物忌み
ばあちゃんはよく言っていた。
「夜道を歩いててナーンの音も聞こえんくなった時はな、アガネ様がお渡りしてござらっしゃるだで、地面に突っ伏して絶対に顔を上げちゃいかんよ」
十数年ぶりにその名を思い出したのは、地元の友人たちと集まっての飲み会の席でのことだった。
「正直さ、子供が夜遊びしないように脅かすための作り話だと思ってたんだよ、俺は」
そう言ったのは真向かいに座る同じ地区で育った幼馴染のタケやん。
「いや、神様なんだろ、穂々原の田んぼの真ん中にあるちっこい神社、あれに祀られてるのがアガネ様だって聞いたことあるぞ」
こちらは高校時代の悪友、ガクさんの言い分で。
「いやいや、あれはちゃんとした香取さんだって、市内の他の神社も、アガネ様なんて神様はいないよ」
神なのか妖怪なのかも定かじゃない、だがこの辺の年寄りたちがみんな知っている“何か”——それがアガネ様。
もちろん子供じゃあるまいし、信じちゃいないが。
「子供の頃は怖かったんだよな、帰りが遅くなった時とかさ、周りが静かすぎると“お渡りだー”って、ギョッとしたもんよ」
「音が聞こえなくなったら、突っ伏して、顔を上げちゃいけないんだっけ?」
「そうそう、アガネ様のお顔を見ないために、だろ」
「見たらどうなるんだっけ」
「さあ、それは聞いたことないな」
俺はそこで、ぽそっと呟いた。
「そもそも、完全に音のない状態なんて、真空下でもない限り存在しないだろうよ」
みんなが酒の勢いに任せてガハハと笑った、
「さすがインテリ!」
「懐かしいな、そのあだ名!」
「でも言われてみりゃあその通りだ!」
少し、うるさい。
その後、昔の思い出話なんかダラダラとしながら飲んで、飲み会は10時にはお開きになった。
田舎は終バスが早い。
飲んだ後は家族に迎えにきてもらうか、同じ方向に帰る者同士でタクシーに乗り合わせるか。
だけど俺は、懐かしさと、あとは酔いの勢いも手伝って、歩いて帰ることにした。
「本気か? 穂々原まで歩くっちゃあ、40分はかかるべよ」
「うちの車がもうすぐくるから、乗っていきなって」
親切に言ってくれるやつもいたけれど、これを断る。
「大丈夫だよ、タケやんも一緒に歩いてくれるし」
「そうそう、それにさ、ガキの時は、この距離歩いて学校行ってたじゃん」
飲み席での話のつづきのつもりなのか、誰かが頓狂な声をあげた。
「いやいや、危ないぞぉ、アガネ様にあったらどうするんだよ!」
「ガキじゃあるまいし、そんなん怖くねえよ、なー?」
「そりゃそうか」
酔っ払いの集団心理なのか、無遠慮な声量でギャハハと笑い合う。
正直、うるさい。
俺は愛想笑いを返して、彼らと別れた。
同地区に住む幼馴染、タケやんを連れて夜道を歩く。
しもた屋が立ち並ぶ駅前通りを抜けて、コンビニを超えると、道路脇は急に暗くなる。
右手には人の背丈ほど伸びた草が密に生い茂った空き地、左手には何に使っているのかわからない砂利を敷き詰めただだっ広い空き地。
田舎道には空白が多い。
空白の間に、潰れたガソリンスタンド、敷地内に納屋と口かけた旧宅を抱えた大きな農家。
それを過ぎると後は、ただ見渡す限りに水田が広がる。
季節はちょうど初夏、植えたばかりの苗が風にゆすられるかすかな音と、そしてうるさいほどのカエルの声。
どこか近くに牛蛙が一匹、「ぶもー、ぶもー」と唸るような声で鳴いてる。
先ほどまでしきりに話しかけてきたタケやんも、ネタが尽きたのか口を閉じる。
砂っけの多いアスファルトを踏む足音が、真っ黒い夜の中に響いている。
とても静かな夜だ。
少し不安な気分になった俺は、何気なく口を開いた。
「実はさ、仕事辞めて、こっちに帰ってこようかと思うんだ」
タケやんは「へえ」と曖昧に答えた。
「でもさ、都会で暮らしちゃうと、こっちの暮らしは静か過ぎるんじゃないか」
