほどの、黒髪の男だった。手には、見慣れた銀の剣。鎧には、光の名残がきらりと残っていた。
「……やっと戻れた」
低い、落ち着いた声だった。
次の瞬間、剣が一閃した。灰色の巨体が、フィオレッタの目の前で、音もなく崩れ落ちる。
静寂。
男は剣の汚れを払い、鞘に納めると、くるりと振り向いた。黒い瞳が、まっすぐ、フィオレッタを見下ろしている。
「殿下、お怪我は?」
谷が、しんと静まり返った。
「「「…………隊長?」」」
数瞬ののち、谷が爆発した。
「隊長ぉぉぉぉぉ!!!」
「隊長が! 隊長が、もとのお姿に!」
「隊長がいつもの隊長に戻られた……! よかった……! 本当によかった……!」
トビアスが、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしている。ボリスは、エミルとサイラスを両脇に抱えて、天を仰いで泣いていた。
ダリオは、ちらりと部下たちを見て、淡々と言った。
「騒ぐな。ボリス、負傷者の確認。エミル、ほかに残りがいないか周囲を見ろ。サイラス、馬を集めろ。トビアス、泣くのはあとにしろ」
「はっ! 申し訳ございません!」
「……承知」
全員が涙を拭いて、駆け出した。ほんの数十秒前まで号泣していたとは思えない、見事な動きだった。
(さっきまで、あんなに泣いていたのに……)
フィオレッタは、呆然と立ち尽くした。
* * *
騎士として当然の務めだ。そう言わんばかりの、平然とした後ろ姿だった。
フィオレッタは、ようやく、自分の膝が震えていることに気づいた。よろけた瞬間、大きな手が、ぱしりと腕を支えた。
「失礼します」
「え」
「足が、ふらついておられる。こちらへ」
ダリオは、フィオレッタを丸太に座らせて、すっと片膝をついた。靴を脱がせ、足首を確かめる。指先が、驚くほど丁寧だった。
「靴ずれ以外に、お怪我はありません。間に合って、よかった」
近い。ものすごく近い。
こんなに背が高かったかしら、と思う。ハムスターの姿に慣れすぎて、感覚が狂ってしまったのだ。けれど、それだけではない。見上げた横顔は、思っていたよりずっと精悍で、まっすぐで、頼もしくて。
(……かっこいい)
頬が、また熱くなった。
(さっき、わたくしを守ってくれた。あんなに小さな身体で、飛び込んでくれた)
あんなに小さな姿でも、自分を守ろうとしてくれた。それなのに、自分は、その姿を笑っていた。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「あ、あの。わたくし、あなたを、その……踏んで……」
「お気になさらず。無傷です」
あまりに平然と言うので、それ以上、何も聞けなかった。聞いたら、何かが壊れる気がした。
ダリオは立ち上がり、フィオレッタを見下ろして、静かに言った。
「殿下。帰城後、今回の件について、お話があります」
「……お、お話?」
「禁足地へ立ち入られた経緯。それと、道中でのことについて。……いくつか、ございます」
声は穏やかだった。表情も、いつもの冷静な騎士のものだった。それが、かえって、ひどく恐ろしかった。
(……かっこいい。でも、絶対に怒られる……!)
背筋が、ひやりとする。同時に、胸の奥が、とくん、と鳴った。
どちらの音のほうが大きいのか、フィオレッタには、まだ分からなかった。
* * *
王城に帰還して、三日が経った。
ダリオは、城門の見張り塔を見上げて、足を止めた。風にはためく旗が、一枚ある。
青い地に、金糸のひまわりの種。その上で、胸を張る、丸い毛玉。
「……撤去しろと、命じたはずだが」
「はっ! 撤去いたしました!」
トビアスが、びしりと敬礼した。目が、妙に誇らしげだった。
「そして、改良いたしました! 隊長の威光が足りないとのお言葉を、承りまして」
「言っていない」
よく見ると、旗の中のハムスターは、小さな赤いマントを羽織っていた。前足には剣。頭には月桂冠。ひまわりの種は、金から白金に格上げされている。
「サイラスが、三日で仕上げました」
「寝ろ」
隣で、サイラスが、無言のまま誇らしげに親指を立てた。
ダリオは、長い息を吐いた。
「……解散だ。隊長絶対守る団は、本日をもって解散する」
「お言葉ですが、隊長」
トビアスは、一歩も引かなかった。
「団規第三条により、隊長の身の安全に関わるご命令は、例外となります」
「どういう団規だ」
「隊長が、ご自身で『人間に戻った』と仰っても、いつ何があるか分かりませんので」
「「「隊長は、我々が必ずお守りします!」」」
旗の下で、隊員たちが一斉に敬礼した。その後ろで、ひまわりの種が、白金に輝いている。
ダリオは、天を仰いだ。
今日の午後には、王女への説教が控えている。その前に、旗の件を片づけたかった。だが、どちらも、前途は多難だった。




