表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

第1章

夜明け前の森は、まだ色を持たなかった。


霧が低く流れ、羊の吐く息だけが白い。


その静寂を、かすかな震えが破った。


地面が、わずかに鳴る。


羊飼いの少年が顔を上げた。


「……今、揺れた?」


森の奥に、土煙が立っている。


男たちが棒を手に、ゆっくり近づいた。


焦げた土の中央に、ひとりの青年が横たわっていた。


焼けた跡があるのに、身体には傷がない。


ただ、目だけが澄みきっている。


青年はゆっくりと起き上がる。


息を吸う。


冷たい。


肺が痛い。


胸が重い。


(……生きている)


自分の手を見る。


指先に土がついている。


「おい、大丈夫か。」


屈強な男が肩に触れようとした。


その瞬間。


青年の目が鋭く光った。


「触れないで……」


静かな声だった。


だが男は思わず手を引いた。


「エルダ……?」


誰かが言った。


まだ言葉が出来上がる前の声がそう聞こえたようだった。


青年は、その音を聞く。


エルダ。


天での名は遠い。


ここでは、その名でいい。


白髪の老人が一歩出た。


「寒くないのか。」


青年は、少し考える。


寒い。


肌が震えている。


「……寒い。」


老人は振り返る。


「湯を。」


女たちが走る。


青年――エルダは、その背中を見ていた。


守ろうとする者たち。


それだけで、胸の奥がわずかに温かくなる。


数日後。


エルダは、崩れかけた柵の前に立っていた。


木は乾き、結び目はゆるんでいる。


彼は何も言わず、縄を結び直した。


子どもがじっと見ている。


「こうやるんだ。」


小さな手に、縄を持たせる。


夜には、水路のそばにしゃがみ込む。


指先で土を払う。


石を一つ動かす。


翌朝、水が少しだけ流れやすくなっている。


「昨日より、楽だな。」


誰かが言う。


エルダはただうなずく。


干からびた畑では、種を蒔く順番を変えた。


牛は風を避ける位置へ移し、


鶏小屋の屋根を少し高くした。


羊の毛を刈る手つきは、いつの間にか村人よりも上手くなっていた。


力は、確かに強かった。


大木を動かすこともできた。


だが彼は、なるべく使わない。


人が持てる重さは、人が持てばいい。


寒い夜、囲炉裏の火を囲む。


肉を焼く匂いが立ちのぼる。


「食わないのか。」


問われる。


エルダは肉を手に取る。


噛む。


脂が広がる。


「……うまい。」


男たちは笑う。


それだけで、十分だった。


ある日、子どもが転んだ。


膝から血が流れる。


エルダはしゃがみ、布でそっと拭いた。


「泣くな。」


優しく言う。


子どもは涙を止める。


それを見ていた母親が、深く頭を下げた。


エルダは、少し困った顔をする。


感謝される理由が分からない。


ただ、目の前の痛みが減ればいいと思っただけだった。


冬を越えた頃。


村は少しだけ変わっていた。


道は歩きやすくなり、


水は澄み、


家の隙間風は減った。


争う声も、前より小さい。


「エルダのおかげだ。」


誰かが言う。


彼は首を振る。


違う。


みんながやったのだ。


自分は、少し手を貸しただけ。


それでも――


人々はこの村を、いつしかこう呼ぶようになった。


エルダ村。


空から落ちてきた青年の名を、


この地の名にした。


エルダは、空を見上げる。


遠い。


だがもう、帰りたいとは思わなかった。


ここには、寒さがあり、空腹があり、


笑い声がある。


それで、よかった。


月日は静かに流れた。


春は芽吹き、夏は実り、


秋は風を運び、冬はすべてを白く覆う。


エルダは森を歩き、川辺に座り、


季節の移ろいを飽きることなく見つめていた。


自然は変わる。


だが、彼は変わらない。


子どもは少年になり、


少年は青年となり、


やがて父となる。


老人は背を丸め、


ある朝、静かに息を引き取る。


墓の前で泣く声を、エルダは何度も聞いた。


自分だけが、若いままだった。


病にもならず、


皺も増えない。


夜、水面に映る自分の顔を見つめる。


(私は……何者だ)


村人たちの視線が、少しずつ変わっていくのを感じていた。


「エルダさんは、変わらないな」


冗談のように言う者もいれば、


目を逸らす者もいた。


彼は、人との距離を少しずつ広げた。


結婚の話が出るたび、やんわりと断った。


人間と関係を持つことは許されない。


秩序が壊れる。


それを前にも見ていた。


天での争いの記憶が、胸の奥に残っている。


あの強い天使は、人間に囁いた。


疑いを、欲望を。


だから自分は違う道を歩むと決めた。


神の言葉だけを伝え、


争わず、奪わず、


平和を静かに灯す。


それだけでよかった。


だが――


疑念が形になる前に、


エルダは村を去った。


誰にも告げず、夜明け前に。


背後で犬が一度だけ吠えた。


西へ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