「だからいいんだよ、都会ってのは、少しうるさくてね」
道幅も広い国道だというのに、ここまで誰一人として歩いている人とすれ違わない。
さっきから通った車はたった3台だけ。
四六時中いつでも雑踏と他人の気配に満ちた都会とは違って、ここは、静かだ。
田んぼの上を通る風の音さえ聞こえる。
「いつでも音が聞こえている暮らしってのに、少し疲れてしまったんだよ」
「そうか」
それっきり、特に会話もなく歩く。
四方を田んぼに囲まれた農道のところで、タケやんは足を止める。
彼の家は見晴らしのいい農道を辿って田んぼのど真ん中、背後に林を抱える大きな農家だ。
「こっから一人で大丈夫か?」
「若い女ならいざ知らず、こんな野郎を襲う奴はいないだろうよ」
「いや、アガネ様がさ」
「まだその話引っ張るのかよ」
俺も軽く笑い声を上げる。
「俺ら、そんな迷信を怖がるような歳じゃないだろ」
「確かに、でも、音が何にも聞こえなくなったら伏せ!だぜ」
「こんな田舎でそれやってたら、伏せっぱなしになるんじゃないか」
「あはは、確かに」
そんな軽口を交わして、タケやんと別れる。
俺の実家は、ここから国道沿いにさらに先にある、穂々原団地と呼ばれる古い分譲地の一角。
距離にすると数百メートル程度の距離を、一人で歩く。
道は二車線のきちんとした国道だが、通る車は一台もなく、無数のカエルが恋を鳴き交わす音だけが押し寄せてくる。
少し強い風が、広い田んぼ一面を揺さぶりながら吹き抜けて、稲の葉を鳴らす。
「静かだ……」
俺は足を止めて、居待月を見上げる。
ひときわ大きな風が、俺の体に叩きつけるようにして吹き抜けていった。
だが、
だが……
葉ずれの音はしなかった。
あれほど鳴いていたカエルの声も、今はひとつも聞こえない。
俺は不安になって、意味もなく「あー、あー」と声を出してみた。
喉は震える。
舌先に音の振動を感じる。
だが、そこにあるべきはずの声は、ひとつも俺の耳には聞こえない。
そっと心臓に手を当てる。
鼓動は手のひらに伝わるのに、その音は、やはり聞こえない。
耳鳴りすら許されないほどの静寂。
世界は完全なる静寂に包まれた。
遠くから、車のヘッドライトが近づいてくる。
走行音はひとつも聞こえない。
いや、今どきのハイブリットカーは静かだから、こんなに距離があってはそりゃエンジン音も聞こえないだろう。
そんな期待を込めて白いヘッドライトの光を見つめる。
だが、車が俺の真横を通り過ぎ、そして走り去るまで、エンジンオンどころかタイヤの軋みすら聞こえなかった。
俺は戦き、震えて、大地に膝をつく。
――アガネ様。
平伏して、額を硬いアスファルトに擦り付ける。
俺の胸の中にあったのは原初的な畏怖であり、生存のための強い欲求であり、そして、未知に対する単純な恐怖でもあった。
もう、顔を上げる勇気などひとつもない。
視界の端に、石ころがひとつ、何かに蹴り上げられたかのように軽く跳ね上がり、そしておちた、
もちろん、なんの音も立てずに。
俺はぎゅっと強く、強く目を閉じて、額を地面に擦り付ける。
自分の生存の寄る辺となるはずの呼吸の音も、心臓の音も聞こえない。
完全なる暗闇と完全なる静寂が、否応なしに死を連想させる。
ただひとつ、額に感じる痛みだけが、俺がまだ死者ではないことを証明する唯一の証。
俺は、わざと痛みを感じるように額をアスファルトに擦り付ける。
どれぐらいの間そうしていただろうか、俺の頬を風が撫でた。
いや、風よりももっと具体的な柔らかさを感じる、何かが、俺の横をすり抜けてゆく、そんな感覚。
唐突に風が吹いた。
そして、世界中の音が戻ってきた。
無数のカエルの鳴く声。
風の音。
そして、俺の呼吸の音と心音。
どこか遠くで、小さな鈴の音が聞こえた、そんな気がした。
俺は、顔を上げる勇気もなく、ただ一刻も早く都会に帰りたいと、そう思っていた。




