第7章 崩落の前奏曲、立春の断崖
【摩耗する肉体と、偽りの微笑み】
信州・松本の冬は、冷気が皮膚を突き抜け、骨の芯まで凍てつかせる。
かつて名古屋の喧騒から逃れ、ようやく手にした進との慎ましい暮らし。
それは千夜子にとって、何物にも代えがたい宝物だった。
しかし、その「平穏」という名の果実は、千夜子自身の肉体を土壌とし、その命を養分として咲かせた、危うい徒花に過ぎなかった。
千夜子は38歳になっていた。
女手一つで進を育て、教育を受けさせる。
その執念が、彼女を深夜の立ち仕事へと駆り立てた。
経営する小さな呑み屋のカウンターに立ち、客の機嫌を取り、酒を運ぶ。
そして、終わりのない洗い物に指先をふやかす。
店を閉め、松本の静まり返った街を自転車で帰る頃には、東の空が白み始めていることも珍しくなかった。
独りで家計を支えるという重圧は、目に見えない巨大な岩となって、日ごとに千夜子の背中にのしかかった。
その過酷な労働は、千夜子の肉体を内側から確実に、そして無慈悲に蝕んでいた。
【異変の予兆】
身体の悲鳴は、まず「痺れ」という形で現れた。
ある日、厨房で包丁を握っていた千夜子の右手が、突如として意志を失った。
指先が自分の物ではないような、遠い感覚。
あるいは、真冬の湖に手を入れた時のような、鈍い麻痺。
またある夜、仕事帰りの自転車で段差に足を取られ、激しく転倒したことがあった。
アスファルトに膝を打ちつけ、ストッキングが破れて鮮血が滲んでいる。
普通なら激痛に顔をしかめるはずの場面で、千夜子はただ呆然とその傷口を見つめていた。
痛みがないのだ。
自分の肉体が損壊しているという事実を、神経が脳に伝えることを拒絶している。
その異変に、千夜子は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
常に異常な高数値を叩き出す血圧計の数字は、命を繋ぐ血管という細い管が、今にも破裂しようとしている断末魔の悲鳴だった。
けれど、千夜子は病院へは行かなかった。
診察を受ければ「即入院」を宣告されることは目に見えていた。
何より、そのための費用を進の学費や参考書代に回したかった。
「……大丈夫。まだ、走れるわ」
千夜子は自分自身に言い聞かせ、鏡の前で頬を叩いた。
強く叩いても、頬に感覚がない。
それでも千夜子は、進の前では、決して疲れを見せてはならないと思った。
進が安心して机に向かい、本を読み、知識を血肉にできるこの環境を守ることこそが、自分の存在意義なのだ。
店から戻り、寝静まった進の寝顔を見る時だけが、千夜子の心が「女」や「労働者」から解放され、「母」という唯一の誇りに戻れる瞬間だった。
千夜子は時折、原因不明の頭痛にも襲われた。
クスリを飲むこともあり、酒で誤魔化すこともあった。
夜、疲れているのに眠れない。
そんなときは、信州の清酒「真澄」を一口呑んで、ドラえもんを読んだ。
進に内緒で、コッソリドラえもんを借りて読んでいたのだ。
ドラえもんのひみつ道具の話が、千夜子を空想の世界へと誘う。
「こんな道具が本当にあったらなあ」
千夜子は、そんなことを考えながら、明け方になってようやく眠りにつくのだった。
【忍び寄る「色彩の消失」】
進が中学二年生に進級し、季節が冬から春へと移ろおうとする立春の日。
暦の上では春が訪れるはずのその日、松本の街にはまだ硬い雪が残っていた。
千夜子はいつものように、朝の光の中で進を送り出した。
「行ってらっしゃい、進。クルマに気を付けるんだよ」
その微笑みは、血を吐くような努力で維持された、奇跡のような均衡だった。
進の後ろ姿を見送りながら、千夜子はふと、視界の端がわずかに揺らぐのを感じた。
まさか、これが進との別れになるとは。
それは千夜子も、息子の進もまだ知らない残酷な近未来だった。
これまで積み重ねてきた「無理」という名の不渡り手形が、一気に突きつけられる瞬間が近づいていた。
知らぬ間に背後に忍び寄っていた運命の足音。
それは、進の人生からあらゆる色彩を奪い去り、世界を一面の灰色に変えてしまうほどの、あまりに無慈悲な悲劇の予兆だった。
千夜子は、自分の命が尽きかけていることよりも、自分が倒れた後に一人取り残される進の行く末を案じ、静かに心臓の鼓動を数えた。
血管を流れる血液の音。
それは、春を待つ雪解けの川の音ではなく、巨大なダムが崩落する直前の、鈍く低い震動に似ていた。
色彩に満ちた母子の時間は、その立春の日を境に、永遠の沈黙へと向かって滑り落ちようとしていたのである。
「長生きはできない。そんなことは分かっている」
千夜子は呟く。
「せめて、60まで生きたい。いや、50までで良い。そうすれば、進の行く末を見届けられる」
千夜子は、何者かに祈っていた。
かつて母・智代の位牌を投げつけ、壊したことを思い出した。
あの時は本気で、神も仏も信じないと誓っていた。
しかし、今、神でも仏でも、大宇宙でも、何でも良い。
とにかく、進のために1日でも長く生きたい。
それを叶えてくれるなら、何に対してでも祈りたい。
それが千夜子の切なる思いだった。
しかし、その願いが静かに否定される瞬間がすぐ近くにやってきていた。




