第4章
だが、その時のエルダの心は
晴れてはいなかった。
良い心と、悪い心。
二つが胸の中で揺れていた。
ある日。
エルダは町の片隅にある小さな店を訪れた。
古びた看板。
店の名は――
天秤屋ヴァロ。
ここは正邪を天秤にかけ答えを告げる店。
迷ったときここに来れば答えをもらえる、そんな店だった。
店の奥では、若者が静かに天秤を磨いていた。
こんな若者が答えを出せるというのか?
そう思いながらもエルダは軍服のまま椅子に座った。
そして率直に言った。
「ヴァロ。私は迷っている。」
若者は顔を上げない。
「聞かせてくれ。
私の道は間違っているのか?」
しばらく沈黙が続いた。
やがてヴァロは言った。
「あなたが一番分かっているはずです。」
エルダの眉が動く。
「適当なことを言うな。」
ヴァロは天秤を指先で揺らした。
皿が静かに揺れる。
「あなたは神の道を歩むはずでした。」
若者の声は静かだった。
「しかし今のあなたは、肉の生き方をしている。」
エルダの目が細くなる。
「このままでよいのか。
あなたはそれを迷っている。」
エルダは若者を見つめた。
「ヴァロ……お前は何者だ。」
その時。
店の中を、ふっと風が通り抜けた。
わずかな香り。
懐かしい匂い。
エルダの目がわずかに見開かれる。
「……そうか。」
静かに言った。
「同じ匂いを感じた。」
ヴァロは何も答えない。
エルダは続ける。
「それでどうすればいい?」
ヴァロは天秤を止めた。
「あなたは南へ道を整え、港町を築こうとしている。」
エルダは驚かなかった。
若者は続ける。
「あなたは町を作ることが得意です。」
そして静かに言った。
「セレーネス島へ行きなさい。」
エルダは眉を上げる。
「もしあなたに正しい心があるなら、
その島に渡れるでしょう。」
「もし渡れなければ?」
「神に祈るのです。」
エルダは立ち上がった。
「なるほど。」
小さく笑う。
「あなたも神に使わされたのだな。」
ヴァロは答えた。
「神はあなたを愛しておられます。」
そして言った。
「迷わず進みなさい。
しかし、自分の力に頼ってはなりません。」
エルダは何も言わず、店を出た。
彼は南への道を整えた。
森を切り開き、
橋を架け、
川を渡る道を作る。
やがて小さな港町に着いた。
そこもまた、
エルダの手で変わった。
桟橋が伸び、
船が増え、
市場が生まれる。
港は栄えた。
だが海の向こうにあるという
セレーネス島には――
どうしても渡れなかった。
エルダは何度も船を出した。
軍を率いて。
だが不思議なことに、
島へ近づくと船は進まない。
嵐でもない。
波でもない。
ただ、見えない力が押し返す。
「……私の力でも無理か。」
エルダは夜の海を見つめた。
そして膝をついた。
久しぶりだった。
神に祈るのは。
「ヤハ……」
海風が吹く。
その時、声があった。
静かな声。
「一人で行くがよい。」
エルダは顔を上げた。
「そうすれば渡れる。」
翌朝。
エルダは一人、小舟に乗った。
誰も連れていない。
ただ海へ出る。
不思議なことに、
今度は波が道を開いた。
船はまっすぐ進んだ。
やがて島が見える。
セレーネス島。
そこは普通の町だった。
城もなければ王もいない。
山に囲まれ、
洞窟に住む者さえいる。
エルダは村人に尋ねた。
「この地を治める者は誰だ。」
村人は笑った。
「特におらん。」
そして言った。
「だが……」
「あの山の洞窟に老人がいる。」
「百年どころか……」
「数百年生きているんじゃないかと言われている。」
エルダは山を見上げた。
洞窟の入口が、
黒く口を開けている。
彼は静かに歩き始めた。
洞窟の奥は静かだった。
岩壁から水が滴り、
遠くで風が唸っている。
そこに、一人の老人が座っていた。
痩せた体。
深い皺。
だがその目は、長い時を見てきた者の光を宿している。
エルダは洞窟の入口に立った。
しばらく、二人は何も言わなかった。
やがて老人が口を開く。
「来たか。」




