第8話『早すぎた希望と、ズレた破滅フラグ』
夕焼けに染まるアストラリス学園。
金色の光が、白い大理石の廊下をやわらかく照らしていた。
本来ならば、穏やかな放課後。
だが今日に限っては——どこか空気が違う。
ざわめき。
ひそひそと交わされる貴族たちの声。
そして、その中心に立つのは——
アリア・ヴァレンシュタイン。
公爵令嬢にして、“悪役令嬢”と呼ばれる少女。
「——これより先、我々の婚約は破棄する。」
その一言は、あまりにもあっさりと告げられた。
だが、その場にいた全員にとっては——重すぎる宣告だった。
空気が、凍る。
誰もが息を呑み、ただその場を見守る。
王子の隣には、一人の少女が立っていた。
細く整った姿。
控えめな微笑み。
一見すれば、守ってあげたくなるような存在。
——だが。
(……は?)
アリアの思考が、一瞬止まる。
いや、正確には——止まりかけて、無理やり再起動した。
(ちょっと待って。)
(待って待って待って待って。)
(いや今のセリフ、完全にアレでしょ!?)
胸が、ドクンと大きく跳ねた。
これは知っている。
知りすぎている。
何度も見た。
何度もプレイした。
(これ、“婚約破棄イベント”だよね!?)
(うん、間違いない。)
(ここで悪役令嬢が断罪されて、ヒロインが——)
視線が、ゆっくりと王子の隣へ向く。
そして。
(……誰?)
沈黙。
心の中だけが、完全に崩壊した。
(いやいやいやいやいや。)
(誰!?マジで誰!?)
(あんな子、データにいなかったんだけど!?)
もう一度見る。
何度見ても、知らない顔。
記憶をフル回転させても、ヒットしない。
(隠しキャラ?)
(いや、そんなの聞いてない。)
(追加コンテンツ?DLC?)
(いやここ異世界なんだけど!?アップデートとかある!?)
(……バグ?)
その結論に至った瞬間。
アリアの中で何かが弾けた。
(バグじゃん!!!!!!)
(完全にバグじゃんこれ!!!!!!)
周囲の貴族たちは息を潜めている。
だが、そんなことは関係ない。
今、アリアの中では大惨事が起きていた。
(いや待って、整理しよう。)
(私は今、婚約破棄された。)
(これはOK。むしろ望んでた。)
(問題は——)
(相手が違う。)
(致命的に違う。)
(弾が外れてるどころじゃない。)
(狙撃したら、隣の国に当たってるレベル。)
それでも。
外側のアリアは、微動だにしない。
ゆっくりと顎を上げる。
まるで、すべてを受け入れているかのように。
「……そうですか。」
その声は、冷静で、澄んでいた。
「殿下のご意思であれば、従いましょう。」
完璧な対応。
完璧な令嬢。
誰もがそう思った。
だが。
(いや無理無理無理無理無理!!!!!!)
(全然受け入れてないからね!?)
(内心パニック通り越して爆発してるからね!?)
(なんで!?どうしてこうなった!?)
(私、フラグ折ったよね!?ちゃんと避けたよね!?)
(なのにこれ!?)
王子の隣の少女が、わずかに微笑む。
その表情は、どこか勝ち誇ったようで——
(うわなんか勝者みたいな顔してる。)
(いや君ヒロインじゃないよね!?)
(ポジション間違ってるよ!?席そこじゃないよ!?)
(というか——)
(これ、まずくない?)
アリアは気づき始めていた。
ゆっくりと。
確実に。
(イベントがズレてるってことは……)
(この先もズレるってことでしょ?)
(……未来、読めなくない?)
その瞬間。
背筋に、冷たいものが走る。
(それ、普通に詰みでは?)
ドレスの裾を、わずかに握る。
ほんの一瞬だけ。
誰にも気づかれないほど、微かに。
(落ち着け。)
(まだ終わってない。)
(むしろ——)
(ここからが本番。)
アリアは静かに背を向ける。
一度も振り返らない。
その姿は、まるで感情を持たない女王のようだった。
だがその内側では——
(……これは、もうゲームじゃない。)
(だったら——)
(私が、全部コントロールするしかないでしょ。)
夕焼けは、ゆっくりと夜に溶けていく。
そして。
世界は、静かに形を変え始めていた。
(運命は……もう壊れてる。)




