第3章
娘の死の翌朝。
エルダは森の境界に立っていた。
北の森は深い。
霧が絡み、光を飲み込む。
彼は両手を大地に置いた。
土が震える。
石が隆起し、根が絡み合う。
木々はねじれ、絡まり、
人が通れる隙間は消えた。
見えぬ壁。
誰も越えられない境界。
森は閉ざされた。
ズート族は二度と来なかった。
村は守られた。
だが――
彼の中で、何かは戻らなかった。
理性が切れたままだった。
子どもたちは育つ。
自分の血を引く者たち。
強く、しぶとく、
どこか鋭い目をしている。
(これ以上、増やしてはならない)
エルダは再び、夜明け前に村を去った。
今度は、振り返らなかった。
南へ。
風は湿り気を帯び、
やがて潮の匂いが漂い始める。
そこは寂れた入り江だった。
朽ちた桟橋。
波に揺れる壊れた舟。
漁は乏しく、人は減り、
港は忘れられかけていた。
エルダは、海を見つめた。
広い。
静かで、暴力的だ。
彼は木を切り、
桟橋を組み直した。
船を作った。
流れを読み、
魚群を見抜き、
沖へ出る方法を教えた。
漁は増えた。
腹を空かせていた者が、笑うようになった。
人が集まる。
火が増える。
市場ができる。
その港は、やがて名を持つ。
後にオスティアと呼ばれる地。
エルダは何も名乗らない。
ただ、そこにいる。
まだ、彼の中には
わずかに良い心が残っていた。
だが、繁栄は匂いを放つ。
荒くれ者が海を渡ってきた。
武器を振り回し、
魚を奪い、
女を脅し、
子どもを蹴飛ばす。
エルダは立った。
最初は、追い払った。
拳で、船ごと。
海に投げ捨てる。
それで足りた。
だがある日。
荒くれ者のボスが、
笑いながら刃を向けた。
「神様ごっこは終わりだ。」
その瞬間。
エルダの手が、喉を掴んでいた。
骨が軋む。
ボスは動かなかった。
静まり返る浜辺。
波の音だけが響く。
仲間たちは船に逃げ込む。
「コリントスへ戻る!」
叫び声が遠ざかる。
エルダは、迷わなかった。
その船に乗った。
「……あんたがボスだ。」
その言葉。
胸の奥で、何かが揺れた。
ボス。
命じれば動く者たち。
従う目。
恐れ。
敬意。
その混ざった視線が、
心地よかった。
コリントスの港は賑わっていた。
だが裏通りは腐っていた。
同じ顔。
同じ目。
奪い、笑う者たち。
エルダは、一掃した。
逃げる者も、許さなかった。
目は、もう光を宿していなかった。
神の気配は遠い。
だが、代わりに別の熱があった。
「町は守る。」
彼は言った。
「無駄に壊すな。奪うな。」
自らを自警団と名乗る。
だが武器は増え、
船は強くなり、
仲間は膨れ上がる。
やがて港を越え、
街を越え、
大地を制圧していった。
彼はその大陸に名を与える。
アウレリア。
誰も逆らえない名。
守るために始めた力は、
今や拡大を止めない。
それでも彼は思っている。
「これは秩序だ。」
だがその目は、もうかつてのエルダではない。
灯は、消えかけていた。
エルダは南へと進んだ。
海を背に、川を越え、丘を越え、
軍となった仲間たちを率いて進み続けた。
ある日、彼は広大な平原に出た。
果てしなく開けた土地。
緑が波のように揺れている。
その中央を、大きな川が流れていた。
山から流れ出た水がいくつも合流し、
やがて四方へ分かれていく。
東へ。
西へ。
南へ。
北へ。
どこへ向かうにも、この地を通る。
エルダはしばらく黙って立っていた。
「ここだ。」
その一言で、すべてが動いた。
平原に点在していた小さな村は解体された。
だが人々は殺されなかった。
「町を作る。」
エルダはそう言った。
石を運び、川を整え、
橋を架け、道を伸ばす。
川は掘り広げられ、
舟が行き交う水路となった。
東西南北、どの土地とも物資が流れる。
やがて町は巨大になった。
市場が立ち、
倉庫が並び、
兵舎が建つ。
仲間だった者たちは、
いつしか軍隊になっていた。
この町は後に帝都となる。
アウリシア。




