第2章
いくつもの丘を越え、
深い森を抜けると、村があった。
その地は、
妙に静かだった。
畑に立つのは、ほとんどが女性。
井戸端に集うのも、女たち。
男の姿は、まばらだった。
やがて理由を知る。
戦だった。
遠い争いで、多くの男が死んだ。
残ったのは、年老いた者と、幼い子だけ。
エルダは頼られた。
重い荷を運び、
壊れた屋根を直し、
森の獣を追い払う。
彼の力は隠しきれなかった。
だがそれ以上に、
彼の静かな眼差しが、女たちを安心させた。
ある日、長老に呼ばれた。
囲炉裏の火が赤く揺れている。
「エルダさん。」
長老の声は低い。
「見ての通り、この村を守れる男が少ない。このままでは、いずれ消えてしまう。」
火のはぜる音だけが響く。
「あなたは、なぜ結婚せぬ。」
エルダは目を伏せる。
「……理由は、言えません。」
長老はしばらく黙り、やがて言った。
「村の娘と結婚してくれぬか。」
火の光が、エルダの瞳に映る。
「それは……できません。」
「なぜだ。」
「私は、ヤハの喜ばれることをしたいのです。」
長老は静かに首を振る。
「結婚は誉れあることだと、あなたの書にもあるではないか。」
言葉が詰まる。
その通りだ。
だが――
私は、人間ではない。
その時だった。
戸が勢いよく開く。
男が、息を切らして飛び込んできた。
「村の娘が……襲われました!」
空気が凍る。
エルダと長老は立ち上がり、駆けた。
森の縁。
草の上に、娘が横たわっている。
衣は裂け、
身体は傷だらけだった。
目は、もう何も映していない。
「北の森のズート族です。」
震える声が言う。
「若い女を奪い、殺していく……」
エルダの胸が、焼けるように熱くなる。
「なぜ……」
誰にともなく問う。
「森は深く、来るのも命がけだ。それでも来る。欲を満たすために。」
人間には、自制がないのか。
あの天使の囁きが、脳裏をよぎる。
欲望。
疑い。
歪み。
長老が、震える手でエルダの袖を掴む。
「頼む……結婚してくれ。この村の女たちを守るために。子を残してくれ。」
分かっていた。
祈れば、答えはひとつ。
自分は、そのために地上に来たのではない。
だが――
娘の冷たい手が、視界に入る。
その瞬間。
胸の奥で、何かが切れた。
静かに、しかし確かに。
エルダは顔を上げる。
その瞳には、これまで見せたことのない光が宿っていた。
この村には、古くからの掟があった。
村の者は、村の者としか結婚してはならぬ。
外の血を入れてはいけない。
それを定めたのは――エルダだった。
純潔という意味のニキと村の名前を決めた。
それを条件に
エルダは受け入れた。
自分の血を広げぬため。
天の血を、地に混ぜぬため。
それが、彼の最後の線だった。
娘が殺された夜。
森は、異様に静かだった。
エルダは遺体のそばに立ち尽くしていた。
冷たい頬。
握りしめられた拳。
守れなかった。
あの森の奥まで、彼は感じ取れていたはずだ。
気配も、殺意も。
だが動かなかった。
「人間の争いに深入りするな」
自分に言い聞かせていたからだ。
その理性が、音を立てて崩れた。
長老の声が、背後から震える。
「頼む……子を残してくれ……」
村の女性たちはエルダの優しさと力強さを知っている。
守ってくれる存在。
エルダは空を見上げた。
ヤハの気配は、静かだった。
沈黙。
答えは来ない。
ならば――
自分で選ぶと決めた。
最初は、一人だった。
エルダはその手を取った。
彼の掌は温かかった。
その夜、彼は境界を越えた。
それは欲ではなかった。
だが、怒りでもなかった。
何かを守ろうとする、歪んだ決意だった。
やがて、二人目。
三人目。
村は沈黙のうちに、それを受け入れた。
掟はあった。
だが掟を作ったのは彼だ。
誰も止められなかった。
子どもたちが生まれた。
目の強い子。
異様に丈夫な子。
寒さに強く、病に倒れぬ子。
女たちはエルダに感謝した。
村は息を吹き返した。
笑い声が増え、火の灯りが増えた。
だがエルダの胸は、軽くならなかった。
子どもたちが走る姿を見るたびに、
血が広がっていくのを感じた。
(これでよかったのか)
彼は知っていた。
自分は天使だ。
この血は、地上に留まるものではない。
だからこそ――
子どもたちが大きくなった頃。
エルダは、静かに村を離れた。
夜明け前だった。
誰にも告げず。
最後に振り返る。
ニキの村には灯りがともっている。
守れた。
だが――
何かを失った。
彼は南へ向かった。
森を越え、丘を越え。
背後で、子どもの笑い声が風に乗って消えていく。
理性を切った男は、
今度は自分を切り離すことで、
わずかな良心を守ろうとした。
その血が、やがてどんな物語を生むのか。
まだ誰も知らない。




